王維ー108
送 別 送 別
下馬飲君酒 馬を下りて君に酒を飲ましむ
問君何所之 君に問う 何(いずく)にか之(ゆ)く所ぞ
君言不得意 君は言う 意を得ず
帰臥南山陲 帰り臥す 南山の陲(ほとり)
但去莫復問 但だ去れ 復(ま)た問う莫(なか)れ
白雲無尽時 白雲は尽きる時無し
⊂訳⊃
馬を下りて 君に酒を飲ませよう
お尋ねするが 君は何処に行くのかね
君は答える 面白くもないので
南山のほとりに ひっこもうかと
では行きなされ 二度と尋ねたりなされるな
白雲は 尽きることなく立ち昇っている
⊂ものがたり⊃ 題は「送別」となっていますが、この詩は誰かを送る詩ではなく、みずからの心境を語る自問自答の架空の送別詩と思われます。五言六句の詩で外に出すような作品ではありません。
詩中に「南山」の語が出てきますが、終南山の省略であると同時に陶淵明の南山でもあります。王維は隠退して終南山の別業にひきこもるかどうか迷っており、行くなら行け、二度ともどっては来れないぞと決めかねているのです。最後にぽつんと、「白雲は尽きる時無し」と言っているところが、王維らしくて好ましいと思います。
王維ー109
過香積寺 香積寺を過(よぎ)る
不知香積寺 知らず 香積寺(こうしゃくじ)
数里入雲峰 数里 雲峰(うんぽう)に入る
古木無人逕 古木 人逕(じんけい)無し
深山何処鐘 深山 何処(いずこ)の鐘ぞ
泉声咽危石 泉声 危石(きせき)に咽(むせ)び
日色冷青松 日色 青松(せいしょう)に冷やかなり
薄暮空潭曲 薄暮 空潭(くうたん)の曲(くま)
安禅制毒龍 安禅 毒龍(どくりゅう)を制す
⊂訳⊃
香積寺への道と 知らないままに
雲わく峰の奥へ 踏み入った
古木は鬱蒼と茂り 奥山への径はたえ
どこからか 鐘の音が聞こえてくる
谷川は 岩に砕けてむせび泣き
日の光は 緑に映えてひややかである
日は暮れて ひと気のない淵のほとりに禅僧が
煩悩を閉じ込めるように 静かに坐している
⊂ものがたり⊃ 前年十月に洛陽を敗退した安慶緒は相州(河南省安陽市)の鄴城(ぎょうじょう)に拠点を構え兵六万を集めていましたので、朝廷は乾元元年(758)九月に九節度使の軍を鄴城に差し向けました。このころ杜甫が崔氏の東山草堂に招かれ、その西隣りにあった王維の輞川の別荘が無人であることを詩に詠っています。その詩のなかで「西荘の王給事」と言っていますので、王維はそのころ給事中の旧職に復していたようです。王維は輞川荘の門は閉じたまま、もっぱら終南山麓の別荘を利用していたようです。
当時、長安の南郊、長安県の神禾原(しんかげん)にあったとみられる香積寺を王維が訪れたのは、このころのことかもしれません。この五言律詩は王維の名作のひとつに数えられていますので、ご存じの方が多いでしょう。
王維ー110
酬郭給事 郭給事に酬(むく)ゆ
洞門高閣靄余暉 洞門(どうもん)高閣 余暉(よき)靄(あい)たり
桃李陰陰柳絮飛 桃李(とうり)陰陰として柳絮(りゅうじょ)飛ぶ
禁裏疎鐘官舎晩 禁裏(きんり)の疎鐘(そしょう) 官舎晩(く)れ
省中啼鳥吏人稀 省中の啼鳥(ていちょう) 吏人稀(まれ)なり
晨揺玉佩趨金殿 晨(あした)には玉佩を搖がして金殿に趨(おもむ)き
夕奉天書拝琑闈 夕べには天書(てんしょ)を奉じて琑闈(さい)を拝す
強欲従君無那老 強(し)いて君に従わんと欲すれども老いを那(いか)んともする無し
将因臥病解朝衣 将に臥病に因(よ)りて朝衣(ちょうい)を解かんとす
⊂訳⊃
並び立つ門や高殿 夕陽はかすみ
桃李は生い茂って 柳絮は乱れ飛ぶ
緩やかに流れる鐘の音 宮中の勤めがおわると
あたりには囀る鳥の声 人々の姿はまれとなる
夜明けには 佩玉をゆるがして宮殿におもむき
夕べには 詔勅を奉じて青琑の小門を拝す
そんな君に ついていきたいが老いには勝てず
病を理由に 辞職のことも考えている
⊂ものがたり⊃ 王維はこのころ輞川荘の一部を寺として寄進しています。亡き母と妻の菩提を弔うためです。寺は清源寺と名づけられ、壁には王維自身の手による輞川図が描かれていたそうですが、寺は残っていません。絵も亡んでいますが、王維が画家としても堪能であったことは文献によって知られています。
乾元二年(759)の春、いったん唐に復して幽州に駐屯していた史思明が安慶緒を助けると称して兵を出してきました。鄴城を包囲していた政府軍は、三月に相州の野で史思明の軍を迎え、一戦しましたが大敗してしまいました。援軍として鄴城に入った史思明は安慶緒を殺してその兵を奪い、大軍となって西進してきました。史思明軍は四月には洛陽に攻め入り、史思明は大燕皇帝を称します。
詩題の「郭給事」は王維の同僚の給事中でしょう。国家の危機に際して王維に贈った詩に対して答えたのが掲げた詩です。すでに六十一歳になっている王維は、あなたについてゆきたいが、老いのためについてゆけない、辞職のことも考えていると心境を述べています。
王維ー111
酬張少府 張少府に酬ゆ
晩年唯好静 晩年 唯だ静(せい)を好みて
万事不関心 万事 心に関せず
自顧無長策 自ら顧るに長策(ちょうさく)無く
空知返旧林 空しく旧林(きゅうりん)に返るを知りぬ
松風吹解帯 松風(しょうふう)吹けば 帯(おび)を解きて
山月照弾琴 山月(さんげつ)照らせば 琴を弾(だん)ずる
君問窮通理 君が窮通(きゅうつう)の理(り)を問わば
漁歌入浦深 漁歌(ぎょか)は浦(ほ)の深きに入ると
⊂訳⊃
年をとれば ただ静かであることがよく
世の中の すべてのことに関心がない
自ら顧ても すぐれた策とてなく
成す所なく もとの林にもどるだけと知る
松風が吹けば 襟元をくつろげ
明月が山に懸れば 琴をつまびく
世の栄達と困窮の理をお尋ねならば
ほら漁父の歌が 岸辺に深く聞こえているだろう
⊂ものがたり⊃ このころ張少府にも返礼の詩を贈っています。「少府」というのは県尉(県の治安担当)に対する敬称ですから、身分は王維よりも遥かに低く、年齢も若い詩人であったと思われます。若い詩人から「窮通の理」を問われて、王維はほとんど隠遁に近い心境を述べています。結びの「漁歌」は楚辞の「漁父」(ぎょほ)に出てくる詩句を踏まえるもので、王維はいまの世についてゆけないと言っているようです。
王維ー113
答張五弟 雑言 張五弟に答う 雑言
終南有茅屋 終南(しゅうなん)に茅屋(ぼうおく)有り
前対終南山 前に対す終南山(しゅうなんざん)
終年無客長閉関 終年客無くして 長く関(かん)を閉じ
終日無心長自閑 終日無心にして 長く自ら閑(かん)なり
不妨飲酒復垂釣 酒を飲み復(ま)た釣(つり)を垂るるを妨げず
君但能来相往還 君 但だ能(よ)く来らば 相(あい)往還せよ
⊂訳⊃
人生の終わり方 南の地に茅屋があり
前は終南山に対している
年中 客はなくて 長らく門を閉じ
終日 何も思わず のんびり過ごしている
酒を飲み 釣り糸を垂れるのはかまわない
君さえよかったら いつでもいらっしゃい
⊂ものがたり⊃ 乾元二年(760)は閏四月に改元があり、上元元年となります。洛陽は史思明軍に占領されたままです。そのころ王維は給事中から尚書右丞(正四品上)に昇進しています。三品階あがったことになりますが、仕事はむしろ実権のない閑職に移ったと言っていいでしょう。
そのころ旧友の張五弟が訪ねてきたいと言って来ました。張五は王維と兄弟の契りを結んでいましたので、弟と言っています。張五(五は排行)は天宝年間に刑部員外郎(従六品上)になりましたが、すでに官を辞して郷里に隠退していました。その郷里というのが宜城(河南省宜陽県)で、史思明軍の支配下にある城市です。張氏は敵中の街に住んでいたくないので、王維のところに世話になれないか尋ねて来たのかもしれません。冒頭の「終南」は終南山の略ではなく、「終・南」と区切って読むべきであるという説に従って訳しました。
送 別 送 別
下馬飲君酒 馬を下りて君に酒を飲ましむ
問君何所之 君に問う 何(いずく)にか之(ゆ)く所ぞ
君言不得意 君は言う 意を得ず
帰臥南山陲 帰り臥す 南山の陲(ほとり)
但去莫復問 但だ去れ 復(ま)た問う莫(なか)れ
白雲無尽時 白雲は尽きる時無し
⊂訳⊃
馬を下りて 君に酒を飲ませよう
お尋ねするが 君は何処に行くのかね
君は答える 面白くもないので
南山のほとりに ひっこもうかと
では行きなされ 二度と尋ねたりなされるな
白雲は 尽きることなく立ち昇っている
⊂ものがたり⊃ 題は「送別」となっていますが、この詩は誰かを送る詩ではなく、みずからの心境を語る自問自答の架空の送別詩と思われます。五言六句の詩で外に出すような作品ではありません。
詩中に「南山」の語が出てきますが、終南山の省略であると同時に陶淵明の南山でもあります。王維は隠退して終南山の別業にひきこもるかどうか迷っており、行くなら行け、二度ともどっては来れないぞと決めかねているのです。最後にぽつんと、「白雲は尽きる時無し」と言っているところが、王維らしくて好ましいと思います。
王維ー109
過香積寺 香積寺を過(よぎ)る
不知香積寺 知らず 香積寺(こうしゃくじ)
数里入雲峰 数里 雲峰(うんぽう)に入る
古木無人逕 古木 人逕(じんけい)無し
深山何処鐘 深山 何処(いずこ)の鐘ぞ
泉声咽危石 泉声 危石(きせき)に咽(むせ)び
日色冷青松 日色 青松(せいしょう)に冷やかなり
薄暮空潭曲 薄暮 空潭(くうたん)の曲(くま)
安禅制毒龍 安禅 毒龍(どくりゅう)を制す
⊂訳⊃
香積寺への道と 知らないままに
雲わく峰の奥へ 踏み入った
古木は鬱蒼と茂り 奥山への径はたえ
どこからか 鐘の音が聞こえてくる
谷川は 岩に砕けてむせび泣き
日の光は 緑に映えてひややかである
日は暮れて ひと気のない淵のほとりに禅僧が
煩悩を閉じ込めるように 静かに坐している
⊂ものがたり⊃ 前年十月に洛陽を敗退した安慶緒は相州(河南省安陽市)の鄴城(ぎょうじょう)に拠点を構え兵六万を集めていましたので、朝廷は乾元元年(758)九月に九節度使の軍を鄴城に差し向けました。このころ杜甫が崔氏の東山草堂に招かれ、その西隣りにあった王維の輞川の別荘が無人であることを詩に詠っています。その詩のなかで「西荘の王給事」と言っていますので、王維はそのころ給事中の旧職に復していたようです。王維は輞川荘の門は閉じたまま、もっぱら終南山麓の別荘を利用していたようです。
当時、長安の南郊、長安県の神禾原(しんかげん)にあったとみられる香積寺を王維が訪れたのは、このころのことかもしれません。この五言律詩は王維の名作のひとつに数えられていますので、ご存じの方が多いでしょう。
王維ー110
酬郭給事 郭給事に酬(むく)ゆ
洞門高閣靄余暉 洞門(どうもん)高閣 余暉(よき)靄(あい)たり
桃李陰陰柳絮飛 桃李(とうり)陰陰として柳絮(りゅうじょ)飛ぶ
禁裏疎鐘官舎晩 禁裏(きんり)の疎鐘(そしょう) 官舎晩(く)れ
省中啼鳥吏人稀 省中の啼鳥(ていちょう) 吏人稀(まれ)なり
晨揺玉佩趨金殿 晨(あした)には玉佩を搖がして金殿に趨(おもむ)き
夕奉天書拝琑闈 夕べには天書(てんしょ)を奉じて琑闈(さい)を拝す
強欲従君無那老 強(し)いて君に従わんと欲すれども老いを那(いか)んともする無し
将因臥病解朝衣 将に臥病に因(よ)りて朝衣(ちょうい)を解かんとす
⊂訳⊃
並び立つ門や高殿 夕陽はかすみ
桃李は生い茂って 柳絮は乱れ飛ぶ
緩やかに流れる鐘の音 宮中の勤めがおわると
あたりには囀る鳥の声 人々の姿はまれとなる
夜明けには 佩玉をゆるがして宮殿におもむき
夕べには 詔勅を奉じて青琑の小門を拝す
そんな君に ついていきたいが老いには勝てず
病を理由に 辞職のことも考えている
⊂ものがたり⊃ 王維はこのころ輞川荘の一部を寺として寄進しています。亡き母と妻の菩提を弔うためです。寺は清源寺と名づけられ、壁には王維自身の手による輞川図が描かれていたそうですが、寺は残っていません。絵も亡んでいますが、王維が画家としても堪能であったことは文献によって知られています。
乾元二年(759)の春、いったん唐に復して幽州に駐屯していた史思明が安慶緒を助けると称して兵を出してきました。鄴城を包囲していた政府軍は、三月に相州の野で史思明の軍を迎え、一戦しましたが大敗してしまいました。援軍として鄴城に入った史思明は安慶緒を殺してその兵を奪い、大軍となって西進してきました。史思明軍は四月には洛陽に攻め入り、史思明は大燕皇帝を称します。
詩題の「郭給事」は王維の同僚の給事中でしょう。国家の危機に際して王維に贈った詩に対して答えたのが掲げた詩です。すでに六十一歳になっている王維は、あなたについてゆきたいが、老いのためについてゆけない、辞職のことも考えていると心境を述べています。
王維ー111
酬張少府 張少府に酬ゆ
晩年唯好静 晩年 唯だ静(せい)を好みて
万事不関心 万事 心に関せず
自顧無長策 自ら顧るに長策(ちょうさく)無く
空知返旧林 空しく旧林(きゅうりん)に返るを知りぬ
松風吹解帯 松風(しょうふう)吹けば 帯(おび)を解きて
山月照弾琴 山月(さんげつ)照らせば 琴を弾(だん)ずる
君問窮通理 君が窮通(きゅうつう)の理(り)を問わば
漁歌入浦深 漁歌(ぎょか)は浦(ほ)の深きに入ると
⊂訳⊃
年をとれば ただ静かであることがよく
世の中の すべてのことに関心がない
自ら顧ても すぐれた策とてなく
成す所なく もとの林にもどるだけと知る
松風が吹けば 襟元をくつろげ
明月が山に懸れば 琴をつまびく
世の栄達と困窮の理をお尋ねならば
ほら漁父の歌が 岸辺に深く聞こえているだろう
⊂ものがたり⊃ このころ張少府にも返礼の詩を贈っています。「少府」というのは県尉(県の治安担当)に対する敬称ですから、身分は王維よりも遥かに低く、年齢も若い詩人であったと思われます。若い詩人から「窮通の理」を問われて、王維はほとんど隠遁に近い心境を述べています。結びの「漁歌」は楚辞の「漁父」(ぎょほ)に出てくる詩句を踏まえるもので、王維はいまの世についてゆけないと言っているようです。
王維ー113
答張五弟 雑言 張五弟に答う 雑言
終南有茅屋 終南(しゅうなん)に茅屋(ぼうおく)有り
前対終南山 前に対す終南山(しゅうなんざん)
終年無客長閉関 終年客無くして 長く関(かん)を閉じ
終日無心長自閑 終日無心にして 長く自ら閑(かん)なり
不妨飲酒復垂釣 酒を飲み復(ま)た釣(つり)を垂るるを妨げず
君但能来相往還 君 但だ能(よ)く来らば 相(あい)往還せよ
⊂訳⊃
人生の終わり方 南の地に茅屋があり
前は終南山に対している
年中 客はなくて 長らく門を閉じ
終日 何も思わず のんびり過ごしている
酒を飲み 釣り糸を垂れるのはかまわない
君さえよかったら いつでもいらっしゃい
⊂ものがたり⊃ 乾元二年(760)は閏四月に改元があり、上元元年となります。洛陽は史思明軍に占領されたままです。そのころ王維は給事中から尚書右丞(正四品上)に昇進しています。三品階あがったことになりますが、仕事はむしろ実権のない閑職に移ったと言っていいでしょう。
そのころ旧友の張五弟が訪ねてきたいと言って来ました。張五は王維と兄弟の契りを結んでいましたので、弟と言っています。張五(五は排行)は天宝年間に刑部員外郎(従六品上)になりましたが、すでに官を辞して郷里に隠退していました。その郷里というのが宜城(河南省宜陽県)で、史思明軍の支配下にある城市です。張氏は敵中の街に住んでいたくないので、王維のところに世話になれないか尋ねて来たのかもしれません。冒頭の「終南」は終南山の略ではなく、「終・南」と区切って読むべきであるという説に従って訳しました。