白居易ー180
懐江南三首 其一 江南を懐う 三首 其の一
江南好 江南好(よ)し
風景旧曾諳 風景 旧(もと)曾(かつ)て諳(そら)んず
日出紅花紅勝火 日出でて 紅花(こうか) 紅(くれない)火に勝り
春来江水緑如藍 春来たりて 江水 緑(みどり)藍(あい)の如し
能不憶江南 能(よ)く江南を憶わざらんや
⊂訳⊃
江南は好いところだ
風景は いつまでも忘れない
日が出ると 岸辺の花は火よりも紅く
春になると 流れは藍のように青くなる
このような江南を どうして懐わずにいられよう
⊂ものがたり⊃ 李訓らの反宦官運動は、ひそかに進められていました。太和八年(834)の夏、李党の李徳裕が宰相を免ぜられ、冬のはじめに李宗閔が河東道の南の任地から呼びもどされ、宰相になりました。再び牛党の政権になったのです。
この年、劉禹錫は和州(安徽省和県)刺史に転じ、再び江南に赴任しています。この人事異動が中央の政権交代と関係があるのか不明ですが、白居易は劉禹錫を励ますとともに、懐かしい江南を想い出して三首の詞を作っています。一句の字数が揃っていないことに注目してください。
白居易ー181
懐江南三首 其二 江南を懐う 三首 其の二
江南懐 江南を懐(おも)う
最憶是杭州 最も憶うは是(こ)れ杭州
山寺月中尋桂子 山寺(さんじ)の月中 桂子(けいし)を尋ね
郡亭枕上看潮頭 郡亭(ぐんてい)の枕上 潮頭(ちょうとう)を看(み)る
何日更重遊 何(いず)れの日か更に重ねて遊ばん
⊂訳⊃
江南は懐かしい
なかでも思い出すのは杭州だ
月夜の山寺で 桂の実を拾って歩き
官舎の離れで 大海嘯を寝床からみる
もう一度行って遊べるのは いつの日だろうか
⊂ものがたり⊃ 詞は太和九年(835)の春に作られた可能性があります。詩中の「海頭」は杭州湾で現在も起こる海潮現象で、海嘯と言っています。小海嘯はしばしば起こりますが、仲秋(旧暦八月十五日)の正午に起こる海嘯は最大のもので、大海嘯といいます。海の方から湾奥へ向かって押し寄せてくる波涛は壮観で、いまでは多くの観光客が、この壮大な海潮現象をみるために押し寄せるそうです。
白居易ー182
懐江南三首 其三 江南を懐う 三首 其の三
江南懐 江南を懐(おも)う
其次憶呉宮 其の次は呉宮(ごきゅう)を憶う
呉酒一杯春竹葉 呉酒(ごしゅ) 一杯の春竹葉(しゅんちくよう)
呉娃双舞酔芙蓉 呉娃(ごあ) 双舞(そうぶ)す酔芙蓉(すいふよう)
早晩復相逢 早晩(そうばん)復(ま)た相逢わん
⊂訳⊃
江南はなつかしい
つぎに思い出すのは呉の蘇州だ
呉の美酒は 一杯の竹葉春
美女が舞う 江南の酔芙蓉
近くまた お目にかかりたいものである
⊂ものがたり⊃ 「懐江南」は白居易が作った詞としては、はじめてのものです。詞は楽曲につけられた歌詞で、もともとは妓女のあいだで流行していたものでした。知識人である詩人が作れば、低俗と見られかねません。
詞は五代から宋代にかけて盛んになりますが、唐代の詩人の作としては珍しいものです。白居易が詩人として詞を作りはじめたというのは、白居易のものにこだわらない自由な精神のあらわれとみていいでしょう。
白居易ー183
池上二絶 其一 池上 二絶 其の一
山僧対棊坐 山僧(さんそう) 棊(き)に対して坐す
局上竹陰清 局上(きょくじょう) 竹陰(ちくいん)清し
映竹無人見 竹に映(えい)じて人の見る無し
時聞下子声 時に聞く 子(し)を下(おろ)す声
⊂訳⊃
山寺の僧 碁盤の前に坐し
盤上に 竹の葉かげは清らか
影の他に 見る人の姿はなく
ときどき 碁石を打つ音がする
⊂ものがたり⊃ 太和九年(835)の春、白居易の次女阿羅は二十歳になっていました。白居易は阿羅を監察御史(従八品上)の談弘謨(だんこうぼ)に嫁がせました。阿羅は白居易の唯一の実子ですので、白居易の血は阿羅の生む子に受け継がれることになります。そのあと三月に白居易は渭村の下邽(かけい)を訪れ、その地で母親の喪に服していた又従兄弟の白敏中(はくびんちゅう)に会っています。
白敏中は長慶元年(821)に進士に及第し、弟の白行簡が亡くなったいま、白敏中は一族の期待をになう星でした。春の終わりに洛陽にもどった白居易は、『白氏文集』六十巻の編集に取りかかります。「池上二絶」は文集をまとめるあいだの閑日月に成った小品ですが、佳作であると思います。
白居易ー184
池上二絶 其二 池上 二絶 其の二
小娃撑小艇 小娃(しょうあ) 小艇(しょうてい)を撑(あやつ)り
偸採白蓮廻 偸(ひそか)に白蓮(はくれん)を採って廻(かえ)る
不解蔵蹤跡 蹤跡(しょうせき)を蔵(かく)すを解せず
浮萍一道開 浮萍(ふひょう) 一道(いちどう)開く
⊂訳⊃
村の小娘 小舟をあやつり
こっそり 白蓮を採ってゆく
航跡を 消しておく知恵がないので
浮草に ひとすじの道
⊂ものがたり⊃ 『白氏文集』六十巻は夏の終わりにはまとまり、一本を江州廬山の東林寺に納め、他見無用の保管を依頼しています。白居易は自分の詩が散逸せずに残ることを望んでいました。
九月九日に白居易は同州(陝西省大荔県)刺史に任ぜられますが、病を理由に辞退しています。そこで改めて十月に太子少傅(正二品)分司東都に任ぜられ、馮翊県侯(ふうよくけんこう)を拝しました。爵位は侯爵に進んだのです。
都では野心家の李訓が反宦官の計画を推し進めていました。李訓は文宗の本心が宦官勢力の排除にあることを知っていましたので、実行の志を打ち明けて文宗の信頼を取り付けます。太和八年十月に李訓は周易博士から翰林講学士に抜擢され、さらに太和九年には宰相に任ぜられました。
懐江南三首 其一 江南を懐う 三首 其の一
江南好 江南好(よ)し
風景旧曾諳 風景 旧(もと)曾(かつ)て諳(そら)んず
日出紅花紅勝火 日出でて 紅花(こうか) 紅(くれない)火に勝り
春来江水緑如藍 春来たりて 江水 緑(みどり)藍(あい)の如し
能不憶江南 能(よ)く江南を憶わざらんや
⊂訳⊃
江南は好いところだ
風景は いつまでも忘れない
日が出ると 岸辺の花は火よりも紅く
春になると 流れは藍のように青くなる
このような江南を どうして懐わずにいられよう
⊂ものがたり⊃ 李訓らの反宦官運動は、ひそかに進められていました。太和八年(834)の夏、李党の李徳裕が宰相を免ぜられ、冬のはじめに李宗閔が河東道の南の任地から呼びもどされ、宰相になりました。再び牛党の政権になったのです。
この年、劉禹錫は和州(安徽省和県)刺史に転じ、再び江南に赴任しています。この人事異動が中央の政権交代と関係があるのか不明ですが、白居易は劉禹錫を励ますとともに、懐かしい江南を想い出して三首の詞を作っています。一句の字数が揃っていないことに注目してください。
白居易ー181
懐江南三首 其二 江南を懐う 三首 其の二
江南懐 江南を懐(おも)う
最憶是杭州 最も憶うは是(こ)れ杭州
山寺月中尋桂子 山寺(さんじ)の月中 桂子(けいし)を尋ね
郡亭枕上看潮頭 郡亭(ぐんてい)の枕上 潮頭(ちょうとう)を看(み)る
何日更重遊 何(いず)れの日か更に重ねて遊ばん
⊂訳⊃
江南は懐かしい
なかでも思い出すのは杭州だ
月夜の山寺で 桂の実を拾って歩き
官舎の離れで 大海嘯を寝床からみる
もう一度行って遊べるのは いつの日だろうか
⊂ものがたり⊃ 詞は太和九年(835)の春に作られた可能性があります。詩中の「海頭」は杭州湾で現在も起こる海潮現象で、海嘯と言っています。小海嘯はしばしば起こりますが、仲秋(旧暦八月十五日)の正午に起こる海嘯は最大のもので、大海嘯といいます。海の方から湾奥へ向かって押し寄せてくる波涛は壮観で、いまでは多くの観光客が、この壮大な海潮現象をみるために押し寄せるそうです。
白居易ー182
懐江南三首 其三 江南を懐う 三首 其の三
江南懐 江南を懐(おも)う
其次憶呉宮 其の次は呉宮(ごきゅう)を憶う
呉酒一杯春竹葉 呉酒(ごしゅ) 一杯の春竹葉(しゅんちくよう)
呉娃双舞酔芙蓉 呉娃(ごあ) 双舞(そうぶ)す酔芙蓉(すいふよう)
早晩復相逢 早晩(そうばん)復(ま)た相逢わん
⊂訳⊃
江南はなつかしい
つぎに思い出すのは呉の蘇州だ
呉の美酒は 一杯の竹葉春
美女が舞う 江南の酔芙蓉
近くまた お目にかかりたいものである
⊂ものがたり⊃ 「懐江南」は白居易が作った詞としては、はじめてのものです。詞は楽曲につけられた歌詞で、もともとは妓女のあいだで流行していたものでした。知識人である詩人が作れば、低俗と見られかねません。
詞は五代から宋代にかけて盛んになりますが、唐代の詩人の作としては珍しいものです。白居易が詩人として詞を作りはじめたというのは、白居易のものにこだわらない自由な精神のあらわれとみていいでしょう。
白居易ー183
池上二絶 其一 池上 二絶 其の一
山僧対棊坐 山僧(さんそう) 棊(き)に対して坐す
局上竹陰清 局上(きょくじょう) 竹陰(ちくいん)清し
映竹無人見 竹に映(えい)じて人の見る無し
時聞下子声 時に聞く 子(し)を下(おろ)す声
⊂訳⊃
山寺の僧 碁盤の前に坐し
盤上に 竹の葉かげは清らか
影の他に 見る人の姿はなく
ときどき 碁石を打つ音がする
⊂ものがたり⊃ 太和九年(835)の春、白居易の次女阿羅は二十歳になっていました。白居易は阿羅を監察御史(従八品上)の談弘謨(だんこうぼ)に嫁がせました。阿羅は白居易の唯一の実子ですので、白居易の血は阿羅の生む子に受け継がれることになります。そのあと三月に白居易は渭村の下邽(かけい)を訪れ、その地で母親の喪に服していた又従兄弟の白敏中(はくびんちゅう)に会っています。
白敏中は長慶元年(821)に進士に及第し、弟の白行簡が亡くなったいま、白敏中は一族の期待をになう星でした。春の終わりに洛陽にもどった白居易は、『白氏文集』六十巻の編集に取りかかります。「池上二絶」は文集をまとめるあいだの閑日月に成った小品ですが、佳作であると思います。
白居易ー184
池上二絶 其二 池上 二絶 其の二
小娃撑小艇 小娃(しょうあ) 小艇(しょうてい)を撑(あやつ)り
偸採白蓮廻 偸(ひそか)に白蓮(はくれん)を採って廻(かえ)る
不解蔵蹤跡 蹤跡(しょうせき)を蔵(かく)すを解せず
浮萍一道開 浮萍(ふひょう) 一道(いちどう)開く
⊂訳⊃
村の小娘 小舟をあやつり
こっそり 白蓮を採ってゆく
航跡を 消しておく知恵がないので
浮草に ひとすじの道
⊂ものがたり⊃ 『白氏文集』六十巻は夏の終わりにはまとまり、一本を江州廬山の東林寺に納め、他見無用の保管を依頼しています。白居易は自分の詩が散逸せずに残ることを望んでいました。
九月九日に白居易は同州(陝西省大荔県)刺史に任ぜられますが、病を理由に辞退しています。そこで改めて十月に太子少傅(正二品)分司東都に任ぜられ、馮翊県侯(ふうよくけんこう)を拝しました。爵位は侯爵に進んだのです。
都では野心家の李訓が反宦官の計画を推し進めていました。李訓は文宗の本心が宦官勢力の排除にあることを知っていましたので、実行の志を打ち明けて文宗の信頼を取り付けます。太和八年十月に李訓は周易博士から翰林講学士に抜擢され、さらに太和九年には宰相に任ぜられました。