杜牧ー103
秋浦途中 秋浦の途中
蕭蕭山路窮秋雨 蕭蕭(しょうしょう)たり 山路(さんろ) 窮秋(きゅうしゅう)の雨
浙浙渓風一岸蒲 浙浙(せきせき)たり 渓風(けいふう) 一岸(いちがん)の蒲(がま)
為問寒沙新到雁 為(ため)に問う 寒沙(かんさ) 新たに到れる雁(がん)に
来時還下杜陵無 来たる時 還(は)た杜陵(とりょう)に下りしや無(いな)やと
⊂訳⊃
山路に 晩秋の雨は降りやまず
谷風は 岸辺の蒲に寂しげに吹く
寒い水辺の砂浜に 降りたばかりの雁たちよ
ここへ来るときに わが杜陵に寄ってきたのか
⊂ものがたり⊃ 不満ではあっても官吏の身、告身(辞令書)にさからうことはできません。杜牧は任地に赴かざるを得ず、すぐに黄州を発ちます。詩題の「秋浦」(しゅうほ)は池州の治所のある秋浦県のことで、池州に赴任する途中の作です。
「山路」を越えてゆくのは、大別山南麓の丘を越えてゆくのでしょう。やがて水辺に到着し、岸辺の砂浜に降り立った雁に、都に立ち寄ってきたのかと問いかけます。「杜陵」は長安の東南郊外にあって、京兆府の杜氏の本拠の地です。杜牧は岸辺の雁にことよせて、都への恨みの言葉をつぶやくのでした。
杜牧ー104
哭李給事中敏 李給事中敏を哭す
陽陵郭門外 陽陵(ようりょう) 郭門(かくもん)の外
坡陁丈五墳 坡陁(はた)たり 丈五(じょうご)の墳(ふん)
九泉如結友 九泉(きゅうせん) 如(も)し友を結ばば
茲地好埋君 茲(こ)の地 君を埋(うず)むるに好(よろ)し
⊂訳⊃
陽陵県城の門外に
小さな盛土 一丈五尺の墓がある
あの世で君が 誰かと友になるのなら
朱雲と一緒に 葬ってこそ似つかわしい
⊂ものがたり⊃ 杭州刺史の李中敏(りちゅうびん)が任地で亡くなったという報せを聞いたのは、このころのことでしょう。李中敏は杜牧が江西観察使沈伝師(しんでんし)に仕えていたころの同僚で、文宗側近の鄭注(ていちゅう)を批判して職を免ぜられたほどの硬骨漢でした。
甘露の変後、赦されて尚書省吏部の司勲員外郎に召され、累進して門下省の給事中に登用されましたが、そこでまた宦官の仇士良(きゅうしりょう)と衝突しました。左遷されて婺州(ぶしゅう:浙江省金華市)刺史から杭州刺史になっていましたが、任地で没してしまいました。
詩中にある「陽陵」は平陵のあやまりで、漢代の朱雲(しゅうん)の墓は昭帝の平陵のほとりにありました。朱雲は権勢を恐れなかったことで有名な人物でしたので、その近くに葬るのがふさわしいと、李敏中の死を悼むのでした。
杜牧ー105
江上雨寄崔碣 江上の雨 崔碣に寄す
春半平江雨 春の半(なか)ば 平江(へいこう)に雨ふり
円文破蜀羅 円文(えんぶん) 蜀羅(しょくら)を破る
声眠篷底客 声は篷底(ほうてい)の客を眠らせ
寒湿釣来蓑 寒さは釣来(ちょうらい)の蓑(みの)を湿(うるお)す
暗澹遮山遠 暗澹(あんたん)として 山を遮(さえぎ)りて遠く
空濛着柳多 空濛(くうもう)として 柳に着(つ)いて多し
此時懐一恨 此の時 一恨(いっこん)を懐(いだ)く
相望意如何 相望む 意(こころ)は如何(いかん)と
⊂訳⊃
春の半ば 満ちて流れる長江の
水の面に 雨は蜀羅の波紋を描く
雨の音は 篷の客の眠りをさそい
冷たい雨は 釣りびとの蓑に沁みいる
小暗い雨で 遠くに山はかすんでみえ
霧雨は 岸の柳をしとどに濡らす
そのときひとつ 無念の思いが湧いてきた
心境はいかんと 遠くにあなたを望み見る
⊂ものがたり⊃ 池州に赴任して明けた会昌五年(845)、春を迎えた杜牧はしきりに人恋しい気持ちになっていたようです。崔碣(さいけつ)という友人に詩を送っています。崔碣はそのころ長安にいて中書省右拾遺(従八品上)の任にありました。
杜牧は霧雨の降るあたりの風景に託して、自分の淋しい思いを詠っています。「此の時 一恨を懐く」と痛烈な一句を挟んでいますが、「一恨」は思うように任用されない恨みでしょう。しかし、結びは静かに、いかかがですかと相手の心境を問いかけています。
杜牧ー106
池州清渓 池州の清渓
弄渓終日到黄昏 渓(けい)に弄(あそ)びて終日 黄昏(こうこん)に到る
照数秋来白髪根 照らして数(かぞ)う 秋来(しゅうらい) 白髪(はくはつ)の根(こん)
何物頼君千遍洗 何物か君に頼りて 千遍(せんぺん)洗わるる
筆頭塵土漸無痕 筆頭(ひっとう)の塵土(じんど) 漸く痕(あと)無し
⊂訳⊃
終日 清渓に遊び 黄昏どきになった
秋に増えた白髪を 水鏡で数える
清渓が清めてくれたもの それは何であったろうか
筆先についた穢れ それもようやく消え去った
⊂ものがたり⊃ そのころ江南では、江賊の害が目立つようになっていました。江賊とは二、三艘の舟に分乗して江上を移動する群盗で、当時盛んになりはじめていた江淮の草市(そうし)を襲いました。草市は水陸交通の要衝に発生した小さな市(いち)で、それまで城内の市に限られていた交易の場所が城外の地にひろがって町を形成するようになっていたのです。草市には富商、大戸と称される者も肆(みせ)を出すようになり、江賊の的になっていました。
杜牧は「李太尉に上りて江賊を論ずる書」を上書し、兵船をととのえて治安を安定させるべきであると進言しました。しかしそのころ、長安では武宗の廃仏騒動の最中で、李徳裕は江賊どころではありませんでした。武宗は会昌元年(841)に道士を宮中に入れ、道教に帰依するようになっていましたが、次第に道教以外の宗教を弾圧するようになり、会昌五年(845)七月には廃仏は最高潮に達していました。廃された寺院は四千六百寺、還俗させられた僧尼は二十六万五百人に及んだといいます。
こうした状況のもと、杜牧の「江賊を論ずる書」は問題にもされず葬り去られます。詩題の「池州の清渓」は池州の壁下を流れる川で、九華山の西から出て西北に流れ、秋浦水と合して長江に注ぎます。杜牧は増えた白髪に苦笑しながら、「筆頭の塵土 漸く痕無し」とあきらめの境地を詠います。
秋浦途中 秋浦の途中
蕭蕭山路窮秋雨 蕭蕭(しょうしょう)たり 山路(さんろ) 窮秋(きゅうしゅう)の雨
浙浙渓風一岸蒲 浙浙(せきせき)たり 渓風(けいふう) 一岸(いちがん)の蒲(がま)
為問寒沙新到雁 為(ため)に問う 寒沙(かんさ) 新たに到れる雁(がん)に
来時還下杜陵無 来たる時 還(は)た杜陵(とりょう)に下りしや無(いな)やと
⊂訳⊃
山路に 晩秋の雨は降りやまず
谷風は 岸辺の蒲に寂しげに吹く
寒い水辺の砂浜に 降りたばかりの雁たちよ
ここへ来るときに わが杜陵に寄ってきたのか
⊂ものがたり⊃ 不満ではあっても官吏の身、告身(辞令書)にさからうことはできません。杜牧は任地に赴かざるを得ず、すぐに黄州を発ちます。詩題の「秋浦」(しゅうほ)は池州の治所のある秋浦県のことで、池州に赴任する途中の作です。
「山路」を越えてゆくのは、大別山南麓の丘を越えてゆくのでしょう。やがて水辺に到着し、岸辺の砂浜に降り立った雁に、都に立ち寄ってきたのかと問いかけます。「杜陵」は長安の東南郊外にあって、京兆府の杜氏の本拠の地です。杜牧は岸辺の雁にことよせて、都への恨みの言葉をつぶやくのでした。
杜牧ー104
哭李給事中敏 李給事中敏を哭す
陽陵郭門外 陽陵(ようりょう) 郭門(かくもん)の外
坡陁丈五墳 坡陁(はた)たり 丈五(じょうご)の墳(ふん)
九泉如結友 九泉(きゅうせん) 如(も)し友を結ばば
茲地好埋君 茲(こ)の地 君を埋(うず)むるに好(よろ)し
⊂訳⊃
陽陵県城の門外に
小さな盛土 一丈五尺の墓がある
あの世で君が 誰かと友になるのなら
朱雲と一緒に 葬ってこそ似つかわしい
⊂ものがたり⊃ 杭州刺史の李中敏(りちゅうびん)が任地で亡くなったという報せを聞いたのは、このころのことでしょう。李中敏は杜牧が江西観察使沈伝師(しんでんし)に仕えていたころの同僚で、文宗側近の鄭注(ていちゅう)を批判して職を免ぜられたほどの硬骨漢でした。
甘露の変後、赦されて尚書省吏部の司勲員外郎に召され、累進して門下省の給事中に登用されましたが、そこでまた宦官の仇士良(きゅうしりょう)と衝突しました。左遷されて婺州(ぶしゅう:浙江省金華市)刺史から杭州刺史になっていましたが、任地で没してしまいました。
詩中にある「陽陵」は平陵のあやまりで、漢代の朱雲(しゅうん)の墓は昭帝の平陵のほとりにありました。朱雲は権勢を恐れなかったことで有名な人物でしたので、その近くに葬るのがふさわしいと、李敏中の死を悼むのでした。
杜牧ー105
江上雨寄崔碣 江上の雨 崔碣に寄す
春半平江雨 春の半(なか)ば 平江(へいこう)に雨ふり
円文破蜀羅 円文(えんぶん) 蜀羅(しょくら)を破る
声眠篷底客 声は篷底(ほうてい)の客を眠らせ
寒湿釣来蓑 寒さは釣来(ちょうらい)の蓑(みの)を湿(うるお)す
暗澹遮山遠 暗澹(あんたん)として 山を遮(さえぎ)りて遠く
空濛着柳多 空濛(くうもう)として 柳に着(つ)いて多し
此時懐一恨 此の時 一恨(いっこん)を懐(いだ)く
相望意如何 相望む 意(こころ)は如何(いかん)と
⊂訳⊃
春の半ば 満ちて流れる長江の
水の面に 雨は蜀羅の波紋を描く
雨の音は 篷の客の眠りをさそい
冷たい雨は 釣りびとの蓑に沁みいる
小暗い雨で 遠くに山はかすんでみえ
霧雨は 岸の柳をしとどに濡らす
そのときひとつ 無念の思いが湧いてきた
心境はいかんと 遠くにあなたを望み見る
⊂ものがたり⊃ 池州に赴任して明けた会昌五年(845)、春を迎えた杜牧はしきりに人恋しい気持ちになっていたようです。崔碣(さいけつ)という友人に詩を送っています。崔碣はそのころ長安にいて中書省右拾遺(従八品上)の任にありました。
杜牧は霧雨の降るあたりの風景に託して、自分の淋しい思いを詠っています。「此の時 一恨を懐く」と痛烈な一句を挟んでいますが、「一恨」は思うように任用されない恨みでしょう。しかし、結びは静かに、いかかがですかと相手の心境を問いかけています。
杜牧ー106
池州清渓 池州の清渓
弄渓終日到黄昏 渓(けい)に弄(あそ)びて終日 黄昏(こうこん)に到る
照数秋来白髪根 照らして数(かぞ)う 秋来(しゅうらい) 白髪(はくはつ)の根(こん)
何物頼君千遍洗 何物か君に頼りて 千遍(せんぺん)洗わるる
筆頭塵土漸無痕 筆頭(ひっとう)の塵土(じんど) 漸く痕(あと)無し
⊂訳⊃
終日 清渓に遊び 黄昏どきになった
秋に増えた白髪を 水鏡で数える
清渓が清めてくれたもの それは何であったろうか
筆先についた穢れ それもようやく消え去った
⊂ものがたり⊃ そのころ江南では、江賊の害が目立つようになっていました。江賊とは二、三艘の舟に分乗して江上を移動する群盗で、当時盛んになりはじめていた江淮の草市(そうし)を襲いました。草市は水陸交通の要衝に発生した小さな市(いち)で、それまで城内の市に限られていた交易の場所が城外の地にひろがって町を形成するようになっていたのです。草市には富商、大戸と称される者も肆(みせ)を出すようになり、江賊の的になっていました。
杜牧は「李太尉に上りて江賊を論ずる書」を上書し、兵船をととのえて治安を安定させるべきであると進言しました。しかしそのころ、長安では武宗の廃仏騒動の最中で、李徳裕は江賊どころではありませんでした。武宗は会昌元年(841)に道士を宮中に入れ、道教に帰依するようになっていましたが、次第に道教以外の宗教を弾圧するようになり、会昌五年(845)七月には廃仏は最高潮に達していました。廃された寺院は四千六百寺、還俗させられた僧尼は二十六万五百人に及んだといいます。
こうした状況のもと、杜牧の「江賊を論ずる書」は問題にもされず葬り去られます。詩題の「池州の清渓」は池州の壁下を流れる川で、九華山の西から出て西北に流れ、秋浦水と合して長江に注ぎます。杜牧は増えた白髪に苦笑しながら、「筆頭の塵土 漸く痕無し」とあきらめの境地を詠います。
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