杜牧ー150
秋晩与沈十九舎人 秋の晩 沈十九舎人と期して
期 遊樊川不至 樊川に遊ばんとするも至らず
邀侶以官解 侶(とも)を邀(むか)うも 官を以て解かれ
泛然成独遊 泛然(はんぜん)として 独遊(どくゆう)を成す
川光初媚日 川光(せんこう) 初めて日に媚(うるわ)しく
山色正矜秋 山色(さんしょく) 正(まさ)に秋に矜(おごそ)かなり
野竹疎還密 野竹(やちく) 疎(まば)らに還(ま)た密(しげ)く
巌泉咽復流 巌泉(がんせん) 咽(むせ)びて復(ま)た流る
杜村連潏水 杜村(とそん)は 潏水(けつすい)に連なる
晩歩見垂鉤 晩(くれ)に歩めば 垂鉤(すいこう)を見る
⊂訳⊃
友を招いたが 仕事でだめと言ってきた
そこで気ままに ひとりでゆく
川の面に きらめく光
山の姿は おごそかに深まる秋の色
竹林は 疎らと思えば生い茂り
岩の泉は 咽ぶと思えば急流となる
潏水のほとり 下杜の村里よ
日暮れに歩めば 悠々自適の人に逢う
⊂ものがたり⊃ 杜牧はこのころ中書舎人(正五品上)に昇進しました。中書舎人は文士の極官と称され、政事の中枢に達したことになります。しかし、政事に対する往年の熱意も冷め、自分の病気が思わしくないことにも気づいていました。杜牧は仕事を休んで樊川の別墅に出かけることが多くなります。
詩題の「沈十九舎人」は恩人沈伝師(しんでんし)の息子で、沈詢(しんじゅん)といいます。このとき杜牧と同じ中書舎人でした。杜牧は沈詢を野遊びに誘い、いっしょに出かける約束をしていましたが、沈詢は仕事が忙しくて行けなくなったと断ってきました。だからひとりで樊川(はんせん)に出かけたのです。
朱坡のあたりは自然が豊かで、杜牧は下杜(かと)の村里の野径をゆっくりと歩きながら、秋の田園の美しい風景を描きます。日暮れになって、小川で釣り糸を垂れている人を目にしました。「垂鉤」は隠者の表象であり、杜牧はそうしたものに心惹かれる自分を描くのです。
杜牧ー151
読韓杜集 韓杜の集を読む
杜詩韓筆愁来読 杜詩(とし) 韓筆(かんぴつ) 愁い来たりて読めば
似倩麻姑癢処抓 麻姑(まこ)に倩(こ)いて 癢(かゆ)き処を抓(か)くに似たり
天外鳳凰誰得髄 天外(てんがい)の鳳凰 誰か髄(ずい)を得ん
無人解合続弦膠 人の 解(よ)く続弦膠(ぞくげんこう)を合わす無し
⊂訳⊃
寂しいときに 杜甫と韓愈の詩文を読めば
麻姑の手のように 痒いところにゆきとどく
天外にひそむ鳳凰よ その精髄を手に入れて
続弦膠を作れる者は もはやどこにもいないのだ
⊂ものがたり⊃ 都に帰った杜牧は、自分の詩文稿の整理を手がけていました。詩文は千百稿ほどあったといいますが、そのうち十分の二、三を残して、あとは焼却したといいます。精選した詩文稿を甥(姉の子)の裴延翰(はいえんかん)に託して、『樊川集』の編纂を依頼しました。
十一月になると、杜牧は自分の墓誌銘を撰しました。その中に妻は「若干時先」に死んだとあり、妻裴氏は杜牧よりすこし前に亡くなったようです。十二月ごろ杜牧は安仁坊の自宅で病没したと史書は記しています。実は杜牧の正確な卒年月日は不明で、翌大中七年に五十一歳で亡くなったという説もあります。
杜牧は杜甫のように戦乱に巻き込まれ、妻子をともなって流浪することもありませんでした。また、名門の出でしたので、寒門出身の韓愈のように任官に苦労することもありませんでした。しかし、官への流入の時期が、牛李の党争の最盛期にあたっていたのは不運でした。
杜牧の生涯については、すでに述べましたが、杜牧が詩文の模範を杜甫と韓愈に見出していたことは、掲げた詩によって分かります。「杜詩 韓筆」というのは杜甫の詩と韓愈の文章という意味です。「麻姑」は仙女の名で、手の爪が鳥の爪のように長く伸びていたので痒いところに届いたといいます。
「続弦膠」とは切れた弓の弦をつなげるほど強力な膠のことで、鳳凰の嘴と麒麟の角を合わせて煮た膏であったといいますので、伝説の膠でしょう。言語の精髄を選び出して、それを続弦膠でつなぎ合わせるように緊密な揺るぎのない詩に仕上げる。そのような詩を創り出せる詩人は、もはやどこにもいないと杜牧は嘆いています。ですが、杜牧こそが唐代最後の「解く続弦膠を合わす」詩人であったかもしれません。
では、同時代の詩人は杜牧をどのように見ていたのでしょうか、杜牧よりは九歳ほど若い李商隠につぎの詩があります。
杜司勲 杜司勲
高楼風雨感斯文 高楼の風雨 斯文(しぶん)に感ず
短翼差池不及群 短翼(たんよく) 差池(しち)として群(ぐん)するに及ばず
刻意傷春復傷別 刻意(こくい) 春を傷(いた)み 復(ま)た別れを傷む
人間惟有杜司勲 人間(じんかん) 惟(た)だ有り 杜司勲(としくん)
⊂訳⊃
吹きやまぬ高楼の嵐 あなたの作に感動し
非才のわたくしは 共に飛ぶことができません
惜春の詩 贈別の歌 こころは深く刻まれて
世の哀楽を知りわれを知るのは ただあなただけ
⊂ものがたり⊃ 李商隠は大中二年の冬に蟄厔(ちゅうしつ:陝西省周厔県)の県尉に任ぜられていますので、李商隠がの杜牧を訪ねたのは、出張して都に出てきたたときと思われます。なお、「蟄厔」の蟄は外字になるので同音の字に変えてあります。本来は丸の部分が攵、虫の部分が皿です。
起句の「高楼の風雨」は、世の乱れやこの世の苦労を四語で冒頭に置いたものでしょう。時代の危機意識を捉えながら、「斯文」は文学作品を強く特定する語ですので、あなたの作品には常々感動していましたと賞讃するのです。「差池」は等しくないことで、才能の及ばないことを謙遜して言っています。
転句の「惜春」の詩も「 贈別」の詠も杜牧の作品にありますが、ここでは杜牧の詩の方向性を述べているものでしょう。「人間 惟だ有り 杜司勲」と結んで杜牧の詩業を賞讃しています。
秋晩与沈十九舎人 秋の晩 沈十九舎人と期して
期 遊樊川不至 樊川に遊ばんとするも至らず
邀侶以官解 侶(とも)を邀(むか)うも 官を以て解かれ
泛然成独遊 泛然(はんぜん)として 独遊(どくゆう)を成す
川光初媚日 川光(せんこう) 初めて日に媚(うるわ)しく
山色正矜秋 山色(さんしょく) 正(まさ)に秋に矜(おごそ)かなり
野竹疎還密 野竹(やちく) 疎(まば)らに還(ま)た密(しげ)く
巌泉咽復流 巌泉(がんせん) 咽(むせ)びて復(ま)た流る
杜村連潏水 杜村(とそん)は 潏水(けつすい)に連なる
晩歩見垂鉤 晩(くれ)に歩めば 垂鉤(すいこう)を見る
⊂訳⊃
友を招いたが 仕事でだめと言ってきた
そこで気ままに ひとりでゆく
川の面に きらめく光
山の姿は おごそかに深まる秋の色
竹林は 疎らと思えば生い茂り
岩の泉は 咽ぶと思えば急流となる
潏水のほとり 下杜の村里よ
日暮れに歩めば 悠々自適の人に逢う
⊂ものがたり⊃ 杜牧はこのころ中書舎人(正五品上)に昇進しました。中書舎人は文士の極官と称され、政事の中枢に達したことになります。しかし、政事に対する往年の熱意も冷め、自分の病気が思わしくないことにも気づいていました。杜牧は仕事を休んで樊川の別墅に出かけることが多くなります。
詩題の「沈十九舎人」は恩人沈伝師(しんでんし)の息子で、沈詢(しんじゅん)といいます。このとき杜牧と同じ中書舎人でした。杜牧は沈詢を野遊びに誘い、いっしょに出かける約束をしていましたが、沈詢は仕事が忙しくて行けなくなったと断ってきました。だからひとりで樊川(はんせん)に出かけたのです。
朱坡のあたりは自然が豊かで、杜牧は下杜(かと)の村里の野径をゆっくりと歩きながら、秋の田園の美しい風景を描きます。日暮れになって、小川で釣り糸を垂れている人を目にしました。「垂鉤」は隠者の表象であり、杜牧はそうしたものに心惹かれる自分を描くのです。
杜牧ー151
読韓杜集 韓杜の集を読む
杜詩韓筆愁来読 杜詩(とし) 韓筆(かんぴつ) 愁い来たりて読めば
似倩麻姑癢処抓 麻姑(まこ)に倩(こ)いて 癢(かゆ)き処を抓(か)くに似たり
天外鳳凰誰得髄 天外(てんがい)の鳳凰 誰か髄(ずい)を得ん
無人解合続弦膠 人の 解(よ)く続弦膠(ぞくげんこう)を合わす無し
⊂訳⊃
寂しいときに 杜甫と韓愈の詩文を読めば
麻姑の手のように 痒いところにゆきとどく
天外にひそむ鳳凰よ その精髄を手に入れて
続弦膠を作れる者は もはやどこにもいないのだ
⊂ものがたり⊃ 都に帰った杜牧は、自分の詩文稿の整理を手がけていました。詩文は千百稿ほどあったといいますが、そのうち十分の二、三を残して、あとは焼却したといいます。精選した詩文稿を甥(姉の子)の裴延翰(はいえんかん)に託して、『樊川集』の編纂を依頼しました。
十一月になると、杜牧は自分の墓誌銘を撰しました。その中に妻は「若干時先」に死んだとあり、妻裴氏は杜牧よりすこし前に亡くなったようです。十二月ごろ杜牧は安仁坊の自宅で病没したと史書は記しています。実は杜牧の正確な卒年月日は不明で、翌大中七年に五十一歳で亡くなったという説もあります。
杜牧は杜甫のように戦乱に巻き込まれ、妻子をともなって流浪することもありませんでした。また、名門の出でしたので、寒門出身の韓愈のように任官に苦労することもありませんでした。しかし、官への流入の時期が、牛李の党争の最盛期にあたっていたのは不運でした。
杜牧の生涯については、すでに述べましたが、杜牧が詩文の模範を杜甫と韓愈に見出していたことは、掲げた詩によって分かります。「杜詩 韓筆」というのは杜甫の詩と韓愈の文章という意味です。「麻姑」は仙女の名で、手の爪が鳥の爪のように長く伸びていたので痒いところに届いたといいます。
「続弦膠」とは切れた弓の弦をつなげるほど強力な膠のことで、鳳凰の嘴と麒麟の角を合わせて煮た膏であったといいますので、伝説の膠でしょう。言語の精髄を選び出して、それを続弦膠でつなぎ合わせるように緊密な揺るぎのない詩に仕上げる。そのような詩を創り出せる詩人は、もはやどこにもいないと杜牧は嘆いています。ですが、杜牧こそが唐代最後の「解く続弦膠を合わす」詩人であったかもしれません。
では、同時代の詩人は杜牧をどのように見ていたのでしょうか、杜牧よりは九歳ほど若い李商隠につぎの詩があります。
杜司勲 杜司勲
高楼風雨感斯文 高楼の風雨 斯文(しぶん)に感ず
短翼差池不及群 短翼(たんよく) 差池(しち)として群(ぐん)するに及ばず
刻意傷春復傷別 刻意(こくい) 春を傷(いた)み 復(ま)た別れを傷む
人間惟有杜司勲 人間(じんかん) 惟(た)だ有り 杜司勲(としくん)
⊂訳⊃
吹きやまぬ高楼の嵐 あなたの作に感動し
非才のわたくしは 共に飛ぶことができません
惜春の詩 贈別の歌 こころは深く刻まれて
世の哀楽を知りわれを知るのは ただあなただけ
⊂ものがたり⊃ 李商隠は大中二年の冬に蟄厔(ちゅうしつ:陝西省周厔県)の県尉に任ぜられていますので、李商隠がの杜牧を訪ねたのは、出張して都に出てきたたときと思われます。なお、「蟄厔」の蟄は外字になるので同音の字に変えてあります。本来は丸の部分が攵、虫の部分が皿です。
起句の「高楼の風雨」は、世の乱れやこの世の苦労を四語で冒頭に置いたものでしょう。時代の危機意識を捉えながら、「斯文」は文学作品を強く特定する語ですので、あなたの作品には常々感動していましたと賞讃するのです。「差池」は等しくないことで、才能の及ばないことを謙遜して言っています。
転句の「惜春」の詩も「 贈別」の詠も杜牧の作品にありますが、ここでは杜牧の詩の方向性を述べているものでしょう。「人間 惟だ有り 杜司勲」と結んで杜牧の詩業を賞讃しています。