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tiandaoの自由訳漢詩

ティェンタオの自由訳漢詩 白居易139ー144

2010年12月27日 | Weblog
 白居易139
   曲江感秋二首 其一    曲江 秋に感ず 二首  其の一
                
  元和二年秋     元和(げんな)二年の秋
  我年三十七     我が年(とし)は三十七
  長慶二年秋     長慶二年の秋
  我年五十一     我が年は五十一
  中間十四年     中間の十四年
  六年居譴黜     六年は譴黜(けんちゅつ)に居る
  窮通与栄悴     窮通(きゅうつう)と栄悴(えいすい)と
  委運随外物     運に委(ゆだ)ねて外物(がいぶつ)に随う
  遂師廬山遠     遂に廬山の遠(おん)を師とし
  重弔湘江屈     重ねて湘江(しょうこう)の屈(くつ)を弔う
  夜聴竹枝愁     夜には竹枝(ちくし)の愁いを聴き
  秋看灩堆没     秋には灩堆(えんたい)の没するを看(み)る
  近辞巴郡印     近ごろ巴郡(はぐん)の印(いん)を辞し
  又秉綸闈筆     又た綸闈(りんい)の筆を秉(と)る
  晩遇何足言     晩遇(ばんぐう)  何ぞ言うに足らん
  白髪映朱紱     白髪(はくはつ)  朱紱(しゅふつ)に映ず
  銷沈昔意気     銷沈(しょうちん)す  昔の意気
  改換旧容質     改換(かいかん)す  旧(もと)の容質(ようしつ)
  独有曲江秋     独り曲江の秋の
  風煙如往日     風煙(ふうえん)  往日(おうじつ)の如き有り

  ⊂訳⊃
          元和二年の秋
          私は三十七歳だった
          長慶二年の秋
          私は五十一歳である
          中間の十四年
          六年間は流謫の身であった
          境遇の順不順  栄達か落魄かは
          運に任せて状況に随う
          廬山では慧遠(えおん)を師とし
          湘江では屈原を弔った
          夜は竹枝詞の悲しい歌の調べを聞き
          秋には灩澦堆が水に没するのを見る
          さきごろ忠州の刺史を辞し
          中書省で筆をとる身分となる
          晩年の待遇など  ありがたくもないが
          白髪に朱色の印綬が映える
          往年の意気は消え
          かつての容姿も変わり果てる
          変わらないのは曲江の秋
          昔と変わらぬ風が吹き  靄がただよう


 ⊂ものがたり⊃ 明けて長慶二年(822)の正月、深州の城は落城寸前の状態にありました。白居易は戦乱平定の策を奏上しましたが用いられず、政府は二月二日に王庭湊の成徳節度使を追認して叛乱の罪を赦しました。以上の経過は白居易が李党寄りの献言をし、それが却下されて牛党の宥和策が採用されたことを意味します。
 元愼は前年の秋に翰林学士承旨・中書舎人(正五品上)に任ぜられていましたが、この年二月十九日に突如、同中書門下平章事(どうちゅうしょもんかべんしょうじ)に任ぜられ宰相になりました。この人事は異例のもので、穆宗が他の宰相の議をへずに独断で決めたと言われており驚きをもって迎えられました。
 ところで河北に出陣していた裴度(はいど)は三月に都に帰還し、宰相に就任します。裴度はもとから元稹と対立していて仲が悪く、五月になると元稹が裴度を暗殺しようとしているという噂が流れます。調査の結果、噂は真実でないことが判明しますが、元稹にも別の落ち度があることが明らかとなり、一方、裴度のほうも暗殺の噂を流したのは裴度自身であることが分かり、喧嘩両成敗のような形で二人とも宰相を罷免される事態になりました。
 白居易は元稹とも裴度とも親しかったので、二人が政敵となって争うこと自体が苦しいことでした。元稹は失脚して同州(陝西省大荔県)刺史に左遷されましたので、政策実現の有力な手掛かりを失うことになりました。白居易は政府部内の党派争いに失望していましたが、元稹と裴度が罷免されたのに乗じて宰相になったのは李党の李逢吉(りほうきつ)でした。
 このような状況では自分もいつまた党争に巻き込まれ、再び江州流謫のような悲運に見舞われるかもしれないと思い、白居易はみずから地方勤務を願い出ます。白居易は幾度も曲江を訪れて詩を作っていますが、この年の七月十日にも曲江を訪れ、二首の詩を書いています。其の一の詩では前半の十二句で、これまでの自分の人生、特に流謫の苦しみを回想しているのが印象的です。
 後半の八句は都にもどって中書省に勤めるようになってからの白居易の心境ですが、この詩からは中書舎人という栄達の可能性のある地位に対する意気込みは少しも感じられません。諦観に似た感慨を洩らしており、自分の置かれている状況に白けてしまった無気力な心情が窺がわれます。

 白居易ー141
   商山路有感          商山の路にて感有り

  憶昨徴還日     憶(おも)う  昨(さく)  徴(め)し還(かえ)さるるの日
  三人帰路同     三人  帰路  同じくす
  此生都是夢     此の生は 都(すべ)て是(こ)れ夢
  前事旋成空     前事は   旋(たちま)ち空(くう)と成る
  杓直泉埋玉     杓直(しゃくちょく)は 泉に玉(ぎょく)を埋(うず)め
  虞平燭過風     虞平(ぐへい)は    燭(しょく)  風を過(す)ぐ
  唯残楽天在     唯だ  楽天(らくてん)を残して在り
  頭白向江東     頭(かしら)白くして  江東に向かう

  ⊂訳⊃
          思えば去年  都に帰る日に
          三人は  同じ路を通っていった
          この世のことは すべて夢
          以前のことは   たちまち空となる
          杓直は  黄泉に身を埋め
          虞平は  風前の灯火のように消える
          楽天だけが  生き残り
          白髪頭になって  江東に向かう


 ⊂ものがたり⊃ 白居易の地方勤務願いは、七月十四日に聞き届けられました。「曲江感秋二首」を書いた四日後です。任命されたのは杭州(浙江省杭州市)刺史で、すぐに都を発ちます。長安から杭州へ行くには、洛陽を経て黄河をすこし下り、運河をたどって南下するのが普通ですが、このときは東方に小さな反乱が起きており、運河を利用できませんでした。
 白居易は商山路を南へ越えて、武関から関外に出ます。武関の東南東170kmほどのところに内郷県(河南省南陽市)があり、白居易は七月三十日には内郷に到着しています。詩は内郷県の南亭という駅舎の壁に書き残したものです。
 詩に付してある序文によると、白居易が忠州から都に召還されたとき、灃州(湖南省灃県)刺史の李建と果州(四川省南充県)刺史の崔韶(さいしょう)も同時に召還され、同じ路を通って都へもどってきました。ところがこの一年のあいだに、二人とも死んでしまっていました。白居易は自分だけが再びこの路をたどって杭州に向かっていると、人生の無常を詠い、同時に都の政事に失望してひとり江南に向かう孤独な心情も伝わってきます。

 白居易ー142
     暮江吟             暮江吟

  一道残陽鋪水中   一道(いちどう)の残陽(ざんよう)  水中に鋪(し)き
  半江瑟瑟半江紅   半江(はんこう)は瑟瑟(しつしつ)  半江は紅(くれない)なり
  可憐九月初三夜   憐れむべし  九月初三(しょさん)の夜(よる)
  露似真珠月似弓   露は真珠に似(に)  月は弓に似たり

  ⊂訳⊃
          ひとすじの残光が    水面(みなも)に射し込み

          江の半ばは碧みどり  半ばは紅に染まる

          九月三日のその夜は 愛すべき美しさ

          露は真珠のように   月は弓のような新月だ


 ⊂ものがたり⊃ 内郷県から南へ下れば襄陽に出て、そこから漢水を船で下ります。船はやがて長江に出て、長江を東に下ればかつての流謫の地、江州を通過します。白居易は湓浦の渡津に船を泊めて、一夜を廬山の草堂で過ごしました。自分で掘った池、そこに植えた蓮に花が咲いているのを眺め、感慨にふけるのでした。
 白居易はさらに長江を下って、九月のはじめには潤州(江蘇省鎮江市)に近づいていたでしょう。「暮江吟」(ぼこうぎん)は制作年のはっきりしない詩で、長江で晩秋の新月を仰ぐ機会はこれまでにも幾度となくあったはずです。「九月初三夜」に特別の意味があるのか不明ですが、白居易は詩中にしばしば年月や年齢を入れますので、単なる旅の日付かもしれません。
 その日、白居易は潤州にいて名勝として名高い北固山に登ったかもしれません。山頂から暮れゆく長江の景を眺めながら、白居易は有名なこの詩を作ったのではないかと想像してみました。

 白居易ー143
    杭州春望             杭州の春望

  望海楼明照曙霞   望海楼(ぼうかいろう) 明らかにして曙霞(しょか)照らし
  護江堤白蹋晴沙   護江堤(ごこうてい)   白くして晴沙(せいさ)を蹋(ふ)む
  涛声夜入伍員廟   涛声(とうせい)夜入る    伍員(ごうん)の廟
  柳色春蔵蘇小家   柳色(りゅうしょく)春蔵す  蘇小(そしょう)の家
  紅袖織綾誇柿蔕   紅袖(こうしゅう) 綾を織りて柿蔕(したい)を誇り
  青旗沽酒趁梨花   青旗(せいき)   酒を沽(か)いて梨花(りか)を趁(お)う
  誰開湖寺西南路   誰か開く  湖寺(こじ)西南の路
  草緑裙腰一道斜   草は緑に  裙腰(くんよう)一道(いちどう)斜めなり

  ⊂訳⊃
          望海楼は  朝焼けに照り映えて明るく
          護江堤は  白沙を踏んで晴れた日に歩く
          波の音が  夜の伍子胥の廟に響き
          春の柳は  蘇小小の家をこんもりと覆う
          若い娘は  綾織りの柿蔕花を自慢し
          酒屋では  銘酒の梨花春が売れている
          誰が開いたのか  弧山寺の西南の路
          一筋の草の緑は  裳裾のように斜めに延びる


 ⊂ものがたり⊃ 船は潤州から大運河を南へ下り、蘇州を経て杭州に至ります。白居易が杭州に着いたのは冬の最初の日、十月一日でした。そのころの杭州はめざましい発展を遂げている途中の街で、精巧な絹織物や美しい刺繍をほどこした扇など、あらゆる贅沢品の産地でした。
 白居易は杭州到着後、半月以上も病気で臥していたようです。杭州は長安からすれば南の果ての遠隔地ですから、旅の疲れが出たのでしょう。しかし、翌長慶三年(823)の春になると、杭州の美しさ、繁華なようすが白居易を魅了します。
 白居易は杭州で二回の春を過ごしていますので、春の詩は長慶三年の春か、翌四年の春の作か不明です。「杭州の春望」は杭州ではじめての春を迎えたという感じの強い詩と思います。「望海楼」は作者の自注に「城東の楼を望海楼と名づく」とありますので、県城の東壁の上に建っていた城楼から海を望むことができたので、仮に名づけたもののようです。
 「護江堤」は銭塘江の護岸堤防と思われます。杭州は銭塘江の土砂が堆積してできた土地の上に築かれた街ですので、西湖(当時は一般に「銭塘湖」と称していました)と銭塘江の間は幅数kmしかなかったと言われています。
 「伍員廟」は春秋呉に仕えた伍子胥(ごししょ)を祀る廟、「蘇小家」は六朝時代の杭州の名妓蘇小小(そしょうしょう)の家のことです。そのほか柿蔕花(したいか)の衣裳や銘酒梨花春(りかしゅん)など、この詩には杭州の繁華なようす、名所・名風物が巧みに盛り込まれています。

 白居易ー144
    余杭形勝            余杭の形勝

  余杭形勝四方無   余杭(よこう)の形勝は四方(しほう)に無し
  州傍青山県枕湖   州は青山(せいざん)に傍(そ)い 県は湖に枕(のぞ)む
  繞郭荷花三十里   郭を繞(めぐ)る  荷花(かか)三十里
  払城松樹一千株   城を払(はら)う  松樹(しょうじゅ)一千株(しゅ)
  夢児亭古伝名謝   夢児亭(むじてい)は古びたるも  名は謝(しゃ)を伝え
  教妓楼新道姓蘇   教妓楼(きょうぎろう)は新たにして  姓は蘇と道(い)う
  独有使君年太老   独り使君(しくん)の年(とし)太(はなは)だ老いたる有り
  風光不称白髭鬚   風光は称(かな)わず  白髭鬚(はくししゅ)に

  ⊂訳⊃
          余杭のような形勝の地は  どこにもない
          州は青山に囲まれ  県城は湖に臨む
          湖岸を巡って  蓮の花は三十里もつらなり
          城壁に沿って  千本もの松の木が茂る
          謝霊運ゆかりの夢児亭は古びているが
          蘇小小の名を伝える教妓楼は新しい
          ここにひとり   年老いた州刺史がおり
          美しい景色に  白い髭鬚(ひげ)がそぐはない


 ⊂ものいがたり⊃ 「余杭」(よこう)は杭州西方の地名ですが、州は杭州、県は銭塘県ですので、この詩は西湖を囲む形勝の全体を詠っていると考えていいでしょう。西湖は周囲三十里(約15km)と白居易自身が書き残しており、岸辺は蓮の花で満たされていたようです。
 「夢児亭」は六朝の詩人謝霊運(しゃれいうん)が夢をみたという伝承のある亭で、古びてはいますが残っていたようです。銭塘の名妓蘇小小(そしょうしょう)が出ていたという「教妓楼」は新しくなって建っていました。
 白居易は杭州の刺史ですが、老いてしまって余杭の形勝にそぐはないと歎いています。しかし、杭州では商玲瓏、謝好好といった妓女となじみ、音曲を楽しんだと言われていますので、悩みよりは楽しみの方が多かったようです。