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tiandaoの自由訳漢詩

ティェンタオの自由訳漢詩 杜牧52ー58

2011年08月31日 | Weblog
 杜牧ー52
     泊秦淮             秦淮に泊す

  煙籠寒水月籠沙   煙は寒水(かんすい)を籠(こ)め  月は沙(すな)を籠む
  夜泊秦淮近酒家   夜  秦淮(しんわい)に泊して   酒家(しゅか)に近し
  商女不知亡国恨   商女(しょうじょ)は知らず  亡国の恨み
  隔江猶唱後庭歌   江(こう)を隔てて  猶(な)お唱う  後庭歌(こうていか)

  ⊂訳⊃
          寒々と霧は川面に立ちこめて  月は岸辺の沙に照る

          その夜  秦淮の岸に泊まれば  酒楼に近い

          歌姫に  亡国の恨みなどわかろうはずもなく

          川の向こうではいまもなお  玉樹後庭歌を唱っている


 ⊂ものがたり⊃ 長江は満潮時になると、かなり上流まで海潮が逆流し、長江の遡行には潮の流れを利用します。潤州から百三十五里(約76km)ほど遡ると、秦淮河口の渡津(としん)に着きます。ここは建康城の南を流れる秦淮河が長江に注ぐところで、河岸には長干里(ちょうかんり)や横塘(おうとう)といった歓楽街があり、妓楼が立ち並んでいました。
 杜牧は夜の寒気の深まるなか、舟を河岸につなぎますが、妓楼からは暗い川面をつたって玉樹後庭歌(ぎょくじゅこうていか)を歌う声が流れてきます。この歌は南朝最後の天子、陳の後主陳叔宝(ちんしゅくほう)が作った詞で、歌妓たちは亡国の歌であることも知らずに歌っています。杜牧はそれを聞くと、歴史の哀れさに胸をつかれる憶いがするのでした。

 杜牧ー53
   題宣州開元寺         宣州の開元寺に題す

  南朝謝朓城     南朝(なんちょう)  謝朓(しゃちょう)の城
  東呉最深処     東呉(とうご)  最も深き処
  亡国去如鴻     亡国は     去って鴻(おおとり)の如く
  遺寺蔵煙塢     遺寺(いじ)は 煙塢(えんお)に蔵(かく)る
  楼飛九十尺     楼は飛ぶ   九十尺
  廊環四百柱     廊は環(めぐ)らす 四百柱(しひゃくちゅう)
  高高下下中     高高下下(こうこうかか)の中(うち)
  風繞松桂樹     風は繞(めぐ)る   松桂(しょうけいの)の樹(き)
  青苔照朱閣     青苔(せいたい)  朱閣(しゅかく)に照り
  白鳥両相語     白鳥(はくちょう)  両(とも)に相語(あいかた)る
  渓声入僧夢     渓声(けいせい)  僧夢(そうむ)に入り
  月色暉粉堵     月色(げっしょく)  粉堵(ふんと)に暉(かがや)く
  閲景無旦夕     景を閲(み)ること 旦夕(たんせき)無く
  憑欄有今古     欄に憑(よ)れば  今古(きんこ)有り
  留我酒一樽     我を留むるは   酒(さけ)一樽(いっそん)
  前山看春雨     前山(ぜんざん)に  春雨(しゅんう)を看(み)ん

  ⊂訳⊃
          南朝は  謝朓ゆかりの城
          呉の奥まったところにある
          国は鴻のように飛び去って亡び
          遺された寺は  霧のわく山の懐にある
          高楼は   九十尺の高さにそびえ
          回廊には 四百本の柱がならぶ
          境内は   高下に波うち
          吹く風は  樹々のあいだを駆けめぐる
          緑の苔は  楼閣の朱塗りに映え
          白鷺は   向かい合って鳴きかわす
          水の音は  僧侶の夢に入り
          月の光は  白壁の塀にかがやく
          朝な夕な  あきることのない景色
          欄干によれば   昔のことが懐かしい
          こんなところで   一樽の酒を飲みながら
          春雨煙る山々を  とくと眺めて暮らそうか


 ⊂ものがたり⊃ 宣州は建康からすこし遡った長江右岸にあり、六朝時代からの要地でした。宣州は内陸の街ですが、江岸の渡津当塗(安徽省当涂県)から水路が通じていますので舟で行けます。杜牧は宣州に着くと、すぐに開元寺を再訪しました。
 開元寺は東晋時代に創建された古刹で、もとの名を大雲寺といいます。玄宗の開元年間に開元寺と名を改めました。宣州城内の中央部に陵陽山という小丘があり、開元寺は山上の塢(窪地)一帯を占めています。県衙からも近いので、いつでも行ける寺ですが、詩は春になってからの作品です。
 南朝斉の詩人謝朓は宣州太守になってこの地を治めましたので、謝朓の詩が残されています。その山水詠は清麗と評され、唐代の詩人に敬愛されていました。詩はまず、開元寺の高楼や回廊の壮大な構えを詠います。
 杜牧は開元寺の美しく静かなたたずまいを五言古詩で描きますが、結びの一句で「前山に 春雨を看ん」と憶いを述べています。杜牧はこの詩で、隠者へのあこがれを詠っているようです。

 杜牧ー56
     有 感               有  感

  宛渓垂柳最長枝   宛渓(えんけい)の垂柳(すいりゅう)  最も長枝(ちょうし)
  曾被春風尽日吹   曾(かつ)て春風(しゅんぷう)に  尽日(じんじつ)吹かる
  不堪攀折猶堪看   攀折(はんせつ)に堪えざるも  猶(な)お看(み)るに堪えたり
  陌上少年来自遅   陌上(はくじょう)の少年  来ること自(おのず)から遅し

  ⊂訳⊃
          宛渓の岸の柳は  とりわけ長く枝をたれ

          春風に吹かれて  日がな一日ゆれている

          別れは辛く悲しいが   眺めはいまだ美しい

          だが  路上の若者は  あえて近寄ろうとしないのだ


 ⊂ものがたり⊃ 宣州城の東には宛渓と句渓の二水が北へ流れており、やがて合流して青弋江に注ぎます。かつて宛渓のほとりで「尽日」春風に吹かれていたのは誰でしょうか。昔なじんだ妓女と再会したけれども、すでに盛りを過ぎていて、憐れんで作ったという説もあります。
 しかし、柳の枝を「攀折」(引き寄せて折る)のは再会を祈るためです。折楊柳は別れの鎮魂を意味し、自分を離別する、もしくは自己を捨て去ることの辛さを言っているとも解されます。杜牧はすでに三十六歳になっており、中央のしかるべき地位についていてもいい年齢です。それが暇な地方勤めをしています。「陌上の少年」が難解ですが、役所の若者と解しました。若者たちは中年の杜牧に声をかけようともしませんが、杜牧自身は「猶お看るに堪えたり」と思っています。まだ捨てたものじゃないぞ、と思っているわけです。

 杜牧ー57
   宣州開元寺南楼          宣州開元寺の南楼

  小楼纔受一床横   小楼纔(わず)かに受く  一床(いっしょう)の横たわるを
  終日看山酒満傾   終日  山を看(み)て  酒(さけ)満傾(まんけい)す
  可惜和風夜来雨   惜(お)しむ可(べ)し  風に和して  夜来(やらい)雨ふるも
  酔中虚度打窗声   酔中(すいちゅう)虚しく度(わた)る  窓を打つの声

  ⊂訳⊃
          小楼は狭くて  寝床を置ける大きさだ

          ひねもす山を眺めて酒を飲む

          昨夜は雨まじりの風が吹いたが  残念だ

          酔いつぶれて  窓打つ声を聞きそこねる


 ⊂ものがたり⊃ 開成三年(838)秋七月二十五日に、日本の遣唐使一行が揚州に到着しています。天台宗請益僧円仁(えんにん)も、随員の一人として加わっていました。その遣唐使を現地で応接したのが淮南節度使李徳裕で、そのことは円仁の有名な日記に書かれています。
 李徳裕はこの年、杜を淮南支使・試大理評事兼観察御史に任じますが、兄杜牧とともに宣州にいた杜は、眼病のため勤務につけないと断っています。断りましたが、これが杜の最終官歴になっています。
 一方、杜牧は春から秋へかけて幾度も開元寺を訪れ、寺の小楼で泊まることもあったようです。詩の結びの「窓を打つの声」は何でしょうか。唐朝の危機を伝える時代の足音かも知れませんし、杜牧の不遇を払いのける天来の声かも知れません。

 杜牧ー58
   題宣州開元寺水閣         宣州開元寺の水閣に題す

  六朝文物草連空   六朝(りくちょう)の文物  草  空(そら)に連なり
  天澹雲閑今古同   天澹(やす)らかに雲閑(しず)かにして  今古(きんこ)同じ
  鳥去鳥来山色裏   鳥去り鳥来たる  山色(さんしょく)の裏(うち)
  人歌人哭水声中   人歌い  人哭(こく)す  水声(すいせい)の中(うち)
  深秋簾幕千家雨   深秋(しんしゅう)  簾幕(れんばく)  千家(せんか)の雨
  落日楼台一笛風   落日(らくじつ)   楼台(ろうだい)  一笛(いってき)の風
  惆悵無因見范蠡   惆悵(ちゅうちょう)す   范蠡(はんれい)を見るに因(よし)無きを
  参差煙樹五湖東   参差(しんし)たる煙樹(えんじゅ)  五湖(ごこ)の東

  ⊂訳⊃
          六朝の栄華の地も  天までつづく草の原
          青い空と雲だけは  昔と変わらず静かである
          鳥たちは   緑の山を自由に飛びかい
          流れの音を聞きながら  人は喜びかつ悲しむ
          深まる秋   簾をおろした家々に雨はそぼ降り
          落日と楼台  風のまにまに笛は流れる
          ああもはや  范蠡のような壮士に遇うことなく
          東に太湖を望んでも  樹々が霞んで見えるだけ


 ⊂ものがたり⊃ この詩のはじめ六句は、開元寺の秋を詠うものでしょう。それはすでに滅んでしまった六朝の文物、自然の静かな佇まいとして描かれます。それが一転して、結びの二句では現実への批判、詠嘆になります。その対比、結びつきが見事です。
 結びの「五湖」は太湖のことで、宣州の東にありますが、見えるような位置ではありません。山々に隔てられています。その太湖を持ち出したのは、春秋時代の越王勾踐(こうせん)の功臣「范蠡」の功業と、そのいさぎよい人生を指摘したかったからです。
 杜牧にはもともと救国の英雄を求める心があります。しかし、太湖の方と同じように、皇帝のいる都長安も樹々の向こうに茫漠としてかすんでいると、現在の状況を嘆き悲しんでいると解されるのです。