☆あいさつ―今日から「杜甫」の生涯をたどります。杜甫には長大な五言古詩がいくつもありますが、それらのなかには伝記上、欠かすことのできない重要なものがあります。長篇詩をいくつか取り上げますが、途中で省略したりせずに、全部掲げたいと思っています。杜甫の詩は李白よりも多く残されており、有名な律詩も多いので、回数は270回を越えます。
杜甫1
壮遊 壮 遊
往者十四五 往者(むかし)十四五
出遊翰墨場 出でて翰墨(かんぼく)の場(にわ)に遊ぶ
斯文崔魏徒 斯文(しぶん)なる崔魏(さいぎ)の徒(と)は
以我似班揚 我を以て班揚(はんよう)に似たりとす
七齢思即壮 七齢(しちれい)にして思い即ち壮(そう)なり
開口詠鳳凰 口を開きて鳳凰(ほうおう)を詠ず
九齢書大字 九齢(きゅうれい)にして大字(だいじ)を書し
有作成一囊 作(さく)有りて一囊(いちのう)を成(な)す
性豪業嗜酒 性は豪(ごう)にして業(すで)に酒を嗜(たしな)み
嫉悪懐剛腸 悪を嫉(にく)みて剛腸(ごうちょう)を懐(いだ)く
脱落小時輩 脱落(だつらく)して時輩(じはい)を小(いや)しみ
結交皆老蒼 交(こう)を結ぶは皆(みな)老蒼(ろうそう)なり
飲酣視八極 飲(いん)酣(たけなわ)にして八極を視(み)れば
俗物多茫茫 俗物(ぞくぶつ)多く茫茫(ぼうぼう)たり
東下姑蘇台 東 姑蘇台(こそだい)に下れば
已具浮海航 已(すで)に浮海(ふかい)の航(こう)の具(そな)えあり
到今有遺恨 今に到るも遺恨(いこん)有るは
不得窮扶桑 扶桑(ふそう)を窮(きわ)むるを得(え)ざりしこと
王謝風流遠 王謝(おうしゃ)の風流(ふうりゅう)は遠く
闔閭丘墓荒 闔閭(こうりょ)の丘墓(きゅうぼ)は荒れたり
剣池石壁仄 剣池(けんち)の石壁(せきへき)は仄(かたむ)き
長洲芰荷香 長洲(ちょうしゅう)の芰荷(きか)は香(か)んばし
嵯峨閶門北 嵯峨(さが)たる閶門(しょうもん)の北
清廟映迴塘 清廟(せいびょう)は迴塘(かいとう)に映ず
毎趨呉太伯 呉(ご)の太伯(たいはく)に趨(もう)ずる毎(ごと)に
撫事涙浪浪 事(こと)を撫(しの)びて涙は浪浪(ろうろう)たり
蒸魚聞匕首 蒸魚(じょうぎょ)の匕首(ひしゅ)を聞く
除道哂耍章 除道(じょどう)せしめて耍章(ようしょう)を哂(わら)う
枕戈憶勾踐 戈(か)を枕にせし勾踐(こうせん)を憶い
渡浙想秦皇 浙(せつ)を渡りては秦皇(しんのう)を想う
越女天下白 越女(えつじょ)は天下に白く
鑑湖五月涼 鑑湖(かんこ)は五月も涼し
剡渓蘊秀異 剡渓(せんけい)は秀異(しゅうい)を蘊(つつ)み
欲罷不能忘 罷(や)めんと欲すれど忘る能(あた)わず
帰帆払天姥 帰帆(きはん)は天姥(てんぼ)を払い
中歳貢旧郷 中歳(ちゅうさい)にして旧郷より貢(こう)せらる
気劘屈賈塁 気は屈賈(くつか)の塁(るい)を劘(けず)り
目短曹劉墻 目は曹劉(そうりゅう)の墻(しょう)を短(たん)とす
忤下考功第 忤(さか)らいて考功(こうこう)の第(だい)より下(お)ち
独辞京尹堂 独り京尹(けいいん)の堂(どう)を辞す
⊂訳⊃
かつて十四五歳のとき
文学の世界に乗り出した
学者の崔尚や魏啓心らは
班固・揚雄のようだと私をほめる
詩文への思いは七歳にして壮んとなり
鳳凰の詩を口ずさんだ
九歳のときには立派な字を書き
作品は成って囊(ふくろ)にみちた
性格は豪放ではやくも酒を嗜み
心は剛直で悪をにくんだ
同年の小さな輩(やから)は眼中になく
交際するのは みな年上の人だった
酔いがまわって世界の隅々を眺めると
俗物がのさばり広がっている
東のかた 姑蘇台に向かい
海上をゆく船の用意もした
いまでも残念に思うのは
東海の扶桑の国へ行かなかったことだ
晋の王導や謝安の風流は遠くへだたり
呉王闔閭の墓は荒れていた
剣池には 石の壁がかたむきかかり
長洲苑には菱や蓮の花が匂っている
高く聳える閶門の北
清らかな廟が まわりの池に影をさす
呉太伯の塚に参るたびに
昔を想って涙はつきない
魚腹に匕首を隠した専諸の故事を聞き
故郷に錦を飾る朱買臣の話をおかしく思う
戈を枕にした越王勾踐のことを憶い
浙江を渡れば始皇帝の昔を想う
越の女は天下に聞こえた色白の美人
鑑湖のあたりは五月であるのに涼しいと感ずる
剡渓には山水の奇勝があつまり
想い出は忘れようとしても忘れられない
帰りの船は 天姥の峰をかすめてゆき
若年を過ぎて貢挙に推薦される
意気は屈原・賈誼の才能に挑み
曹植・劉をも見くだすほどだ
考功員外郎の意に副わず
落第してひとり京兆尹の政堂を辞す
⊂ものがたり⊃ 杜甫は玄宗皇帝が即位した先天元年(712)に生まれました。李白よりは十一歳の年少です。杜甫の先祖については詳しい研究がありますので、ここでは杜甫の曽祖父杜依芸(といげい)が唐代に官途につき、河南道河南府鞏県(河南省鞏県)の県令になったことから述べておきましょう。
祖父杜審言(しんげん)、父杜閑、その子杜甫は鞏県(きょうけん)の曽祖父の家を本貫として世に出ました。祖父杜審言は則天武后のときに尚書省膳部員外郎(従六品上)に任じられ、詩人としても有名でしたが、神龍元年(705)の政変のときに失脚して峰州(ベトナム)に流されました。後に許されて都に還りますが、従六品上より上には上れませんでした。
杜甫の生まれた家は現在の鞏県から東北へ12kmほど行った城関という町にあり、ここが旧鞏県城の地と言われています。町の郊外に南瑶湾(なんようわん)という集落があり、黄土の崖に穿たれた土室(窰洞:ヤオトン)が杜甫の生家として保存されているそうです。
杜甫の母崔氏は唐の宗室の血を引く女性ですが、母方の祖母が政変によって没落した皇族の家の出であったという関係です。母崔氏は杜甫が四歳のころには亡くなり、継母に育てられた時期があったようです。杜甫のすぐ下の弟杜頴(とえい)は生母の氏が不明ですので、異母弟になると思われます。
杜甫は八歳のころには、洛陽に住んでいた「おば」二姑(アルクー)に預けられ、洛陽城内の仁風里で育ったようです。杜甫の幼時の記録は残されていませんが、杜甫が五十五歳のときに夔州(四川省奉節県)で書いた自伝的五言古詩があり、五十五歳の目で見た幼時の杜甫が語られます。
この詩「壮遊」(そうゆう)によると杜甫は七歳で詩文に目ざめ、九歳のときには「大字」(立派な正式の文字と解します)を書き、作品は袋に満ちるほどであったと言っています。十四五歳のときには文人の仲間入りをして、先輩の知識人からほめられるような作品を書いたとあります。しかし、杜甫の少年時から三十歳近くまでの作品は一切残されていません。杜甫自身が未熟な作品として廃棄したものと思われます。
開元十三年(725)には、杜甫は十四歳になっています。この年の十一月、玄宗は泰山に行幸して封禅の儀を執り行いました。皇帝の車駕はまず洛陽に入って祝賀の諸行事が行われ、行列の準備がととのえられます。河南道の諸州からは準備のために人や物資があつまり、州刺史をはじめ諸役人が入都して、洛陽は空前の賑わいを呈したことでしょう。そんな中で、杜甫は崔尚(さいしょう)や魏啓心(ぎけいしん)らの知識人と知り合い、才能を認められました。崔・魏の二人は共に進士及第者で河南道内の州府の若い官吏でした。
十代の後半になると、早熟な杜甫は同年配の者と話が合わず、もっぱら年長者と交際していたと言っています。杜甫は洛陽の盛り場に出入りして、酒も嗜むと言えるほどに飲み、酔えばあたりを見まわして、俗物どもがうごめいていると、世の中を見下していました。
開元十九年(731)に杜甫は二十歳になり、呉越の旅に出ます。当時、蘇州の北(洛陽からすれば蘇州の手前になります)40km弱の常熟県(江蘇省常熟県)に「おば」のひとりが住んでいて、杜甫はまず「おば」の家を訪ねたでしょう。そのあと蘇州や蘇州周辺の呉の遺跡を歩きまわり、南都建康(江蘇省南京市)まで足を伸ばしたようです。
詩は四句ずつひとまとめになっており、はじめの十二句は呉の地方に関するものです。そのはじめ四句は「姑蘇台」に登って東の海に思いをはせたこと、つぎの四句は建康の「王謝の風流」の跡を見たこと、呉王「闔閭の丘墓」の荒れたようす、蘇州郊外虎丘にある「剣池」や漢の呉王劉鼻の「長洲(苑)の芰荷」といった蘇州周辺の名所旧跡をめぐったこと、三番目の四句はそのころ蘇州の閶門(蘇州城の西北門で正門に当たります)の北にあった呉の祖太伯の廟に幾度も詣で、そのたびに涙が流れたことを詠っています。各人物や遺跡の説明は省略します。
呉の地でゆっくり滞在したあと、杜甫は越(えつ)へ向かいます。杜甫には常熟県の「おば」のほかに武康県(浙江省湖州市)で県尉をしている「おじ」の杜登がいました。武康は太湖の南にありますので、越州(浙江省紹興市)へゆく途中、杜登の家に立ち寄って呉の刺客専諸(せんしょ)や漢の朱買臣(しゅばいしん)の秘話を聞いたのかもしれません。
武康から南へ余杭(浙江省杭州市)をへて銭塘江を渡るとき、かつてここを秦の始皇帝が渡ったことを思い出します。越州にはいると、若い杜甫は色白の美人が多いことに目をとめます。美女西施(せいし)の伝説があるので、杜甫も越の美女には期待していたのでしょう。「鑑湖」(かんこ)は越州山陰県にある湖で、南国の五月というのに涼しい風が吹いていると気持ちよさそうです。そこからさらに、杜甫は南の山間にはいり、名勝の剡渓(せんけい)まで足を延ばしたようです。
「壮遊」の詩をたどっていくと、杜甫はもっぱら名所旧跡をたどりながら観光旅行をしているようにみえます。しかし、江南旅行は四年にもわたる長期の旅です。杜甫はその間をただ遊んで過ごしていたのではなく、移動しながら各地の寺院に滞在し、寺院の所蔵する書巻を読んだり、書写したりして勉学に励んでいたと思われます。
当時は書物は貴重品で、一般の家にあるというものではなく、宮廷か民間では寺院などに所蔵されていました。だから当時の若者は寺院に籠もって勉学をするのが普通でした。江南は南朝文化の栄えた土地でしたので、北朝の都であった洛陽よりも文化遺産は豊富であったと思われます。
開元二十二年(734)の冬、杜甫は剡渓(「天姥」は剡中にある山)から鞏県にもどり郷試(ごうし)を受けて及第したようです。このことは詩には書かれていませんが、杜甫にとっては書くほどのこともない当然のことだったのでしょう。翌開元二十三年の春、二十四歳のときに貢挙(こうきょ)を受験します。貢挙は長安で行われるのが通例ですが、この年は二十一年に関中一帯が大雨になり、食糧不足に陥ったため、二十二年の正月から玄宗以下の朝廷は洛陽に移動していました。食いつなぐための臨時の移動です。
試験は洛陽の崇業坊にあった福唐観という道教の寺院で行われました。詩中で杜甫は屈原や賈誼、曹植や劉の名を持ち出して自信満々のようでしたが、落第してしまいました。この年の進士合格者は二十七名であったそうです。詩中に「考功」とあるのは尚書省吏部の考功員外郎(従六品上)のことで、礼部侍郎(正四品上)が知貢挙(貢挙の責任者)になるのは開元二十四年からです。自信家の杜甫は考功員外郎程度の者から採点されて落ちたのでは不満だったかも知れません。しかし、落第したのでは都を退くほかはありません。
杜甫1
壮遊 壮 遊
往者十四五 往者(むかし)十四五
出遊翰墨場 出でて翰墨(かんぼく)の場(にわ)に遊ぶ
斯文崔魏徒 斯文(しぶん)なる崔魏(さいぎ)の徒(と)は
以我似班揚 我を以て班揚(はんよう)に似たりとす
七齢思即壮 七齢(しちれい)にして思い即ち壮(そう)なり
開口詠鳳凰 口を開きて鳳凰(ほうおう)を詠ず
九齢書大字 九齢(きゅうれい)にして大字(だいじ)を書し
有作成一囊 作(さく)有りて一囊(いちのう)を成(な)す
性豪業嗜酒 性は豪(ごう)にして業(すで)に酒を嗜(たしな)み
嫉悪懐剛腸 悪を嫉(にく)みて剛腸(ごうちょう)を懐(いだ)く
脱落小時輩 脱落(だつらく)して時輩(じはい)を小(いや)しみ
結交皆老蒼 交(こう)を結ぶは皆(みな)老蒼(ろうそう)なり
飲酣視八極 飲(いん)酣(たけなわ)にして八極を視(み)れば
俗物多茫茫 俗物(ぞくぶつ)多く茫茫(ぼうぼう)たり
東下姑蘇台 東 姑蘇台(こそだい)に下れば
已具浮海航 已(すで)に浮海(ふかい)の航(こう)の具(そな)えあり
到今有遺恨 今に到るも遺恨(いこん)有るは
不得窮扶桑 扶桑(ふそう)を窮(きわ)むるを得(え)ざりしこと
王謝風流遠 王謝(おうしゃ)の風流(ふうりゅう)は遠く
闔閭丘墓荒 闔閭(こうりょ)の丘墓(きゅうぼ)は荒れたり
剣池石壁仄 剣池(けんち)の石壁(せきへき)は仄(かたむ)き
長洲芰荷香 長洲(ちょうしゅう)の芰荷(きか)は香(か)んばし
嵯峨閶門北 嵯峨(さが)たる閶門(しょうもん)の北
清廟映迴塘 清廟(せいびょう)は迴塘(かいとう)に映ず
毎趨呉太伯 呉(ご)の太伯(たいはく)に趨(もう)ずる毎(ごと)に
撫事涙浪浪 事(こと)を撫(しの)びて涙は浪浪(ろうろう)たり
蒸魚聞匕首 蒸魚(じょうぎょ)の匕首(ひしゅ)を聞く
除道哂耍章 除道(じょどう)せしめて耍章(ようしょう)を哂(わら)う
枕戈憶勾踐 戈(か)を枕にせし勾踐(こうせん)を憶い
渡浙想秦皇 浙(せつ)を渡りては秦皇(しんのう)を想う
越女天下白 越女(えつじょ)は天下に白く
鑑湖五月涼 鑑湖(かんこ)は五月も涼し
剡渓蘊秀異 剡渓(せんけい)は秀異(しゅうい)を蘊(つつ)み
欲罷不能忘 罷(や)めんと欲すれど忘る能(あた)わず
帰帆払天姥 帰帆(きはん)は天姥(てんぼ)を払い
中歳貢旧郷 中歳(ちゅうさい)にして旧郷より貢(こう)せらる
気劘屈賈塁 気は屈賈(くつか)の塁(るい)を劘(けず)り
目短曹劉墻 目は曹劉(そうりゅう)の墻(しょう)を短(たん)とす
忤下考功第 忤(さか)らいて考功(こうこう)の第(だい)より下(お)ち
独辞京尹堂 独り京尹(けいいん)の堂(どう)を辞す
⊂訳⊃
かつて十四五歳のとき
文学の世界に乗り出した
学者の崔尚や魏啓心らは
班固・揚雄のようだと私をほめる
詩文への思いは七歳にして壮んとなり
鳳凰の詩を口ずさんだ
九歳のときには立派な字を書き
作品は成って囊(ふくろ)にみちた
性格は豪放ではやくも酒を嗜み
心は剛直で悪をにくんだ
同年の小さな輩(やから)は眼中になく
交際するのは みな年上の人だった
酔いがまわって世界の隅々を眺めると
俗物がのさばり広がっている
東のかた 姑蘇台に向かい
海上をゆく船の用意もした
いまでも残念に思うのは
東海の扶桑の国へ行かなかったことだ
晋の王導や謝安の風流は遠くへだたり
呉王闔閭の墓は荒れていた
剣池には 石の壁がかたむきかかり
長洲苑には菱や蓮の花が匂っている
高く聳える閶門の北
清らかな廟が まわりの池に影をさす
呉太伯の塚に参るたびに
昔を想って涙はつきない
魚腹に匕首を隠した専諸の故事を聞き
故郷に錦を飾る朱買臣の話をおかしく思う
戈を枕にした越王勾踐のことを憶い
浙江を渡れば始皇帝の昔を想う
越の女は天下に聞こえた色白の美人
鑑湖のあたりは五月であるのに涼しいと感ずる
剡渓には山水の奇勝があつまり
想い出は忘れようとしても忘れられない
帰りの船は 天姥の峰をかすめてゆき
若年を過ぎて貢挙に推薦される
意気は屈原・賈誼の才能に挑み
曹植・劉をも見くだすほどだ
考功員外郎の意に副わず
落第してひとり京兆尹の政堂を辞す
⊂ものがたり⊃ 杜甫は玄宗皇帝が即位した先天元年(712)に生まれました。李白よりは十一歳の年少です。杜甫の先祖については詳しい研究がありますので、ここでは杜甫の曽祖父杜依芸(といげい)が唐代に官途につき、河南道河南府鞏県(河南省鞏県)の県令になったことから述べておきましょう。
祖父杜審言(しんげん)、父杜閑、その子杜甫は鞏県(きょうけん)の曽祖父の家を本貫として世に出ました。祖父杜審言は則天武后のときに尚書省膳部員外郎(従六品上)に任じられ、詩人としても有名でしたが、神龍元年(705)の政変のときに失脚して峰州(ベトナム)に流されました。後に許されて都に還りますが、従六品上より上には上れませんでした。
杜甫の生まれた家は現在の鞏県から東北へ12kmほど行った城関という町にあり、ここが旧鞏県城の地と言われています。町の郊外に南瑶湾(なんようわん)という集落があり、黄土の崖に穿たれた土室(窰洞:ヤオトン)が杜甫の生家として保存されているそうです。
杜甫の母崔氏は唐の宗室の血を引く女性ですが、母方の祖母が政変によって没落した皇族の家の出であったという関係です。母崔氏は杜甫が四歳のころには亡くなり、継母に育てられた時期があったようです。杜甫のすぐ下の弟杜頴(とえい)は生母の氏が不明ですので、異母弟になると思われます。
杜甫は八歳のころには、洛陽に住んでいた「おば」二姑(アルクー)に預けられ、洛陽城内の仁風里で育ったようです。杜甫の幼時の記録は残されていませんが、杜甫が五十五歳のときに夔州(四川省奉節県)で書いた自伝的五言古詩があり、五十五歳の目で見た幼時の杜甫が語られます。
この詩「壮遊」(そうゆう)によると杜甫は七歳で詩文に目ざめ、九歳のときには「大字」(立派な正式の文字と解します)を書き、作品は袋に満ちるほどであったと言っています。十四五歳のときには文人の仲間入りをして、先輩の知識人からほめられるような作品を書いたとあります。しかし、杜甫の少年時から三十歳近くまでの作品は一切残されていません。杜甫自身が未熟な作品として廃棄したものと思われます。
開元十三年(725)には、杜甫は十四歳になっています。この年の十一月、玄宗は泰山に行幸して封禅の儀を執り行いました。皇帝の車駕はまず洛陽に入って祝賀の諸行事が行われ、行列の準備がととのえられます。河南道の諸州からは準備のために人や物資があつまり、州刺史をはじめ諸役人が入都して、洛陽は空前の賑わいを呈したことでしょう。そんな中で、杜甫は崔尚(さいしょう)や魏啓心(ぎけいしん)らの知識人と知り合い、才能を認められました。崔・魏の二人は共に進士及第者で河南道内の州府の若い官吏でした。
十代の後半になると、早熟な杜甫は同年配の者と話が合わず、もっぱら年長者と交際していたと言っています。杜甫は洛陽の盛り場に出入りして、酒も嗜むと言えるほどに飲み、酔えばあたりを見まわして、俗物どもがうごめいていると、世の中を見下していました。
開元十九年(731)に杜甫は二十歳になり、呉越の旅に出ます。当時、蘇州の北(洛陽からすれば蘇州の手前になります)40km弱の常熟県(江蘇省常熟県)に「おば」のひとりが住んでいて、杜甫はまず「おば」の家を訪ねたでしょう。そのあと蘇州や蘇州周辺の呉の遺跡を歩きまわり、南都建康(江蘇省南京市)まで足を伸ばしたようです。
詩は四句ずつひとまとめになっており、はじめの十二句は呉の地方に関するものです。そのはじめ四句は「姑蘇台」に登って東の海に思いをはせたこと、つぎの四句は建康の「王謝の風流」の跡を見たこと、呉王「闔閭の丘墓」の荒れたようす、蘇州郊外虎丘にある「剣池」や漢の呉王劉鼻の「長洲(苑)の芰荷」といった蘇州周辺の名所旧跡をめぐったこと、三番目の四句はそのころ蘇州の閶門(蘇州城の西北門で正門に当たります)の北にあった呉の祖太伯の廟に幾度も詣で、そのたびに涙が流れたことを詠っています。各人物や遺跡の説明は省略します。
呉の地でゆっくり滞在したあと、杜甫は越(えつ)へ向かいます。杜甫には常熟県の「おば」のほかに武康県(浙江省湖州市)で県尉をしている「おじ」の杜登がいました。武康は太湖の南にありますので、越州(浙江省紹興市)へゆく途中、杜登の家に立ち寄って呉の刺客専諸(せんしょ)や漢の朱買臣(しゅばいしん)の秘話を聞いたのかもしれません。
武康から南へ余杭(浙江省杭州市)をへて銭塘江を渡るとき、かつてここを秦の始皇帝が渡ったことを思い出します。越州にはいると、若い杜甫は色白の美人が多いことに目をとめます。美女西施(せいし)の伝説があるので、杜甫も越の美女には期待していたのでしょう。「鑑湖」(かんこ)は越州山陰県にある湖で、南国の五月というのに涼しい風が吹いていると気持ちよさそうです。そこからさらに、杜甫は南の山間にはいり、名勝の剡渓(せんけい)まで足を延ばしたようです。
「壮遊」の詩をたどっていくと、杜甫はもっぱら名所旧跡をたどりながら観光旅行をしているようにみえます。しかし、江南旅行は四年にもわたる長期の旅です。杜甫はその間をただ遊んで過ごしていたのではなく、移動しながら各地の寺院に滞在し、寺院の所蔵する書巻を読んだり、書写したりして勉学に励んでいたと思われます。
当時は書物は貴重品で、一般の家にあるというものではなく、宮廷か民間では寺院などに所蔵されていました。だから当時の若者は寺院に籠もって勉学をするのが普通でした。江南は南朝文化の栄えた土地でしたので、北朝の都であった洛陽よりも文化遺産は豊富であったと思われます。
開元二十二年(734)の冬、杜甫は剡渓(「天姥」は剡中にある山)から鞏県にもどり郷試(ごうし)を受けて及第したようです。このことは詩には書かれていませんが、杜甫にとっては書くほどのこともない当然のことだったのでしょう。翌開元二十三年の春、二十四歳のときに貢挙(こうきょ)を受験します。貢挙は長安で行われるのが通例ですが、この年は二十一年に関中一帯が大雨になり、食糧不足に陥ったため、二十二年の正月から玄宗以下の朝廷は洛陽に移動していました。食いつなぐための臨時の移動です。
試験は洛陽の崇業坊にあった福唐観という道教の寺院で行われました。詩中で杜甫は屈原や賈誼、曹植や劉の名を持ち出して自信満々のようでしたが、落第してしまいました。この年の進士合格者は二十七名であったそうです。詩中に「考功」とあるのは尚書省吏部の考功員外郎(従六品上)のことで、礼部侍郎(正四品上)が知貢挙(貢挙の責任者)になるのは開元二十四年からです。自信家の杜甫は考功員外郎程度の者から採点されて落ちたのでは不満だったかも知れません。しかし、落第したのでは都を退くほかはありません。
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