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tiandaoの自由訳漢詩

ティェンタオの自由訳漢詩 杜牧81ー87

2011年09月29日 | Weblog
 杜牧ー81
    途中作             途中にて作る

  緑樹南陽道     緑樹(りょくじゅ)  南陽の道
  千峯勢遠随     千峰(せんぽう)  勢い遠く随(したが)う
  碧渓風澹態     碧渓(へきけい)  風澹(しず)まりし態(さま)
  芳樹雨余姿     芳樹(ほうじゅ)  雨余(や)みし姿
  野渡雲初暖     野渡(やと)    雲(くも)初めて暖かく
  征人袖半垂     征人(せいじん)  袖(そで)半(なか)ば垂る
  残花不一酔     残花(ざんか)   一酔(いっすい)せずんば
  行楽是何時     行楽(こうらく)は 是(こ)れ何(いず)れの時ぞ

  ⊂訳⊃
          南陽の道に  樹々は豊かな緑色
          行っても行っても  山が遠くに見えている
          澄んだ流れ   風も穏やかに吹き
          花咲く樹々の  濡れた姿がみずみずしい
          野原の渡場で 雲はようやく暖かになり
          旅衣の袖は  濡れていささか垂れている
          ゆく春よ  散りゆく花よ  ここでひと酔いしなければ
          人生いったい  いつになったら楽しめるのか


 ⊂ものがたり⊃ この詩は「村行」と同じ時期の作品でしょう。南陽の道の右手、遠くには秦嶺の南に横たわる武当山のやまやまがどこまでも続いています。小川の清い流れ、吹く風も穏やかで、花咲く樹々は雨に濡れて、みずみずしく照り映えています。旅装の袖は濡れましたが、暖かな春の陽気に包まれて、杜牧はひと酔いするのも人生の喜びではないかと思うのでした。

 杜牧ー82
    春尽途中             春尽くる途中

  田園不事来遊宦   田園  事(こと)とせず  来たりて遊宦(ゆうかん)す
  故国誰交爾別離   故国より  誰か爾(なんじ)をして別離(べつり)せ交(し)むる
  独倚関亭還把酒   独り関亭(かんてい)に倚(よ)りて  還(ま)た酒を把(と)る
  一年春尽送春時   一年  春尽きて  春を送るの時

  ⊂訳⊃
          田園に隠れて住まず  地方まわりの役人ぐらし

          どうした運命で  おれは故郷から出てゆくのか

          関亭の宿に坐し  ひとり酒を飲む

          春も終わって   春を見送る切なさよ


 ⊂ものがたり⊃ 杜牧は陽春の気にすこし浮かれ、村人の親切に心なごむときもあるが、地方勤めをくりかえす身のわびしさに嘆く日もある。宿舎の部屋にひとり坐して酒にまぎらす夜もあり、いつしか春は過ぎようとし、夏が近づいていた。

 杜牧ー83
   題安州浮雲寺楼        安州の浮雲寺の楼に題し
   寄湖州張郎中         湖州の張郎中に寄す

  去夏疎雨余     去夏(きょか)  疎雨(そう)の余(のち)
  同倚朱欄語     同(とも)に朱欄(しゅらん)に倚(よ)りて語る
  当時楼下水     当時  楼下(ろうか)の水
  今日到何処     今日  何(いず)れの処(ところ)にか到れる
  恨如春草多     恨みは  春草(しゅんそう)の如く多く
  事与孤鴻去     事(こと)は  孤鴻(ここう)と与(とも)に去る
  楚岸柳何窮     楚岸(そがん)  柳(やなぎ)何ぞ窮(きわ)まらん
  別愁紛若絮     別愁(べつしゅう)  紛(ふん)として絮(じょ)の若(ごと)し

  ⊂訳⊃
          去年の夏は   ちょうど小雨がやんだあと
          紅欄にもたれて語り合う
          あのときの   楼下の水は
          今ごろどこを  流れているのか
          無念の思いは 春草のように深く
          昔のことは   鴻とともに飛び去った
          楚地の岸辺に 果てしなくつづく柳の木よ
          別れの愁いは 柳絮のように舞っている


 ⊂ものがたり⊃ 杜牧の一行は陸路をとり、安州(湖北省安陸県)に着きます。安州は去年の夏に訪れた城市で、そのとき「浮雲寺楼」(ふうんじろう)に上って張文規と飲み明かしました。浮雲寺は安州の州廨内にあった寺の名ですが、寺ははやくに廃され、高楼だけが残っていました。高楼は浮雲楼とも呼ばれ、遊宴の場所になっていました。
 杜牧は浮雲楼の壁に詩を書きつけ、ここでも「恨みは 春草の如く多く」と詠います。あわせてその詩を湖州(浙江省呉興県)の任地にいる刺史の張文規に送りますが、詩題に「張郎中」とあるのは、張文規がかつて尚書省の郎中であったからです。「楚岸」とあるのは、安州がいにしえの楚の国であったからです。楚地を言うことによって、憂国の詩人屈原を暗示しているのかもしれません。失望の思いを湖州の友に伝えて、杜牧は夏四月、黄州に着任します。

 杜牧ー84
     早雁               早雁

  金河秋半虜弦開   金河(きんが)  秋半(なか)ばにして  虜弦(りょげん)開く
  雲外驚飛四散哀   雲外(うんがい)に驚飛(けいひ)して  四散して哀しむ
  仙掌月明孤影過   仙掌(せんしょう)  月明らかにして  孤影(こえい)過ぎ
  長門燈暗数声来   長門(ちょうもん)  灯(ともしび)暗くして  数声(すうせい)来たる
  須知胡騎紛紛在   須(すべか)らく知るべし  胡騎(こき)紛紛(ふんぷん)として在るを
  豈逐春風一一廻   豈(あに)に春風を逐(お)って  一一廻(かえ)らんや
  莫厭瀟湘少人処   厭(いと)う莫(なか)れ  瀟湘(しょうしょう)  人少(まれ)なる処と
  水多菰米岸莓苔   水に菰米(こべい)多く  岸に莓苔(ばいたい)あり

  ⊂訳⊃
          仲秋八月 金河の畔  胡人の矢が放たれた
          雁は驚き四方へ飛び  空に哀しく鳴きわたる
          月影明るい承露盤を  孤雁の影はかすめ
          灯火くらい長門宮に  すすり泣く雁の声がする
          雁よ  胡騎が紛々と  乱れ飛ぶのを知るべきだ
          もはや春風を追って  故郷へはもどれない
          瀟湘の地は  人の住めない荒地ではなく
          池に真菰の実は多く  岸には苔もはえている


 ⊂ものがたり⊃ 都で黄州刺史の発令を受けたころ、杜牧は眼医ならば石公集よりも、その姻戚の周師達(しゅうしたつ)のほうが技術は上だと耳にしていました。そこで黄州に着くと、すぐに大金を払って周師達を呼び寄せ、弟のいる蘄州(きしゅう)に連れてゆきました。周師達は杜の目をひとめ見て、目に赤脈があり、この症状では針は効かない、よい薬もないので治療は引き受けられないと辞退しました。杜夫妻はもちろん、杜牧も事の意外に愕然としましたが、石公集を信用したために手遅れになったのは明らかでした。
 ちょうどそのとき、もうひとりの従兄杜悰(とそう)が、剣南西川節度使(四川省成都に在府)から淮南節度使になって、揚州(江蘇省揚州市)に赴任するという知らせが入りました。揚州ならば南蛮人の渡来も多く、眼科に特別な技能を持つ者に逢えるかも知れないと思い、秋になると杜牧は弟一家を連れて揚州に行きました。杜悰のはからいもあって、杜一家は揚州に住むことになります。
 杜牧が揚州から黄州にもどってすぐのころ、回鶻(ウイグル)が南下して中国の北方辺境を侵したとの報せが届きました。回鶻は安史の乱のとき、粛宗を援けて乱の平定に功績があり、唐と西方との交易を独占して繁栄するようになっていました。しかし、開成五年(840)、つまり文宗が亡くなった年に黠戛斯(キルギス)族の襲撃を受け、回鶻王国は崩壊しました。追われた回鶻の一部が雲州(山西省大同市)に侵入して住民を襲い、唐側に大量の流民が発生しました。
 詩の冒頭の「金河」はひろく北辺を流れる河をいい、国境を意味します。「仙掌」は漢の武帝が建章宮内に設けた承露仙人掌のことで、仙薬を作るための露を集める盤です。「長門」は同じ武帝のとき寵を失った陳皇后が退去させられて住んでいた宮殿です。つまりこの詩は、回鶻の侵入によって生じた流民を雁に喩え、時代を漢に借りて、事件が宮廷に驚愕をもたらしたことを詠っています。
 そして、もう動乱の北へはもどれない、南の「瀟湘」(洞庭湖の南方)の地に住んだらどうかと呼びかけ、南方は豊かな土地だと訴えています。胡族南下の報に接して、杜牧は国を憂え、民の生活を案ずるのでした。

 杜牧ー87
     赤壁                赤壁

  折戟沉沙鉄未銷   折戟(せつげき)  沙(すな)に沈んで  鉄未(いま)だ銷(と)けず
  自将磨洗認前朝   自(おのず)から  磨洗(ません)を将(も)って  前朝(ぜんちょう)を認む
  東風不与周郎便   東風(とうふう)  周郎(しゅうろう)の与(ため)に便ぜずんば
  銅雀春深鎖二喬   銅雀(どうじゃく)  春深くして  二喬(にきょう)を鎖(とざ)さん

  ⊂訳⊃
          戟の切片を掘り出した  鉄はまだ錆びてはおらず

          洗って磨くと         三国時代の遺物であった

          呉の将軍周瑜のために 東風が吹いてくれなければ

          喬家の姉妹は捉えられ  春の夜を銅雀台で嘆いたであろう


 ⊂ものがたり⊃ 秋になると、杜牧は三国魏の曹操が呉に敗れたことで有名な「赤壁」(せきへき)を訪ねました。赤壁は三国志で名高い古戦場で、呉の将軍周瑜(しゅうゆ)が曹操の水軍を火攻めで破りました。
 「二喬」は呉の喬家の姉妹で、姉は呉王孫策(そんさく)に嫁し、妹は周瑜に嫁しました。杜牧はここでも歴史に「もし…」を適用し、周瑜が魏軍を破らなければ、喬家の姉妹は魏都鄴(ぎょう:河北省臨漳県)の銅雀台に囚われの身となって、不運を嘆くことになったであろうと詠います。
 ただし、杜牧が訪ねた黄州の赤壁は長江北岸にある赤鼻山(湖北省黄岡市の西北)の赤壁で、長江南岸にある実際の古戦場よりは下流になります。赤壁という地名はほかにもあり、当時は史跡の考証も充分でなかったので、杜牧は間違いの赤壁に行ったことになります。