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tiandaoの自由訳漢詩

ティェンタオの自由訳漢詩 李白102ー106

2009年06月29日 | Weblog
 李白ー102
   対酒憶賀監二首 其二   酒に対って賀監を憶う 二首  其の二

  狂客帰四明     狂客(きょうかく)  四明(しめい)に帰れば
  山陰道士迎     山陰(さんいん)の道士迎う
  敕賜鏡湖水     敕(ちょく)して鏡湖(きょうこ)の水を賜(たま)い
  為君台沼栄     君が台沼(だいしょう)の栄(えい)と為(な)す
  人亡余故宅     人は亡びて故宅(こたく)を余(あま)し
  空有荷花生     空しく荷花(かか)の生ずる有り
  念此杳如夢     此(これ)を念(おも)えば杳(よう)として夢の如し
  淒然傷我情     淒然(せいぜん)として我が情(じょう)を傷ましむ

  ⊂訳⊃
          狂客先生が四明に帰ると
          山陰の道士たちは迎える
          天子は  勅命によって鏡湖の水をくだされ
          君の庭の山泉に栄誉を添えた
          人は死して旧宅を遺し
          蓮の花は  池に空しく咲いている
          思えば   遥かに遠く夢のようで
          淋しさに  私の胸は締めつけられる


 ⊂ものがたり⊃ 李白は冬から翌天宝六載(747)の春まで揚州にとどまり、春の末に長江を遡って金陵(南京市)に行きます。金陵(六朝の都建康の雅名ですが、李白はこの名を好んでいました)にはこれまで幾度も立ち寄り、知友も多かったのです。金陵では仲間と飲んでまわり、崔成甫(さいせいほ)の宅に押しかけたりしました。崔成甫は御史台の侍御史(従六品下)でしたが、このころ左遷されて金陵にいたのです。
 金陵で過ごしたあと、夏には長江を下って潤州(江蘇省鎮江市)に立ち寄り、運河に入って南下し、越州(浙江省紹興市)へ行きました。賀知章は天宝三載の正月に職を辞して故郷の山陰(越州の治所)にもどってから、ほどなく亡くなっていました。だから、その墓に詣でるのが李白が越州に来た目的のひとつでした。
 詩の初句に「四明に帰れば」とあるのは、賀知章が山陰の東にある四明山を愛し、自分の号に用いていたからです。また詩中で「敕して鏡湖の水を賜い 君が台沼の栄と為す」と言っているのは、賀知章が都を辞するときに、玄宗が鏡湖・剡川の一曲を下賜したので、そのことを名誉として述べ、死ねばそうした栄誉も空しいことを悲しんでいるのです。

 李白ー103
   登金陵鳳皇台         金陵の鳳皇台に登る

  鳳皇台上鳳皇遊   鳳皇(ほうおう)台上   鳳皇遊びしが
  鳳去台空江自流   鳳(ほう)去り台(だい)空しゅうして  江自ら流る
  呉宮花草埋幽径   呉宮の花草(かそう)  幽径(ゆうけい)を埋(うず)め
  晋代衣冠成古丘   晋代の衣冠(いかん)  古丘(こきゅう)と成(な)れり
  三山半落青天外   三山(さんざん)半ば落つ  青天(せいてん)の外
  一水中分白鷺洲   一水(いっすい)中分す    白鷺洲(はくろしゅう)
  総為浮雲能蔽日   総(す)べて浮雲(ふうん)の能(よ)く日を蔽うが為に
  長安不見使人愁   長安は見えず  人をして愁(うれ)えしむ

  ⊂訳⊃
          金陵の鳳皇台上で  かつて鳳凰は遊んだが
          鳳凰は去って  長江は虚しく流れる
          呉宮の草花は  小径の雑草に埋もれ
          晋朝の貴人は  古びた塚となる
          三山の嶺は   半ば青天のそとへ傾き
          長江の流れは  白鷺洲で二分される
          だがすべて   光は雲に蔽われて
          長安は遥かに遠く  私は愁いに沈むのだ


 ⊂ものがたり⊃ 越州の山陰で賀知章の墓に詣でて詩を献じたあと、李白は四明山に登り、さらに南下して天台山に至ります。李白は天姥山を望む地に来たわけですが、そこには留まらず、冬には金陵にもどってきました。
 天宝七載(748)は夏になると再び揚州に行き、秋には西にもどって霍山(かくさん・安徽省六安市の南)に遊び、冬には廬江(安徽省廬江県)太守の呉王祗(ごおうし)を訪ねています。翌天宝八載(749)の春には廬江から金陵にもどり、この年は金陵に留まっていましたので、金陵を題材とした詩を三首ほどつづけて取り上げます。
 金陵で作った詩は制作年の不明なものが多いのですが、掲げた詩は南朝の都であった建康(金陵は雅名)が滅んで、いまはその跡だけがかつての栄華の面影を伝えていると詠います。そして「長安は見えず 人をして愁えしむ」と結んでいます。実際の長安が見えないのは当然であり、ここでは長安にいる天子の聡明さが覆い隠されて見ないと言っているのであり、時の政事のあり方を愁えているのです。

 李白ー104
   望金陵漢江         金陵にて漢江を望む

  漢江廻万里     漢江(かんこう)  万里を廻(めぐ)り
  派作九龍盤     派(は)して作(な)す九龍の盤(ばん)
  横潰豁中国     横潰(おうかい)して中国豁(ひろ)く
  崔嵬飛迅湍     崔嵬(さいかい)  迅湍(じんたん)飛ぶ
  六帝淪亡後     六帝(りくてい)  淪亡(りんぼう)の後
  三呉不足観     三呉(さんご)   観るに足らず
  我君混区宇     我が君  区宇(くう)を混(こん)じ
  垂拱衆流安     垂拱(すいきょう)して衆流(しゅうりゅう)安し
  今日任公子     今日の任公子(じんこうし)
  滄浪罷釣竿     滄浪(そうろう)にて釣竿(ちょうかん)を罷(や)めたり

  ⊂訳⊃
          長江は万里をめぐり
          分流して九龍の盤(さら)となる
          決潰して全土に溢れ
          早瀬となって峻岳に飛ぶ
          六朝滅亡の後は
          三呉の地に見るべき者なく
          君公は天下をまぜ合わせ
          労せずして流れは安らか
          だから今日の任公子は
          清い流れで釣るのをやめる


 ⊂ものがたり⊃ 玄宗の寵姫楊太真は天宝四載(745)に貴妃(正一品)になり、皇后は亡くなったあと立てられていませんでしたので、楊貴妃は文字通り宮中第一の人になりました。楊貴妃の三人の姉や一族の者は高位高官に封ぜられ、栄華をきわめています。
 詩中の「漢江」は長江のことで、六朝滅亡の後は江南地方に見るべき者はいなくなり、天子は「垂拱」(何もしないこと)していても天下は太平であると皮肉をこめて言っています。だから「今日の任公子」、つまり李白は釣るのを止めたと詠っています。「任公子」は『荘子』に出てくる説話上の人物で、五十匹の牛を餌にして大魚を釣りあげ、人々を満腹させたという話です。

 李白ー105
   金陵城西楼月下吟     金陵城西楼 月下の吟

  金陵夜寂涼風発   金陵(きんりょう)の夜は寂(せき)として涼風発す
  独上高楼望呉越   独り高楼に上り  呉越(ごえつ)を望む
  白雲映水揺空城   白雲(はくうん)  水に映じて空城(くうじょう)を揺り
  白露垂珠滴秋月   白露(はくろ)  珠(しゅ)を垂れて秋月に滴(したた)る
  月下沈吟久不帰   月下に沈吟(ちんぎん)して久しく帰らず
  古来相接眼中稀   古来  相(あい)接して眼中(がんちゅう)稀(まれ)なり
  解道澄江浄如練   解道(かいどう)す  澄江浄きこと練(れん)の如きを
  令人長憶謝玄暉   人をして長く謝玄暉(しゃげんき)を憶わしむ

  ⊂訳⊃
          金陵城下  夜は静かに更けて涼しい風が吹く
          独り高楼に登って  呉越の地を眺める
          白雲は水に映って  荒城の月とたわむれ
          白露は珠となって  月の光が滴るようだ
          月下に詩を吟じ   久しく旅をつづけているが
          昔から交際しても  心に通うことは稀である
          見事な一句は  「澄江浄きこと練の如し」
          だから私はいつまでも  謝玄暉を慕うのだ


 ⊂ものがたり⊃ この詩は李白の金陵詩のなかでの秀作といえるでしょう。ただし、「金陵城西楼」というのは不明で、金陵の街の西に清涼山があり、そこに「高楼」が建っていたのかも知れないとされています。
 頷聯(三句と四句)の対句は金陵城の夜を描いて名句とされており、白雲の映る水は江水ではなく、池の水であろうとされています。頚聯の「久しく帰らず」は東魯を出てから旅をつづけていることを意味し、三年目の春を迎えているのです。「眼中」はいつも心に思うことで、李白は自分を理解してくれる人がいないことを嘆いています。
 最後に「澄江(とうこう)浄(きよ)きこと練の如し」という句を引用していますが、これは南朝斉の詩人謝朓(しゃちょう・字は玄暉)の詩句で、李白はこの詩句に共感すると詠っています。詩人として心境の変化を感じさせる言葉です。

 李白ー106
   聞王昌齢左遷        王昌齢の龍標へ左遷せらるる
   龍標遥有此寄        を聞き遥かに此の寄有り

  楊花落尽子規啼   楊花(ようか)落ち尽くして子規(しき)啼(な)く
  聞道龍標過五渓   聞道(きくなら)く 龍標(りゅうひょう) 五渓を過ぐと
  我寄愁心与明月   我れ愁心(しゅうしん)を寄せて明月に与(あた)う
  随風直到夜郎西   風に随(したが)って直ちに到れ 夜郎(やろう)の西

  ⊂訳⊃
          柳絮(りゅうじょ)も散りはて 子規(ほととぎす)が鳴いている
 
          聞けば龍標への道すがら  五渓のあたりを過ぎたとか

          明月よ    わたしの悲しみを伝えてくれ

          風に乗って 夜郎の先まで行ってくれ


 ⊂ものがたり⊃ 天宝八載(749)の初夏のころ、李白は友人の王昌齢が龍標(湖南省黔陽県)へ左遷されたことを金陵で耳にしました。龍標は夜郎(湖南省沅陵県)の南にありますので西というのは方向の誤りでしょう。
 李白は長安で知り合った友人の不運を聞くにつけ、漫然と猟官の旅をつづけている現在の自分の状況に諦めの気持ちも湧いてきたと思われます。前回の「金陵城西楼 月下の吟」の詩は、李白が「功を立てる」から「言を立てる」、つまり詩人として後世に残る作品を作ろうと作家精神に目覚めはじめた徴候とも考えられます。この時代、詩を作るということは官途に就くための手段であって、現代のように芸術としての高さそのものが価値を持っていた時代ではありませんでした。