杜甫ー183
旅夜書懐 旅夜 懐いを書す
細草微風岸 細草(さいそう) 微風(びふう)の岸
危墻独夜舟 危墻(きしょう) 独夜(どくや)の舟
星垂平野闊 星垂(た)れて平野闊(ひろ)く
月湧大江流 月湧(わ)いて大江(たいこう)流る
名豈文章著 名は豈(あ)に文章もて著(あらわ)さんや
官応老病休 官は応(まさ)に老病にて休(や)むべし
飄飄何所似 飄飄 何の似たる所ぞ
天地一沙鷗 天地 一沙鷗(いちさおう)
⊂訳⊃
そよ風が 岸辺の草の葉にそよぎ
寄る辺ない小舟で ひとり目ざめている
ひろがる野原に 星は低くたれさがり
月の光は波に揺れ 大河はどこまでも流れてゆく
男子の名誉は どうして詩文によって顕せよう
ところが私は 老いと病で官職も辞した
漂泊の身を 何にたとえたらよかろうか
浜にたたずむ一羽の鷗 天地の間をさまよっている
⊂ものがたり⊃ 舟は錦江を下って岷江の本流に出、やがて嘉州(四川省楽山市)に着きます。嘉州では従兄の家にしばらく滞在し、五月末には戎州(四川省宜賓市)に着きます。ここから長江の本流に入るのですが、当時は岷江が長江の本流と思われていましたので、別段の感慨はなかったでしょう。
戎州では楊刺史の招宴を受け、そこから渝州(四川省重慶市)へ向かうのです。渝州では北から嘉陵江が合流していますので、長江は水量を増すのですが、すぐに山間にさしかかりますので、流れは急になるでしょう。
掲げた詩は渝州から忠州(四川省忠県)に至る船中の作とされています。前半の四句では簡潔な対句を用いて、天地の間に投げ出されている者の孤独を巧みに表現しています。後半の四句で「名は豈に文章もて著さんや」と、杜甫は自己の人生の在り方に疑念を呈しています。 当時は文名が高くても、官職がなければ男子の名誉とはなりませんでした。そのうえ杜甫は生前において、さほど有名な詩人ではなかったのです。結びの二句「飄飄 何の似たる所ぞ 天地 一沙鷗」は杜甫の心境を描いて見事です。
杜甫ー184
放船 船を放つ
収帆下急水 帆を収(おさ)めて急水(きゅうすい)を下り
巻幔逐回灘 幔(まん)を巻きて回灘(かいだん)を逐(お)う
江市戎戎暗 江市(こうし) 戎戎(じゅうじゅう)として暗く
山雲淰淰寒 山雲(さんうん) 淰淰(せんせん)として寒し
荒林無径入 荒林(こうりん) 入るに径(こみち)無く
独鳥怪人看 独鳥(どくちょう) 人を怪しみて看(み)る
已泊城楼底 已に泊す 城楼(じょうろう)の底(そこ)
何曾夜色闌 何ぞ曾(かつ)て夜色(やしょく)闌(たけなわ)ならむ
⊂訳⊃
帆を巻いて急流をくだり
幔幕を上げて早瀬を進む
河岸の街は暗くけぶり
山の雲は寒々と去来する
荒れた林には径すらなく
一羽の鳥が怪訝に目をむける
やがて城楼の下に船を繋ぐが
夜はまだ更けきらぬころだった
⊂ものがたり⊃ 忠州では江辺の龍興寺に滞在して旅の疲れを癒しますが、このとき厳武の柩が舟で長江を下ってゆくのを見送っています。厳武の故郷は華陰(陝西省華陰県)でしたので、その地に帰葬するために運んでいったのです。
杜甫は忠州に三か月ほど滞在します。休息にしては永すぎる滞在ですが、杜甫の体の具合がすこしずつ悪くなってきていたようです。忠州を離れたのは九月になってからのようです。
詩は忠州から雲安(四川省雲陽県)まで長江を下るときの作とされており、岸辺の寒々としたようすが詠われています。長江に秋は深まり、雲安城下に船を繋いだのは、日暮れのまだ暗くならない時刻でした。
杜甫ー185
雲安九日鄭十八 雲安の九日に鄭十八酒を携
携酒陪諸公宴 う 諸公の宴するに陪す
寒花開已尽 寒花(かんか) 開くこと已に尽き
菊蘂独盈枝 菊蘂(きくずい) 独り枝に盈(み)つ
旧摘人頻畏 旧摘(きゅうてき) 人頻(しき)りに畏(こと)なり
軽香酒暫随 軽香(けいこう)に酒をば暫(しばら)く随う
地偏初衣裌 地(ち) 偏(へん)にして初めて裌(きょう)を衣(き)
山擁更登危 山に擁(よう)せられて更に危(あやう)きに登る
万国皆戎馬 万国(ばんこく) 皆(みな)戎馬(じゅうば)
酣歌涙欲垂 酣歌(かんか) 涙垂(た)れむと欲す
⊂訳⊃
秋の草花は 咲いてしまったが
菊の花だけは 枝に満ちている
節句に菊を摘む人も 年ごとにかわり
菊の香のかおる酒を しばし味わう
南国の辺鄙な土地で 袷に着替え
山沿いの高い場所であるのに さらに高処に登る
諸国はみな 兵乱に出逢い
宴たけなわというのに 涙がこぼれ落ちそうだ
⊂ものがたり⊃ 雲安に着いたのは九月九日の重陽節も近いころでした。地もとの詩人鄭兄弟が、杜甫を節句の宴席に招いてくれました。弟を鄭賁(ていふん)といい、排行は十八です。
詩中に「万国 皆戎馬 酣歌 涙垂れむと欲す」と言っているのは、前年の広徳二年(764)二月から起きている撲固懐恩(ぼくこかいおん)の乱のことです。撲固懐恩は鉄勒(てつろく:トルコ)系の武将で、安史の乱に際しては回鶻からの援兵を求める使者に立つなど功績がありました。ところが乱後の恩賞に不満があって、霊州(寧夏回族自治区霊武県)に兵を集めて叛旗を翻したのです。そのことが重陽節の宴会での話題になったのでしょう。
杜甫ー186
青 糸 青 糸
青糸白馬誰家子 青糸(せいし) 白馬 誰(た)が家の子ぞ
麄豪且逐風塵起 麄豪(そごう)且つ風塵(ふうじん)を逐(お)いて起こる
不聞漢主放妃嬪 聞かずや 漢主(かんしゅ)の妃嬪(ひひん)を放ちて
近静潼関掃蜂蟻 近ごろ潼関を静めて蜂蟻(ほうぎ)を掃(はら)いしことを
殿前兵馬破汝時 殿前(でんぜん)の兵馬 汝を破らむ時
十月即為虀粉期 十月 即ち虀粉(せいふん)の期(き)と為(な)さむ
不如面縛帰金闕 如(し)かず 面縛(めんばく)して金闕に帰せむには
万一皇恩下玉墀 万一皇恩(こうおん)玉墀(ぎょくち)より下らむ
⊂訳⊃
青糸の手綱 白馬に乗るのはどこの誰だ
粗豪の者が 風塵に乗じてのし上がる
聞いていないのか 天子が宮女を解放され
近くは潼関を攻め 賊徒を払いのけられた
殿前の兵馬が やがて汝を打ち破る
それは十月 汝が粉々になるときだ
それよりも 帰参して降服したならば
天子のお許しがあるかもしれない
⊂ものがたり⊃ 「青糸白馬」は南朝梁の叛臣侯景(こうけい)が青い手綱の白馬に乗って兵を挙げたことを指し、叛臣、つまりここでは撲固懐恩(ぼくこかいおん)のことを指しています。撲固懐恩は永泰元年(765)に兵を率いて長安に攻め上ってきましたが、その途中、九月に陣中で病没していました。
叛乱は挫折したのですが、その報せはまだ雲安には届いていなかったらしく、杜甫は十月には粉砕されるであろうと詠っています。この年の閏九月には蜀でも兵乱が起きていました。漢州刺史の崔旰(さいかん)が叛して、西川節度使の郭英乂(かくえいかい)を攻めました。厳武がいなくなったらすぐに兵乱だと、杜甫はおおいに憤慨するのです。
杜甫ー187
遣 憤 憤を遣る
聞道花門将 聞道(きくなら)く 花門(かもん)の将
論功未尽帰 功を論じて未だ尽(ことごと)く帰らずと
自従収帝里 帝里(ていり)を収めしより
誰復総戎機 誰か復(ま)た戎機(じゅうき)を総(す)ぶる
蜂蠆終懐毒 蜂蠆(ほうたい) 終(つい)に毒を懐(いだ)くも
雷霆可震威 雷霆(らいてい) 威を震(ふる)う可し
莫令鞭血地 鞭血(べんけつ)の地をして
再湿漢臣衣 再び漢臣の衣(ころも)を湿(うるお)さしむること莫(なか)れ
⊂訳⊃
聞けば 回鶻の将たちは
功賞を論じて帰らずにいるそうだ
賊徒から 都を取りもどして以来
誰が軍権を統べているのか
蜂や蠍(さそり)は 毒を持っていて当然だが
朝廷は 雷神の威を振るうべきである
回鶻に鞭を打たれて 廷臣の血が
再びながれるようなことがあってはならぬ
⊂ものがたり⊃ 安史の乱が終わっても、唐の政事はいっこうに安定しませんでした。それは朝廷に権威がないからだと杜甫はいきどおります。
このころ唐の軍権を握っていたのは宦官の魚朝恩(ぎょちょうおん)でした。魚朝恩は安史の乱のとき観軍容宣慰処置使に任ぜられて陝州(せんしゅう:河南省陝県)にいたとき、河北の前線から敗走してきた神策軍を掌握して陝州に駐屯していました。そこに広徳元年(764)十月に吐蕃の長安侵入があり、代宗は都を出て陝州に避難してきました。代宗は翌年になって魚朝恩の神策軍に護られて長安に帰還しましたので、以来、神策軍が従来の北衙禁軍(ほくがきんぐん)に代わって皇居を守る役目についたのです。
杜甫が詩中で「誰か復た戎機を総ぶる」と言っているのはこのことで、宦官が禁衛軍を統率するなど、杜甫にとっては言語道断のことでした。「蜀を去る」の詩で「安危には大臣あり 必ずしも涙長に流れしめず」(5月1日参照)と詠っていても、杜甫の憂国の情はとどめようとしても止まらないのです。
杜甫ー188
漫 成 漫 成
江月去人只数尺 江月(こうげつ) 人を去ること只(た)だ数尺
風灯照夜欲三更 風灯(ふうとう) 夜を照らして三更(さんこう)ならんと欲す
沙頭宿鷺聯拳静 沙頭(さとう)の宿鷺(しゅくろ)は聯拳(れんけん)として静かに
船尾跳魚撥剌鳴 船尾(せんび)の跳魚(ちょうぎょ)は撥剌として鳴る
⊂訳⊃
江上にうつる月は 数尺の近くにあり
風に揺れる灯火は 闇を照らして真夜中に近い
砂浜でねむる鷺は 拳(こぶし)を並べたように動かず
船尾で魚が 元気に跳ねる音がした
⊂ものがたり⊃ 杜甫は意気軒昂でしたが、夏から秋へかけての四か月間の旅は、五十四歳の杜甫の健康を害しました。風痺(ふうひ:関節炎)が悪化して、息子の肩を借りたうえ杖を使わなければ歩行もままならない状態になりました。
見かねた雲安の厳県令が河岸に適当な住居を提供してくれましたので、杜甫は雲安に滞在して、しばらく療養することにしました。詩題の「漫成」(まんせい)というのは、何となくできた詩という意味で、夜中に眠れずにひとり舟中に坐してあたりの夜景を詠んだ詩です。
叙景の詩のようにみえますが、深い孤独の感情がうかがわれます。家族のいる住居を離れて、ひとり舟中で思いにふけっているときの詩でしょう。風痺の回復には意外と時間がかかり、加えて冬にさしかかる季節でしたので、雲安滞在は半年に及びました。
旅夜書懐 旅夜 懐いを書す
細草微風岸 細草(さいそう) 微風(びふう)の岸
危墻独夜舟 危墻(きしょう) 独夜(どくや)の舟
星垂平野闊 星垂(た)れて平野闊(ひろ)く
月湧大江流 月湧(わ)いて大江(たいこう)流る
名豈文章著 名は豈(あ)に文章もて著(あらわ)さんや
官応老病休 官は応(まさ)に老病にて休(や)むべし
飄飄何所似 飄飄 何の似たる所ぞ
天地一沙鷗 天地 一沙鷗(いちさおう)
⊂訳⊃
そよ風が 岸辺の草の葉にそよぎ
寄る辺ない小舟で ひとり目ざめている
ひろがる野原に 星は低くたれさがり
月の光は波に揺れ 大河はどこまでも流れてゆく
男子の名誉は どうして詩文によって顕せよう
ところが私は 老いと病で官職も辞した
漂泊の身を 何にたとえたらよかろうか
浜にたたずむ一羽の鷗 天地の間をさまよっている
⊂ものがたり⊃ 舟は錦江を下って岷江の本流に出、やがて嘉州(四川省楽山市)に着きます。嘉州では従兄の家にしばらく滞在し、五月末には戎州(四川省宜賓市)に着きます。ここから長江の本流に入るのですが、当時は岷江が長江の本流と思われていましたので、別段の感慨はなかったでしょう。
戎州では楊刺史の招宴を受け、そこから渝州(四川省重慶市)へ向かうのです。渝州では北から嘉陵江が合流していますので、長江は水量を増すのですが、すぐに山間にさしかかりますので、流れは急になるでしょう。
掲げた詩は渝州から忠州(四川省忠県)に至る船中の作とされています。前半の四句では簡潔な対句を用いて、天地の間に投げ出されている者の孤独を巧みに表現しています。後半の四句で「名は豈に文章もて著さんや」と、杜甫は自己の人生の在り方に疑念を呈しています。 当時は文名が高くても、官職がなければ男子の名誉とはなりませんでした。そのうえ杜甫は生前において、さほど有名な詩人ではなかったのです。結びの二句「飄飄 何の似たる所ぞ 天地 一沙鷗」は杜甫の心境を描いて見事です。
杜甫ー184
放船 船を放つ
収帆下急水 帆を収(おさ)めて急水(きゅうすい)を下り
巻幔逐回灘 幔(まん)を巻きて回灘(かいだん)を逐(お)う
江市戎戎暗 江市(こうし) 戎戎(じゅうじゅう)として暗く
山雲淰淰寒 山雲(さんうん) 淰淰(せんせん)として寒し
荒林無径入 荒林(こうりん) 入るに径(こみち)無く
独鳥怪人看 独鳥(どくちょう) 人を怪しみて看(み)る
已泊城楼底 已に泊す 城楼(じょうろう)の底(そこ)
何曾夜色闌 何ぞ曾(かつ)て夜色(やしょく)闌(たけなわ)ならむ
⊂訳⊃
帆を巻いて急流をくだり
幔幕を上げて早瀬を進む
河岸の街は暗くけぶり
山の雲は寒々と去来する
荒れた林には径すらなく
一羽の鳥が怪訝に目をむける
やがて城楼の下に船を繋ぐが
夜はまだ更けきらぬころだった
⊂ものがたり⊃ 忠州では江辺の龍興寺に滞在して旅の疲れを癒しますが、このとき厳武の柩が舟で長江を下ってゆくのを見送っています。厳武の故郷は華陰(陝西省華陰県)でしたので、その地に帰葬するために運んでいったのです。
杜甫は忠州に三か月ほど滞在します。休息にしては永すぎる滞在ですが、杜甫の体の具合がすこしずつ悪くなってきていたようです。忠州を離れたのは九月になってからのようです。
詩は忠州から雲安(四川省雲陽県)まで長江を下るときの作とされており、岸辺の寒々としたようすが詠われています。長江に秋は深まり、雲安城下に船を繋いだのは、日暮れのまだ暗くならない時刻でした。
杜甫ー185
雲安九日鄭十八 雲安の九日に鄭十八酒を携
携酒陪諸公宴 う 諸公の宴するに陪す
寒花開已尽 寒花(かんか) 開くこと已に尽き
菊蘂独盈枝 菊蘂(きくずい) 独り枝に盈(み)つ
旧摘人頻畏 旧摘(きゅうてき) 人頻(しき)りに畏(こと)なり
軽香酒暫随 軽香(けいこう)に酒をば暫(しばら)く随う
地偏初衣裌 地(ち) 偏(へん)にして初めて裌(きょう)を衣(き)
山擁更登危 山に擁(よう)せられて更に危(あやう)きに登る
万国皆戎馬 万国(ばんこく) 皆(みな)戎馬(じゅうば)
酣歌涙欲垂 酣歌(かんか) 涙垂(た)れむと欲す
⊂訳⊃
秋の草花は 咲いてしまったが
菊の花だけは 枝に満ちている
節句に菊を摘む人も 年ごとにかわり
菊の香のかおる酒を しばし味わう
南国の辺鄙な土地で 袷に着替え
山沿いの高い場所であるのに さらに高処に登る
諸国はみな 兵乱に出逢い
宴たけなわというのに 涙がこぼれ落ちそうだ
⊂ものがたり⊃ 雲安に着いたのは九月九日の重陽節も近いころでした。地もとの詩人鄭兄弟が、杜甫を節句の宴席に招いてくれました。弟を鄭賁(ていふん)といい、排行は十八です。
詩中に「万国 皆戎馬 酣歌 涙垂れむと欲す」と言っているのは、前年の広徳二年(764)二月から起きている撲固懐恩(ぼくこかいおん)の乱のことです。撲固懐恩は鉄勒(てつろく:トルコ)系の武将で、安史の乱に際しては回鶻からの援兵を求める使者に立つなど功績がありました。ところが乱後の恩賞に不満があって、霊州(寧夏回族自治区霊武県)に兵を集めて叛旗を翻したのです。そのことが重陽節の宴会での話題になったのでしょう。
杜甫ー186
青 糸 青 糸
青糸白馬誰家子 青糸(せいし) 白馬 誰(た)が家の子ぞ
麄豪且逐風塵起 麄豪(そごう)且つ風塵(ふうじん)を逐(お)いて起こる
不聞漢主放妃嬪 聞かずや 漢主(かんしゅ)の妃嬪(ひひん)を放ちて
近静潼関掃蜂蟻 近ごろ潼関を静めて蜂蟻(ほうぎ)を掃(はら)いしことを
殿前兵馬破汝時 殿前(でんぜん)の兵馬 汝を破らむ時
十月即為虀粉期 十月 即ち虀粉(せいふん)の期(き)と為(な)さむ
不如面縛帰金闕 如(し)かず 面縛(めんばく)して金闕に帰せむには
万一皇恩下玉墀 万一皇恩(こうおん)玉墀(ぎょくち)より下らむ
⊂訳⊃
青糸の手綱 白馬に乗るのはどこの誰だ
粗豪の者が 風塵に乗じてのし上がる
聞いていないのか 天子が宮女を解放され
近くは潼関を攻め 賊徒を払いのけられた
殿前の兵馬が やがて汝を打ち破る
それは十月 汝が粉々になるときだ
それよりも 帰参して降服したならば
天子のお許しがあるかもしれない
⊂ものがたり⊃ 「青糸白馬」は南朝梁の叛臣侯景(こうけい)が青い手綱の白馬に乗って兵を挙げたことを指し、叛臣、つまりここでは撲固懐恩(ぼくこかいおん)のことを指しています。撲固懐恩は永泰元年(765)に兵を率いて長安に攻め上ってきましたが、その途中、九月に陣中で病没していました。
叛乱は挫折したのですが、その報せはまだ雲安には届いていなかったらしく、杜甫は十月には粉砕されるであろうと詠っています。この年の閏九月には蜀でも兵乱が起きていました。漢州刺史の崔旰(さいかん)が叛して、西川節度使の郭英乂(かくえいかい)を攻めました。厳武がいなくなったらすぐに兵乱だと、杜甫はおおいに憤慨するのです。
杜甫ー187
遣 憤 憤を遣る
聞道花門将 聞道(きくなら)く 花門(かもん)の将
論功未尽帰 功を論じて未だ尽(ことごと)く帰らずと
自従収帝里 帝里(ていり)を収めしより
誰復総戎機 誰か復(ま)た戎機(じゅうき)を総(す)ぶる
蜂蠆終懐毒 蜂蠆(ほうたい) 終(つい)に毒を懐(いだ)くも
雷霆可震威 雷霆(らいてい) 威を震(ふる)う可し
莫令鞭血地 鞭血(べんけつ)の地をして
再湿漢臣衣 再び漢臣の衣(ころも)を湿(うるお)さしむること莫(なか)れ
⊂訳⊃
聞けば 回鶻の将たちは
功賞を論じて帰らずにいるそうだ
賊徒から 都を取りもどして以来
誰が軍権を統べているのか
蜂や蠍(さそり)は 毒を持っていて当然だが
朝廷は 雷神の威を振るうべきである
回鶻に鞭を打たれて 廷臣の血が
再びながれるようなことがあってはならぬ
⊂ものがたり⊃ 安史の乱が終わっても、唐の政事はいっこうに安定しませんでした。それは朝廷に権威がないからだと杜甫はいきどおります。
このころ唐の軍権を握っていたのは宦官の魚朝恩(ぎょちょうおん)でした。魚朝恩は安史の乱のとき観軍容宣慰処置使に任ぜられて陝州(せんしゅう:河南省陝県)にいたとき、河北の前線から敗走してきた神策軍を掌握して陝州に駐屯していました。そこに広徳元年(764)十月に吐蕃の長安侵入があり、代宗は都を出て陝州に避難してきました。代宗は翌年になって魚朝恩の神策軍に護られて長安に帰還しましたので、以来、神策軍が従来の北衙禁軍(ほくがきんぐん)に代わって皇居を守る役目についたのです。
杜甫が詩中で「誰か復た戎機を総ぶる」と言っているのはこのことで、宦官が禁衛軍を統率するなど、杜甫にとっては言語道断のことでした。「蜀を去る」の詩で「安危には大臣あり 必ずしも涙長に流れしめず」(5月1日参照)と詠っていても、杜甫の憂国の情はとどめようとしても止まらないのです。
杜甫ー188
漫 成 漫 成
江月去人只数尺 江月(こうげつ) 人を去ること只(た)だ数尺
風灯照夜欲三更 風灯(ふうとう) 夜を照らして三更(さんこう)ならんと欲す
沙頭宿鷺聯拳静 沙頭(さとう)の宿鷺(しゅくろ)は聯拳(れんけん)として静かに
船尾跳魚撥剌鳴 船尾(せんび)の跳魚(ちょうぎょ)は撥剌として鳴る
⊂訳⊃
江上にうつる月は 数尺の近くにあり
風に揺れる灯火は 闇を照らして真夜中に近い
砂浜でねむる鷺は 拳(こぶし)を並べたように動かず
船尾で魚が 元気に跳ねる音がした
⊂ものがたり⊃ 杜甫は意気軒昂でしたが、夏から秋へかけての四か月間の旅は、五十四歳の杜甫の健康を害しました。風痺(ふうひ:関節炎)が悪化して、息子の肩を借りたうえ杖を使わなければ歩行もままならない状態になりました。
見かねた雲安の厳県令が河岸に適当な住居を提供してくれましたので、杜甫は雲安に滞在して、しばらく療養することにしました。詩題の「漫成」(まんせい)というのは、何となくできた詩という意味で、夜中に眠れずにひとり舟中に坐してあたりの夜景を詠んだ詩です。
叙景の詩のようにみえますが、深い孤独の感情がうかがわれます。家族のいる住居を離れて、ひとり舟中で思いにふけっているときの詩でしょう。風痺の回復には意外と時間がかかり、加えて冬にさしかかる季節でしたので、雲安滞在は半年に及びました。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます