杜甫ー57
彭衙行 彭衙行
憶昔避賊初 憶(おも)う 昔 賊を避けし初め
北走経険難 北に走って険難(けんなん)を経(へ)たり
夜深彭衙道 夜は深し 彭衙(ほうが)の道
月照白水山 月は照る 白水(はくすい)の山
尽室久徒歩 室(しつ)を尽くして久しく徒歩す
逢人多厚顔 人に逢えば厚顔(こうがん)多し
参差谷鳥鳴 参差(しんし)として谷鳥(こくちょう)鳴き
不見遊子還 遊子(ゆうし)還(かえ)るを見ず
痴女饑咬我 痴女(ちじょ)は飢(う)えて我れを咬(か)み
啼畏虎狼聞 啼(な)いて畏(おそ)る 虎狼(ころう)の聞ゆるを
懐中掩其口 中(うち)に懐(いだ)いて其の口を掩(おお)えば
反側声愈嗔 反側(はんそく)して声愈々(いよいよ)嗔(いか)る
小児強解事 小児(しょうに)は強(し)いて事を解し
故索苦李餐 故(ことさ)らに苦李(くり)を索(もと)めて餐(くら)う
一旬半雷雨 一旬(いちじゅん) 半(なか)ばは雷雨
泥濘相攀牽 泥濘(でいねい) 相(あい)攀牽(はんけん)す
既無禦雨備 既に雨を禦(ふせ)ぐ備え無く
径滑衣又寒 径(みち)滑かにして衣(い)又寒し
有時経契闊 時(とき)有りて契闊(けつかつ)たるを経(ふ)
竟日数里間 竟日(きょうじつ) 数里の間(かん)
野果充餱糧 野果(やか)を餱糧(こうりょう)に充(あ)て
卑枝成屋椽 卑枝(ひし)を屋椽(おくてん)と成(な)す
早行石上水 早(あした)には行く 石上(せきじょう)の水
暮宿天辺煙 暮(くれ)には宿る 天辺(てんぺん)の煙
少留同家窪 少(しば)らく同家窪(どうかわ)に留(とど)まり
欲出蘆子関 蘆子関(ろしかん)に出でんと欲す
故人有孫宰 故人(こじん) 孫宰(そんさい)有り
高義薄曾雲 高義(こうぎ) 曾雲(そううん)に薄(せま)る
延客已曛黒 客を延(ひ)くとき已(すで)に曛黒(くんこく)なり
張燈啓重門 燈(とう)を張って重門(ちょうもん)を啓(ひら)く
煖湯濯我足 湯を煖(あたた)めて我が足を濯(あら)わしめ
剪紙招我魂 紙を剪(き)って我が魂(たましい)を招く
従此出妻孥 此れより妻孥(さいど)を出(い)だし
相視涕闌干 相視(あいみ)て涕(なみだ)闌干(らんかん)たり
衆雛爛漫睡 衆雛(しゅうすう)の爛漫(らんまん)として睡(ねむ)れるを
喚起霑盤飧 喚び起こして盤飧(ばんそん)に霑(うるお)わしむ
誓将与夫子 「誓って将(まさ)に夫子(ふうし)と
永結為弟昆 永く結んで弟昆(ていこん)と為(な)らん」
遂空所坐堂 遂(つい)に坐する所の堂(どう)を空(あ)け
安居奉我歓 居(きょ)を安んじて我が歓(かん)に奉ず
誰肯艱難際 誰か肯(あえ)て艱難(かんなん)の際に
豁達露心肝 豁達(かつたつ)として心肝(しんかん)を露(あら)わさん
別来歳月周 別来(べつらい) 歳月周(めぐ)り
胡羯仍構患 胡羯(こけつ) 仍(な)お患(うれ)いを構(かま)う
何当有翅翎 何(いつ)か当(まさ)に翅翎(しれい)有(あ)って
飛去堕爾前 飛び去(ゆ)きて爾(なんじ)の前に堕(お)つべき
⊂訳⊃
思えば昔 賊軍を避けて北へ逃げ
その途中 険しい山道にさしかかった
彭衙の道は夜なお暗く
月だけが 白水の山を照らしている
一家を連れて 幾日も歩きつづけ
人と出会えば あつかましく世話になった
谷間の鳥は あちらこちらで勝手に鳴き
道には人の影もない
幼い娘は 腹が減ったとすがりつき
虎や狼の遠吠えを 恐いと言って泣き叫ぶ
抱きしめて 口を抑えると
そね反って いっそう大声でわめく
男の子は 我慢しているようだったが
ひもじさに にがい李(すもも)を拾って食べた
十日のうち 半ばは雷雨となり
ぬかるみを 助け合いながら通る
雨具の用意もないので
濡れて震え 滑りながら進む
ときには 難所にぶつかり
一日がかりで数里をたどる
野生の木の実で 飢えをしのぎ
垂れた小枝で 夜露をさける
朝には 岩だらけの流れを渡り
夜には 尾根の霞をまとって眠る
しばらく同家窪にとどまり
蘆子関に抜けようと思う
同家窪には 旧友の孫宰がいて
情誼の篤さは 雲に届かんばかりである
家に着いたときは ほの暗くなるころで
明かりをともし 扉を開いて迎えてくれた
暖かいお湯で 足湯をつかわせ
剪紙(きりがみ)を作って 招魂の祈りをしてくれた
それから妻子を引き合わせ
見つめ合って とめどなく涙を流す
ぐっすりと寝込んでしまった子供らを
ゆり起こして 夕餉のごちそうにあずかる
「いついつまでも先生とは
兄弟のちぎりを結びたいものです」
そう言って彼は 自分の部屋をあけ
気がねなく寝泊まりできるようにしてくれた
このような苦難のときに
誰がこれほどの親切を示せようか
一別以来 やがて一年になるが
夷狄の軍は なお災禍を撒き散らしている
いつかこの身に 空飛ぶ羽根が生えたなら
一気に飛んで あなたの前に降り立ちたい
⊂ものがたり⊃ 杜甫が奉先県の家族のもとに着いたころ、東北の幽州(北京)で重大な事件が発生していました。十一月九日の早朝、節度使の安禄山(あんろくさん)が兵を挙げたのです。李林甫が宰相であったころ、安禄山と楊国忠は互いに天子の寵を競い合う競争相手でした。ところが李林甫が死んで楊国忠が宰相になると、楊国忠は安禄山を危険な人物として排除しようとしました。身の危険を感じた安禄山は「君側の奸を討つ」と称して立ち上がったのです。安禄山にははじめ国を奪うといった野心はなかったものと思われます。
奉先県で幼児の死を悲しんでいた杜甫は、叛乱発生の報せを聞くと、家族を長安に連れて帰るのは中止して、すぐさま都にもどります。なったばかりとはいえ、杜甫は右衛率府兵曹参軍事ですので、急いで任務に就く必要があったのです。その間に安禄山の軍は破竹の勢いで河北の平原を南下し、十二月三日には黄河を渡ります。十三日には洛陽になだれこんで、東都を占領してしました。朝廷は河西・隴右節度使の哥舒翰(かじょかん)を兵馬副元帥に任じて潼関の守りを固めます。
明けて天宝十五載(756)の正月三日、安禄山は洛陽で即位して皇帝を称し、国号を大燕、年号を聖武と定めました。政府軍があまりにももろく退いたので勝利に気を良くし、また兵の士気を高めるためにも建国の志を示す必要があったものと思われます。そのころ政府軍の側では河東の太原に兵を出し反撃に転じ、河北でも勇気のある郡太守らが兵を集めて、安禄山軍の背後を撹乱し、抵抗をはじめていました。
潼関の哥舒翰はこれらの動きを見ながら反撃の機会をうかがっていましたが、長安の楊国忠は一刻もはやく洛陽の賊を退けるように督促します。哥舒翰は通敵の疑いすらかけられたので、六月八日に潼関を出て、桃林(河南省霊宝県の西)で安禄山軍と戦いますが、大敗してしまいます。
杜甫は潼関の戦線が緊張してきたのをみて、六月のはじめに奉先県に行き、家族を白水県の母方の「おじ」崔氏のところに移していました。そこに唐軍潼関に敗れるとの敗報が伝わってきましたので、杜甫は一家を連れてさらに北へ向かって避難します。五言古詩「彭衙行」(ほうがこう)は、このとき白水県から友人孫宰(そんさい)のいる同家窪(どうかわ)までの逃避行を詠うものです。彭衙は白水と同家窪の途中にある町で、白水県に属しています。距離はさほどではありませんが、幼児らを連れて夜の山道を徒歩でゆく逃避行は困難を極めたようです。
夜道で虎や狼の吠える声が聞こえ、幼い娘は恐がって泣き叫びます。食糧の用意もなかったので、苦いすももを拾って食べる子もいます。このあたり六句の描写は目に見えるようで、杜甫の作詩力のすごさを感じます。
時期は陰暦六月の中旬、潼関陥落の直後のことで、夏の雷雨が五日もつづきます。雨の中、雨具の用意もないので濡れてふるえながら、泥水の山道をころびつつ助け合って避難してゆくようすが描かれます。杜甫の一行は妻と幼い二子二女のほか、異母弟の杜観と杜占も伴っていたはずで、杜甫を入れて八人です。荷物を持つ従者も二人くらいは従えていたかもしれません。
杜甫一家の逃避行はつづきます。野生の果実で飢えをしのぎ、野宿をする旅です。このとき杜甫は同家窪の孫宰の家でしばらく体を休め、さらに北の蘆子関に抜けようと考えていたようです。蘆子関は漢代の長城に接する関門の町で、北にはオルドスの砂漠地帯が広がっています。杜甫は最北端の地まで家族を逃がすつもりであったようです。潼関の敗戦の衝撃がいかに強かったかがうかがわれます。
同家窪の孫宰の家に着いたのは暗くなるころでしたが、孫宰は灯火をともし扉を開いて迎え入れてくれました。「紙を剪って我が魂を招く」のは遠来の客を迎え入れるときの招魂の儀式でしょう。孫宰は在地の知識人と思われ、杜甫を尊敬していて鄭重に迎えます。それから連れている家族を引き合わせたりしますが、このあたりの描写はとても細やかで、杜甫の繊細な感情があふれるように詠われているのを感じます。
実はこの詩は家族を連れて北へ逃避中、同家窪の孫宰の家に世話になった一年後の作品で、鳳翔の粛宗の行在所に投じてから書いたものです。戦乱の中でようやく所を得てから、当時の体験がなまなましく思い出され、孫宰の親切に感謝して詩を送ったものでしょう。だから「別来 歳月周り」と言っています。
杜甫は同家窪からさらに北へ65kmほど行った鄜州(ふしゅう)に辿りつき、鄜州(陝西省富県)の三川県羌村(きょうそん)というところに家を見つけて、そこにとどまることにしました。蘆子関までは行かずに途中でとどまったのです。
杜甫ー62
月夜 月夜
今夜鄜州月 今夜 鄜州(ふしゅう)の月
閨中只独看 閨中(けいちゅう) 只だ独り看(み)るらん
遥憐小児女 遥かに憐(あわ)れむ小児女(しょうじじょ)の
未解憶長安 未(いま)だ長安を憶(おも)うを解(かい)せざるを
香霧雲鬟湿 香霧(こうむ)に雲鬟(うんかん)湿(うるお)い
清輝玉臂寒 清輝(せいき)に玉臂(ぎょくひ)寒からん
何時倚虚幌 何(いず)れの時か虚幌(きょこう)に倚(よ)り
双照涙痕乾 双(とも)に照らされて涙痕(るいこん)乾かん
⊂訳⊃
今夜 鄜州に出る月を
妻は寝屋から ひとり見上げているだろう
可哀そうに 子供たちは幼くて
遠い長安の出来事を 案ずることもできないのだ
霧がおまえの 豊かな髷をつややかに潤し
月のひかりが 白い腕(かいな)をひえびえと照らす
何時になったら 帷帳(とばり)にふたり寄り添って
涙の痕を月光で 乾かすときがくるのだろうか
⊂ものがたり⊃ 杜甫が家族を鄜州羌村に避難させている間に、都では大変なことが起こっていました。六月十三日の早朝、玄宗は楊貴妃や一部の皇族、側近をつれて長安を脱出したのです。護衛として龍武将軍陳玄礼(ちんげんれい)が禁衛軍を率いて従いました。
玄宗は翌十四日に長安の西40kmほどの馬嵬駅(陝西省興平県)につきますが、そこで禁衛の兵が不満を爆発させ、宰相の楊国忠と楊氏の一族を殺害しました。兵たちはさらに楊貴妃の処刑を要求して一歩も進もうとしません。玄宗は拒みきれなくなって楊貴妃をそばの仏堂で縊り殺させます。
玄宗は皇太子李亨(りきょう)に都の防衛を命じて、みずからは蜀の成都へ向かいます。しかし、長安は十日ほどで安禄山軍に占領されてしまいますので、李亨は兵をととのえるためにひとまず霊州(寧夏回族自治区霊武県)に向かいました。霊州には朔方節度使の使府が置かれていて、軍事上の拠点であったからです。
皇太子は七月十三日に霊州で伝国璽のないまま即位をして帝位に就きます。同時に年号も至徳と改元しました。こうした都の動きは羌村の杜甫にも伝わってきます。杜甫は七月の末になって霊州の新帝粛宗(しゅくそう)のもとに駆け付けるため、家族を羌村に残して北へ馬を走らせます。鄜州から霊州までは西北に350kmほどありますが、蘆子関(陝西省靖辺県)の近くまで来たところで安禄山軍に捕らえられてしまいました。杜甫を捕らえたのは大同(山西省大同市)の高秀岩(こうしゅうがん)の兵でしょう。安禄山は幽州で兵を興すと同時に大同の軍を朔方郡(夏州以北のオルドス地方)に派遣して、北から関中に攻め込ませていました。
安禄山軍に捕らえられた杜甫は、長安に連行されます。長安では多くの政府高官が賊軍に捕らえられていて、洛陽の政府に協力を強要されていましたが、杜甫は微官であったので安禄山の政府に仕えることは命ぜられず、軟禁処分になって城内にとどまることを命ぜられます。
五言律詩「月夜」は長安に連行されて間もない晩秋の作で、鄜州羌村に残してきた家族を想う詩です。この詩は名作として有名ですが、不思議なのは杜甫が自分の妻を宮女かなにかのように優雅に描いていることです。これは杜甫の時代までは家族や特に妻のことを詩に詠う伝統がなかったからだと思います。唐代の詩の多くは女性といえば宮女や妓女の閨怨を詠うものです。天才詩人の杜甫も、このときまでは自分の妻をどのように詩に詠っていいのか分からなかったのだろうと思います。
彭衙行 彭衙行
憶昔避賊初 憶(おも)う 昔 賊を避けし初め
北走経険難 北に走って険難(けんなん)を経(へ)たり
夜深彭衙道 夜は深し 彭衙(ほうが)の道
月照白水山 月は照る 白水(はくすい)の山
尽室久徒歩 室(しつ)を尽くして久しく徒歩す
逢人多厚顔 人に逢えば厚顔(こうがん)多し
参差谷鳥鳴 参差(しんし)として谷鳥(こくちょう)鳴き
不見遊子還 遊子(ゆうし)還(かえ)るを見ず
痴女饑咬我 痴女(ちじょ)は飢(う)えて我れを咬(か)み
啼畏虎狼聞 啼(な)いて畏(おそ)る 虎狼(ころう)の聞ゆるを
懐中掩其口 中(うち)に懐(いだ)いて其の口を掩(おお)えば
反側声愈嗔 反側(はんそく)して声愈々(いよいよ)嗔(いか)る
小児強解事 小児(しょうに)は強(し)いて事を解し
故索苦李餐 故(ことさ)らに苦李(くり)を索(もと)めて餐(くら)う
一旬半雷雨 一旬(いちじゅん) 半(なか)ばは雷雨
泥濘相攀牽 泥濘(でいねい) 相(あい)攀牽(はんけん)す
既無禦雨備 既に雨を禦(ふせ)ぐ備え無く
径滑衣又寒 径(みち)滑かにして衣(い)又寒し
有時経契闊 時(とき)有りて契闊(けつかつ)たるを経(ふ)
竟日数里間 竟日(きょうじつ) 数里の間(かん)
野果充餱糧 野果(やか)を餱糧(こうりょう)に充(あ)て
卑枝成屋椽 卑枝(ひし)を屋椽(おくてん)と成(な)す
早行石上水 早(あした)には行く 石上(せきじょう)の水
暮宿天辺煙 暮(くれ)には宿る 天辺(てんぺん)の煙
少留同家窪 少(しば)らく同家窪(どうかわ)に留(とど)まり
欲出蘆子関 蘆子関(ろしかん)に出でんと欲す
故人有孫宰 故人(こじん) 孫宰(そんさい)有り
高義薄曾雲 高義(こうぎ) 曾雲(そううん)に薄(せま)る
延客已曛黒 客を延(ひ)くとき已(すで)に曛黒(くんこく)なり
張燈啓重門 燈(とう)を張って重門(ちょうもん)を啓(ひら)く
煖湯濯我足 湯を煖(あたた)めて我が足を濯(あら)わしめ
剪紙招我魂 紙を剪(き)って我が魂(たましい)を招く
従此出妻孥 此れより妻孥(さいど)を出(い)だし
相視涕闌干 相視(あいみ)て涕(なみだ)闌干(らんかん)たり
衆雛爛漫睡 衆雛(しゅうすう)の爛漫(らんまん)として睡(ねむ)れるを
喚起霑盤飧 喚び起こして盤飧(ばんそん)に霑(うるお)わしむ
誓将与夫子 「誓って将(まさ)に夫子(ふうし)と
永結為弟昆 永く結んで弟昆(ていこん)と為(な)らん」
遂空所坐堂 遂(つい)に坐する所の堂(どう)を空(あ)け
安居奉我歓 居(きょ)を安んじて我が歓(かん)に奉ず
誰肯艱難際 誰か肯(あえ)て艱難(かんなん)の際に
豁達露心肝 豁達(かつたつ)として心肝(しんかん)を露(あら)わさん
別来歳月周 別来(べつらい) 歳月周(めぐ)り
胡羯仍構患 胡羯(こけつ) 仍(な)お患(うれ)いを構(かま)う
何当有翅翎 何(いつ)か当(まさ)に翅翎(しれい)有(あ)って
飛去堕爾前 飛び去(ゆ)きて爾(なんじ)の前に堕(お)つべき
⊂訳⊃
思えば昔 賊軍を避けて北へ逃げ
その途中 険しい山道にさしかかった
彭衙の道は夜なお暗く
月だけが 白水の山を照らしている
一家を連れて 幾日も歩きつづけ
人と出会えば あつかましく世話になった
谷間の鳥は あちらこちらで勝手に鳴き
道には人の影もない
幼い娘は 腹が減ったとすがりつき
虎や狼の遠吠えを 恐いと言って泣き叫ぶ
抱きしめて 口を抑えると
そね反って いっそう大声でわめく
男の子は 我慢しているようだったが
ひもじさに にがい李(すもも)を拾って食べた
十日のうち 半ばは雷雨となり
ぬかるみを 助け合いながら通る
雨具の用意もないので
濡れて震え 滑りながら進む
ときには 難所にぶつかり
一日がかりで数里をたどる
野生の木の実で 飢えをしのぎ
垂れた小枝で 夜露をさける
朝には 岩だらけの流れを渡り
夜には 尾根の霞をまとって眠る
しばらく同家窪にとどまり
蘆子関に抜けようと思う
同家窪には 旧友の孫宰がいて
情誼の篤さは 雲に届かんばかりである
家に着いたときは ほの暗くなるころで
明かりをともし 扉を開いて迎えてくれた
暖かいお湯で 足湯をつかわせ
剪紙(きりがみ)を作って 招魂の祈りをしてくれた
それから妻子を引き合わせ
見つめ合って とめどなく涙を流す
ぐっすりと寝込んでしまった子供らを
ゆり起こして 夕餉のごちそうにあずかる
「いついつまでも先生とは
兄弟のちぎりを結びたいものです」
そう言って彼は 自分の部屋をあけ
気がねなく寝泊まりできるようにしてくれた
このような苦難のときに
誰がこれほどの親切を示せようか
一別以来 やがて一年になるが
夷狄の軍は なお災禍を撒き散らしている
いつかこの身に 空飛ぶ羽根が生えたなら
一気に飛んで あなたの前に降り立ちたい
⊂ものがたり⊃ 杜甫が奉先県の家族のもとに着いたころ、東北の幽州(北京)で重大な事件が発生していました。十一月九日の早朝、節度使の安禄山(あんろくさん)が兵を挙げたのです。李林甫が宰相であったころ、安禄山と楊国忠は互いに天子の寵を競い合う競争相手でした。ところが李林甫が死んで楊国忠が宰相になると、楊国忠は安禄山を危険な人物として排除しようとしました。身の危険を感じた安禄山は「君側の奸を討つ」と称して立ち上がったのです。安禄山にははじめ国を奪うといった野心はなかったものと思われます。
奉先県で幼児の死を悲しんでいた杜甫は、叛乱発生の報せを聞くと、家族を長安に連れて帰るのは中止して、すぐさま都にもどります。なったばかりとはいえ、杜甫は右衛率府兵曹参軍事ですので、急いで任務に就く必要があったのです。その間に安禄山の軍は破竹の勢いで河北の平原を南下し、十二月三日には黄河を渡ります。十三日には洛陽になだれこんで、東都を占領してしました。朝廷は河西・隴右節度使の哥舒翰(かじょかん)を兵馬副元帥に任じて潼関の守りを固めます。
明けて天宝十五載(756)の正月三日、安禄山は洛陽で即位して皇帝を称し、国号を大燕、年号を聖武と定めました。政府軍があまりにももろく退いたので勝利に気を良くし、また兵の士気を高めるためにも建国の志を示す必要があったものと思われます。そのころ政府軍の側では河東の太原に兵を出し反撃に転じ、河北でも勇気のある郡太守らが兵を集めて、安禄山軍の背後を撹乱し、抵抗をはじめていました。
潼関の哥舒翰はこれらの動きを見ながら反撃の機会をうかがっていましたが、長安の楊国忠は一刻もはやく洛陽の賊を退けるように督促します。哥舒翰は通敵の疑いすらかけられたので、六月八日に潼関を出て、桃林(河南省霊宝県の西)で安禄山軍と戦いますが、大敗してしまいます。
杜甫は潼関の戦線が緊張してきたのをみて、六月のはじめに奉先県に行き、家族を白水県の母方の「おじ」崔氏のところに移していました。そこに唐軍潼関に敗れるとの敗報が伝わってきましたので、杜甫は一家を連れてさらに北へ向かって避難します。五言古詩「彭衙行」(ほうがこう)は、このとき白水県から友人孫宰(そんさい)のいる同家窪(どうかわ)までの逃避行を詠うものです。彭衙は白水と同家窪の途中にある町で、白水県に属しています。距離はさほどではありませんが、幼児らを連れて夜の山道を徒歩でゆく逃避行は困難を極めたようです。
夜道で虎や狼の吠える声が聞こえ、幼い娘は恐がって泣き叫びます。食糧の用意もなかったので、苦いすももを拾って食べる子もいます。このあたり六句の描写は目に見えるようで、杜甫の作詩力のすごさを感じます。
時期は陰暦六月の中旬、潼関陥落の直後のことで、夏の雷雨が五日もつづきます。雨の中、雨具の用意もないので濡れてふるえながら、泥水の山道をころびつつ助け合って避難してゆくようすが描かれます。杜甫の一行は妻と幼い二子二女のほか、異母弟の杜観と杜占も伴っていたはずで、杜甫を入れて八人です。荷物を持つ従者も二人くらいは従えていたかもしれません。
杜甫一家の逃避行はつづきます。野生の果実で飢えをしのぎ、野宿をする旅です。このとき杜甫は同家窪の孫宰の家でしばらく体を休め、さらに北の蘆子関に抜けようと考えていたようです。蘆子関は漢代の長城に接する関門の町で、北にはオルドスの砂漠地帯が広がっています。杜甫は最北端の地まで家族を逃がすつもりであったようです。潼関の敗戦の衝撃がいかに強かったかがうかがわれます。
同家窪の孫宰の家に着いたのは暗くなるころでしたが、孫宰は灯火をともし扉を開いて迎え入れてくれました。「紙を剪って我が魂を招く」のは遠来の客を迎え入れるときの招魂の儀式でしょう。孫宰は在地の知識人と思われ、杜甫を尊敬していて鄭重に迎えます。それから連れている家族を引き合わせたりしますが、このあたりの描写はとても細やかで、杜甫の繊細な感情があふれるように詠われているのを感じます。
実はこの詩は家族を連れて北へ逃避中、同家窪の孫宰の家に世話になった一年後の作品で、鳳翔の粛宗の行在所に投じてから書いたものです。戦乱の中でようやく所を得てから、当時の体験がなまなましく思い出され、孫宰の親切に感謝して詩を送ったものでしょう。だから「別来 歳月周り」と言っています。
杜甫は同家窪からさらに北へ65kmほど行った鄜州(ふしゅう)に辿りつき、鄜州(陝西省富県)の三川県羌村(きょうそん)というところに家を見つけて、そこにとどまることにしました。蘆子関までは行かずに途中でとどまったのです。
杜甫ー62
月夜 月夜
今夜鄜州月 今夜 鄜州(ふしゅう)の月
閨中只独看 閨中(けいちゅう) 只だ独り看(み)るらん
遥憐小児女 遥かに憐(あわ)れむ小児女(しょうじじょ)の
未解憶長安 未(いま)だ長安を憶(おも)うを解(かい)せざるを
香霧雲鬟湿 香霧(こうむ)に雲鬟(うんかん)湿(うるお)い
清輝玉臂寒 清輝(せいき)に玉臂(ぎょくひ)寒からん
何時倚虚幌 何(いず)れの時か虚幌(きょこう)に倚(よ)り
双照涙痕乾 双(とも)に照らされて涙痕(るいこん)乾かん
⊂訳⊃
今夜 鄜州に出る月を
妻は寝屋から ひとり見上げているだろう
可哀そうに 子供たちは幼くて
遠い長安の出来事を 案ずることもできないのだ
霧がおまえの 豊かな髷をつややかに潤し
月のひかりが 白い腕(かいな)をひえびえと照らす
何時になったら 帷帳(とばり)にふたり寄り添って
涙の痕を月光で 乾かすときがくるのだろうか
⊂ものがたり⊃ 杜甫が家族を鄜州羌村に避難させている間に、都では大変なことが起こっていました。六月十三日の早朝、玄宗は楊貴妃や一部の皇族、側近をつれて長安を脱出したのです。護衛として龍武将軍陳玄礼(ちんげんれい)が禁衛軍を率いて従いました。
玄宗は翌十四日に長安の西40kmほどの馬嵬駅(陝西省興平県)につきますが、そこで禁衛の兵が不満を爆発させ、宰相の楊国忠と楊氏の一族を殺害しました。兵たちはさらに楊貴妃の処刑を要求して一歩も進もうとしません。玄宗は拒みきれなくなって楊貴妃をそばの仏堂で縊り殺させます。
玄宗は皇太子李亨(りきょう)に都の防衛を命じて、みずからは蜀の成都へ向かいます。しかし、長安は十日ほどで安禄山軍に占領されてしまいますので、李亨は兵をととのえるためにひとまず霊州(寧夏回族自治区霊武県)に向かいました。霊州には朔方節度使の使府が置かれていて、軍事上の拠点であったからです。
皇太子は七月十三日に霊州で伝国璽のないまま即位をして帝位に就きます。同時に年号も至徳と改元しました。こうした都の動きは羌村の杜甫にも伝わってきます。杜甫は七月の末になって霊州の新帝粛宗(しゅくそう)のもとに駆け付けるため、家族を羌村に残して北へ馬を走らせます。鄜州から霊州までは西北に350kmほどありますが、蘆子関(陝西省靖辺県)の近くまで来たところで安禄山軍に捕らえられてしまいました。杜甫を捕らえたのは大同(山西省大同市)の高秀岩(こうしゅうがん)の兵でしょう。安禄山は幽州で兵を興すと同時に大同の軍を朔方郡(夏州以北のオルドス地方)に派遣して、北から関中に攻め込ませていました。
安禄山軍に捕らえられた杜甫は、長安に連行されます。長安では多くの政府高官が賊軍に捕らえられていて、洛陽の政府に協力を強要されていましたが、杜甫は微官であったので安禄山の政府に仕えることは命ぜられず、軟禁処分になって城内にとどまることを命ぜられます。
五言律詩「月夜」は長安に連行されて間もない晩秋の作で、鄜州羌村に残してきた家族を想う詩です。この詩は名作として有名ですが、不思議なのは杜甫が自分の妻を宮女かなにかのように優雅に描いていることです。これは杜甫の時代までは家族や特に妻のことを詩に詠う伝統がなかったからだと思います。唐代の詩の多くは女性といえば宮女や妓女の閨怨を詠うものです。天才詩人の杜甫も、このときまでは自分の妻をどのように詩に詠っていいのか分からなかったのだろうと思います。