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tiandaoの自由訳漢詩

ティェンタオの自由訳漢詩 杜甫237ー238

2010年06月25日 | Weblog
 杜甫ー237
   書堂飲既夜復邀        書堂にて飲む 既に夜なり 復た
   李尚書下馬月下        李尚書を邀え 馬より下りしとき
   賦絶句              月下にて賦せし絶句

  湖月林風相与清   湖月(こげつ)   林風(りんぷう)  相(あい)与(とも)に清し
  残尊下馬復同傾   残尊(ざんそん) 馬より下りて復(ま)た同(とも)に傾けん
  久挵野鶴如双鬢   久しく野鶴(やかく)の双鬢(そうびん)の如くなるを挵(まか)す
  遮莫隣鶏下五更   遮莫(さもあらばあ)れ隣鶏(りんけい)の五更(ごこう)を下るを

  ⊂訳⊃
          湖上に照る月林の風  ともに清さを比べ合う

          馬から降りて残り酒   これからいっしょに飲みましょう

          久しく前から両鬢が   鶴白髪となったが  まあいいや

          鶏が夜明けを告げても 勝手に鳴かせておきましょう


 ⊂ものがたり⊃ 杜甫が江陵に着いたのは二月の末、雨の降る日でした。杜甫はとりあえず、行軍司馬の従弟杜位(とい)の家に旅装を解きます。士人として世に尽くす志があったことは確かですが、同時に家族を養うために収入も必要でした。杜甫ははじめ、杜位を頼って荊州節度使衛伯玉(えいはくぎょく)の辟召(へきしょう)を期待していたようです。
 宜昌にいた李之芳は、そのご荊州の夷陵に移ってきていました。江陵少尹の鄭審も中央では秘書監(従三品)をしていた高官ですし、古くからの知友ですので、杜甫は妻子を当陽にいる杜観のもとに預けると、ひとりで江陵にとどまって彼ら旧知の高官たちと交流していたようです。
 詩はそうした交流のひとこまで、胡侍御(侍御も旧職)の書堂で杜甫が李之芳や鄭審らとの宴会に同席したとき、途中ではやく帰ってしまった李之芳を、杜甫が再度、馬で迎えに行ったときの作品です。

 杜甫ー238
   秋日荊南述懐三十韻    秋日 荊南の述懐 三十韻

  昔承推奨分     昔(むかし)  推奨(すいしょう)の分を承(う)く
  愧匪挺生材     愧(は)ずらくは挺生(ていせい)の材に匪(あら)ざるを
  遅暮宮臣恭     遅暮(ちぼ)     宮臣(きゅうしん)を恭(かたじけな)くし
  艱危袞職陪     艱危(かんき)   袞職(こんしょく)に陪(ばい)す
  揚鑣随日馭     揚鑣(ようひょう) 日馭(にちぎょ)に随い
  折檻出雲台     折檻(せっかん)  雲台(うんだい)より出ず
  罪戻寛猶活     罪戻(ざいれい)  寛(かん)にして猶(な)お活(かつ)し
  干戈塞未開     干戈(かんか)   塞(ふさが)りて未だ開(ひら)けず
  星霜玄鳥変     星霜(せいそう)  玄鳥(げんちょう)変じ
  身世白駒催     身世(しんせい)  白駒(はくく)催(もよお)す
  伏枕因超忽     伏枕(ふくちん)  超忽(ちょうこつ)たるに因(よ)り
  扁舟任往来     扁舟(へんしゅう)  往来に任(まか)す
  九鑽巴噀火     九たび鑽(き)る   巴噀(はそん)の火
  三蟄楚祠雷     三たび蟄(ちつ)す 楚祠(そし)の雷(らい)
  望帝伝応実     望帝(ぼうてい)  伝(でん)応(まさ)に実(じつ)なるべく
  昭王問不迴     昭王(しょうおう) 問えども迴(かえ)らず
  蛟螭深作横     蛟螭(こうち)   深くして横(おう)を作(な)し
  豺虎乱雄猜     豺虎(さいこ)    乱れて雄猜(ゆうさい)す
  素業行已矣     素業(そぎょう)  行くゆく已(や)んぬ
  浮名安在哉     浮名(ふめい)   安(いず)くにか在る哉(や)
  琴烏曲怨憤     琴烏(きんう)    曲怨憤(きょくえんぷん)
  庭鶴舞摧頽     庭鶴(ていかく)  舞いて摧頽(さいたい)す
  秋水漫湘竹     秋水(しゅうすい) 湘竹(しょうちく)に漫(まん)なり
  陰風過嶺梅     陰風(いんぷう)  嶺梅(れいばい)を過(す)ぐ
  苦揺求食尾     揺(うご)かすに苦しむ求食(きゅうしょく)の尾(び)
  常曝報恩鰓     常に曝(さら)す報恩(ほうおん)の鰓(えら)
  結舌防讒柄     舌(ぜつ)を結びて讒柄(ざんぺい)を防(ふせ)ぐも
  探腸有禍胎     腸(ちょう)を探(さぐ)れば禍胎(かたい)有り
  蒼茫歩兵哭     蒼茫(そうぼう)  歩兵哭(こく)し
  展転仲宣哀     展転(てんてん)  仲宣(ちゅうせん)哀しむ
  饑藉家家米     饑(うえ)には藉(か)る家家(かか)の米
  愁徴処処盃     愁いには徴(め)さる処処(しょしょ)の盃(はい)に
  休為貧士歎     貧士(ひんし)の歎(たん)を為(な)すことを休(や)め
  任受衆人咍     衆人(しゅうじん)の咍(わら)いを受くるに任(まか)す
  得喪初難識     得喪(とくそう)  初めより識(し)り難く
  栄枯劃易該     栄枯(えいこ)  劃(かく)として該(か)ね易(やす)し
  差池分組冕     差池(しち)組冕(そべん)を分かつは
  合沓起藁莱     合沓(ごうとう)として藁莱(こうらい)より起こる
  不必伊周地     必ずしも伊周(いしゅう)の地には
  皆登屈宋才     皆(みな)屈宋(くつそう)の才(さい)を登らしめず
  漢庭和異域     漢庭(かんてい)  異域(いいき)に和し
  晋史坼中台     晋史(しんし)に中台(ちゅうだい)坼(さ)く
  覇業尋常体     覇業(はぎょう)  尋常(じんじょう)の体(たい)
  宗臣忌諱災     宗臣(そうしん)  忌諱(きき)の災(さい)あり
  群公紛戮力     群公(ぐんこう)   紛(ふん)として力を戮(あわ)し
  聖慮窅徘徊     聖慮(せいりょ)  窅(よう)として徘徊(はいかい)す
  数見銘鐘鼎     数々(しばしば)見る鐘鼎(しょうてい)に銘(めい)せらるるを
  真宜法斗魁     真(まこと)に宜(よろ)しく斗魁(とかい)に法(のりと)るべし
  願聞峰鏑鋳     願わくは聞かむ  峰鏑(ほうてき)を鋳(い)むことを
  莫使棟梁摧     棟梁(とうりょう)をして摧(くだ)かれ使(し)むる莫(な)かれ
  磐石圭多剪     磐石(ばんせき)  圭(けい)多く剪(き)り
  凶門轂少推     凶門(きょうもん)  轂(こく)推(お)すこと少く
  垂旈資穆穆     垂旈(すいりゅう)  穆穆(ぼくぼく)たるに資(と)り
  祝網但恢恢     祝網(しゅくもう)  但(た)だ恢恢(かいかい)たらむ
  赤雀翻然至     赤雀(せきじゃく)  翻然(はんぜん)として至り
  黄龍詎假媒     黄龍(こうりゅう)  詎(なん)ぞ媒(ばい)を假(か)らむ
  賢非夢傅野     賢(けん)は傅野(ふや)を夢みるに非(あら)ず
  隠類鑿顔坏     隠(いん)は顔坏(がんはい)を鑿(うが)つに類(るい)せり
  自古江湖客     古(いにしえ)より江湖(こうこ)の客(かく)
  冥心若死灰     冥心(めいしん)  死灰(しかい)の若(ごと)し

  ⊂訳⊃
          昔  官に推薦される栄誉を受けたが
          残念にも  衆を抜く人材ではなかった
          晩年  宮中の臣に抜擢され
          難局のおり  大臣の陪席となる
          轡をあげて  天子のお供をし
          強く諫言したため  宮中から出された
          寛大な取り計らいで生きているが
          兵乱はつづいて  道はまだ開けていない
          歳月は  燕の往来とともに過ぎ去り
          人生は  白馬の過ぎる瞬間に似る
          流れゆく時節のままに  病に伏し
          小舟に乗って  なりゆきに任せる
          巴蜀では    鑽(き)り火を九度も更新し
          楚では三度も  雷神の祠(ほこら)を祀った
          蜀の望帝の伝説は  真(まこと)であり
          周の昭王は  呼んでももどってこない
          蛟螭の類は  勝手気ままに振る舞い
          豺虎の類は  乱れて互いに疑っている
          われら本来の事業に  先の見込みはなく
          世の名声は  どこに消えてしまったのか
          琴を聞けば  烏は怨みの曲を奏し
          庭で舞う鶴の羽は  破れ衰えている
          秋の水が   湘水に満ちて竹をひたし
          不吉な風が  梅嶺の梅に吹きつける
          虎は食を求めて  苦しげに尾を振り
          報恩の思いはあるが  魚は鰓を日にさらす
          口を閉ざして    讒言の元を封じているが
          腹の奥を探れば  禍の種をやどしている
          前途を思えば   阮籍の泣く意味がわかり
          寝返りを打って  王仲宣の哀しみを知る
          飢えにかられて  家ごとに米を借り
          愁いのままに    処々の宴席に顔を出す
          貧士のくりごとは決して口にせず
          人に笑われても  かまわずにいる
          損得は初めから分かるものではなく
          栄枯盛衰は  はっきりして分かりやすい
          朝廷の官位にあずかる者は
          田野から出て雲のように集まっている
          伊尹や周公の地位に達する者は
          屈原や宋玉ほどの文才とは限らない
          朝廷は  蛮夷と和睦され
          晋史には中台星が坼けたと記してある
          こんな覇業が当然のことになれば
          国家の柱石はうとまれ  災いに遭うだろう
          諸公は  紛然として力を合わせるが
          聖慮は暗くて  行方は定まらない
          功業は  しばしば鐘鼎の文に刻まれるが
          本来は  北斗の魁星に法るべきであろう
          武器はとかして用いないようにし
          大臣ほどの人物を傷つけてはならぬ
          皇族を盤石にして  多くの国に封じ
          凶門をくぐる将軍の車を押すべきではない
          天子は冕旈を垂れて容儀をととのえ
          湯王の祝網のように寛容であるがよい
          そうすれば  赤雀も翻然としてもどり
          黄龍も  ひとりでに現われるであろう
          私は夢に出る傅説のような賢人でなく
          垣根から逃げた顔闔  隠者にすぎない
          昔から  江湖をさすらう旅人は
          冥境に遊ぶ灰のように役立たずなのだ


 ⊂ものがたり⊃ 杜甫は仕官のために積極的に交遊につとめましたが、結果は思わしいものではなかったようです。杜甫を江陵に呼び寄せた杜観はまだ若く無力な存在で、むしろ杜甫が官につくことによって、自分の立場が好転するのを期待していたのかもしれません。 収入のないまま友人知己と交際をつづけている杜甫は、秋になると次第に生活に困窮するようになってきました。
 杜甫にとって五言古詩の長篇は詩作品であると同時に一種の宣言、公開の書簡のようなものです。三十韻(六十句)という長い詩で、杜甫は自分の思いを吐露します。まず、はじめの八句で、自分の過去の官歴について述べます。「干戈 塞りて未だ開けず」というのが現在の状況です。
 回想はつづきます。兵乱のつづくなか歳月ははやく過ぎ去り、小舟を流れにまかせるようにして、ここまできたと言います。「九たび鑽る 巴噀の火」の「鑽」は錐もみによって火を熾す方法であり、「巴噀」とは酒を吹いて火を消す伝承です。これらは巴蜀地方の習俗で、毎年の行事でした。
 杜甫が巴蜀の地にいたのは七年間ですので、厳密にいえば「九鑽」は合っていません。華州に左遷されてから夔州到着までであれば九年間です。「三たび蟄す 楚祠の雷」というのは、秋八月に雷が収まることから、秋を三回迎えた意味になり、大暦元年の夔州での秋から大暦三年の江陵の秋まで三回「楚祠雷」を祀ったことになります。
 「望帝」は古代蜀の望帝杜宇(とう)のことで、死後、杜鵑(ほととぎす)になったという伝承があります。杜鵑は他の鳥の巣に卵を産みつける託卵の習性を持っていますので、杜甫はそれを望帝に対する臣下の忠誠心に似ていると考えたと解されています。
 「昭王 問えども迴らず」は周の昭王が南征して漢水を渡るとき、舟が沈んで死んだという伝承を踏まえており、玄宗が不遇のまま崩じたことを喩えるものでしょう。あとは八句にわたって、安史の乱によって国が乱れ、国力が衰微したことを嘆きます。
 つぎの四聯八句は、漂泊者としての杜甫の苦悩を赤裸々に吐露するものです。「求食の尾」は檻の中の虎が餌を求めて尾を振ることであり、「報恩の鰓」は漢の武帝に助けられた昆明池の魚が、恩に酬いるために明珠一双を池辺に置いた故事を指しています。
 禍は口からと思って口を閉じているけれども、腹の奥をさがせば禍の種を宿しているというのは、杜甫の時局に対する不満の心でしょう。「蒼茫 歩兵哭し」は晋の歩兵校尉阮籍(げんせき)が進退に窮して慟哭したこと、「展転 仲宣哀しむ」も魏の王仲宣が長安の乱に遭って荊州に逃れたことを指し、いずれも動乱に巻き込まれた者の悲哀を詠っています。この四聯の最後の二句は、まさに江陵における杜甫の生活の実態を物語るもので、詩的誇張とみることもできますが、それならばいっそう哀れです。
 知友の好意にすがる生活ではあっても、杜甫は「貧士の歎を為すことを休め 衆人の咍いを受くるに任す」と誇り高い人間であることを持しています。世の中の損得は分かりにくいが、栄枯盛衰ははっきりと目に見えると、世間をよく見ています。
 朝廷には人材が雲のように集まっているけれども、伊尹(いいん)や周公(しゅうこう)のような地位に昇ることのできる者は、必ずしも屈原(くつげん)や宋玉(そうぎょく)のような文才もあり、国を思う心の厚い者とは限らないと現状への不満を述べます。
 つづいて杜甫は、回鶻(ウイグル)や吐蕃(チベット)などの蛮夷と和睦する現在の政策に反対をとなえます。「晋史に中台坼く」というのは『晋書』にある記事で、天の中台星が坼けて、司空の張華(ちょうか)が誅された政変を指しています。杜甫は国家に忠節をつくす者が追放されるような政事を批判しており、李之芳や鄭審が左遷されていることも含めて言っているのでしょう。高位の者が皆で反対しても「聖慮 窅として徘徊す」と、ついには天子を批判するところまで踏み込みます。
 つづく六句は内政に関する杜甫の意見です。杜甫は文官を重んじ、武器を廃棄して、大臣ほどの人物をみだりに処罰してはならないと、温和な政事を望みます。皇族や天子の子弟を各地に封じて、国を支える態勢を盤石にすべきであると、かねてからの政見を述べます。武器を持ち戦争に出てゆく将軍に、政事をまかせたりしてはいけないというのです。
 天子は容儀をととのえて、臣下に対しては寛容であるのがよく、そうすれば世の中は平穏に治まるであろうと、古代の王者の冶を望みます。杜甫はこの詩で、自分の政見をつつみ隠さずに述べますが、最後の四句で言い過ぎをやわらげているようです。
 自分は殷の武丁が夢に見て捜し出し、宰相に登用した傅説(ふえつ)のような賢人ではなく、魯の君公から召し出されると、垣根を越えて逃げ出した顔闔(がんこう)のような隠者に過ぎないと謙遜しています。
 自分は江湖をさすらう旅人に過ぎず、「冥心 死灰の若し」と、黄泉の国にただよう死灰のように役に立たない人間ですと、謙遜とも皮肉とも取れる言葉を述べて詩を結びます。杜甫は文人としての誇りを持ち、自信もあるが、世間がそれを認めてくれない。それが杜甫の悔しさであったと思います。