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tiandaoの自由訳漢詩

ティェンタオの自由訳漢詩 杜甫147ー151

2010年03月27日 | Weblog
 杜甫ー147
    空囊               空囊

  翠柏苦猶食     翠柏(すいはく) 苦(にが)きも猶(な)お食(く)らい
  明霞高可餐     明霞(めいか)  高きも餐(くら)う可(べ)し
  世人共鹵莽     世人(せじん)  共に鹵莽(ろもう)
  吾道属艱難     吾が道  艱難(かんなん)に属す
  不爨井晨凍     爨(かし)がざれば  井(せい)  晨(あした)に凍(こお)り
  無衣牀夜寒     衣(ころも)無ければ 牀(しょう) 夜(よる)寒し
  囊空恐羞澁     囊(のう)空(むな)しくば  恐らくは羞澁(しゅうじゅう)せん
  留得一銭看     一銭を留(とど)め得て看(み)る

  ⊂訳⊃
          青い柏の実は  苦いけれども食べ
          朝霞は  高いところにあるが食べられるらしい
          いまの世の人は みんないい加減に暮らしている
          だから私の道も  艱難に満ちている
          炊事も出来ないので 井戸は朝から凍り
          着る物もないので   寝台にいても夜は寒い
          財布も空っぽでは   人前で恥ずかしいだろう
          だから私は  一枚の小銭を残して見守っている


 ⊂ものがたり⊃ 西枝村に草堂を営む希望も夢物語におわり、杜甫の生活はますます苦しくなるばかりです。財布も空っぽに近い状態になります。「空囊」(くうのう)というには空っぽの財布の意味です。
 杜甫は仕官の当てもなくなり、自分には詩を作る道しか残されていないのかと、諦めの境地もきざしてきます。四句目の「吾が道」をどのように解釈するのか、普通は自分の行く末と解するのでしょうが、杜甫がこの時点で詩人として生きる道を「吾が道」として意識しはじめたという解釈もあります。詩人といっても現代の感覚とは違います。当時は官吏になって国家に尽くすことが知識人の正道であり、詩作は余技に過ぎなかったのです。だから詩人になるということは、脱落者になるという感じを含むことになります。
 冬が近いというのに冬着の準備もできていません。財布の中身も空っぽですが、杜甫はそれでは財布が恥ずかしいだろうからと、小銭一枚だけを残して眺めていると、わざとおどけて詠っています。そこがかえって、哀れに思われるのです。

 杜甫ー148
   乾元中寓居同谷県       乾元中 同谷県に寓居して
   作歌七首  其一        作れる歌 七首  其の一

  有客有客字子美   客有り  客有り  字(あざな)は子美(しび)
  白頭乱髪垂過耳   白頭  乱髪  垂(た)れて耳を過ぐ
  歳拾橡栗随狙公   歳々(としどし)橡栗(しょうりつ)を拾って狙公(しょこう)に随う
  天寒日暮山谷裏   天寒く  日暮るる山谷(さんこく)の裏(うち)
  中原無書帰不得   中原(ちゅうげん)  書無くして帰り得ず
  手脚凍皴皮肉死   手脚(しゅきゃく)  凍皴(とうしゅん)  皮肉(ひにく)死す
  嗚呼一歌兮歌已哀  嗚呼  一歌  歌(うた)已(すで)に哀し
  悲風為我従天来   悲風  我が為に天従(よ)り来たる

  ⊂訳⊃
          ここによそ者がいる   字は子美だ
          白髪頭のみだれ髪は 耳の下まで垂れている
          近ごろ団栗を拾って  狙公の暮らしに習い
          寒々とした日暮れの谷間を歩いている
          都長安からのお召しがないので帰れず
          手足は凍えて皹が切れ  痩せ細っている
          ああ一曲の歌を歌えば  歌はすでに悲しく
          天が私のために  悲しい風を送ってくる


 ⊂ものがたり⊃ 秦州での生活がいよいよいきづまってきたとき、杜甫は同谷(甘粛省成県)は豊かで暮らしやすいところだという噂を耳にします。同谷(どうこく)は秦州の南120kmほどのところにある秦州管下の城市です。杜甫は冬十月に秦州を発って同谷に向かいます。途中の道は険阻で、家族を連れた移動は苦労の連続です。
 しかし、同谷に着いたら、噂はまったくの期待はずれでした。折しも冬のさなか、雪の谷間に分け入って橡(とち)の実を拾ったりして飢えをしのぐありさまです。「狙公」は春秋時代の猿使いで、猿に食べさせる団栗(どんぐり)を節約するために朝夕四つずつであったものを、朝三つ夕四つにしたところ猿が怒り出したので、朝四つ夕三つにしたら猿は喜んで賛成したという話です。杜甫はどんな気持ちでこの詩句を書いたのでしょうか。
 この詩で杜甫が「中原 書無くして帰り得ず」と言っているのは注目に値します。杜甫は朝廷からの召喚命令があれば、もどるつもりであったのです。だが、それも空望みに過ぎませんでした。同谷での生活は困窮を極め、二か月しか滞在できませんでした。十二月一日には同谷を発って蜀に向かいます。

 杜甫ー149
    龍門閣              龍門閣

  清江下龍門     清江(せいこう)  龍門(りゅうもん)を下る
  絶壁無尺土     絶壁(ぜっぺき)  尺土(せきど)無し
  長風駕高浪     長風(ちょうふう) 高浪(こうろう)に駕(が)す
  浩浩自太古     浩浩(こうこう)   太古(たいこ)自(よ)りす
  危途中縈盤     危途(きと)     中ごろ縈盤(えいばん)す
  仰望垂綫縷     仰ぎ望めば    綫縷(せんる)垂(た)る
  滑石欹誰鑿     滑石(かっせき)  欹(かたむ)いて誰か鑿(うが)てる
  浮梁裊相拄     浮梁(ふりょう)  裊(じょう)として相い拄(ささ)う
  目眩隕雑花     目は眩(くら)みて雑花(ざっか)隕(お)ち
  頭風吹過雨     頭(かしら)は風ふきて過雨(かう)を吹く
  百年不敢料     百年  敢(あえ)て料(はか)らず
  一墜那得取     一墜  那(なん)ぞ取ることを得ん
  飽聞経瞿塘     飽くまで聞く  瞿塘(くとう)を経(ふ)るを
  足見度大庾     見るに足る   大庾(たいゆ)を度(わた)るを
  終身歴艱難     終身  艱難(かんなん)を歴(へ)ん
  恐懼従此数     恐懼(きょうく) 此れ従(よ)り数えん

  ⊂訳⊃
          清流が龍門を流れ
          絶壁には一尺の土もない
          遥かに吹く風は 高浪を巻き上げ
          太古の昔から  吹きつづける
          危険な道が   中途で曲がりくねり
          仰げば細い道が 糸のように垂れ下がっている
          傾いた滑らかな石に  穴をあけたのは誰か
          桟道の穴と支柱が   揺れながら支え合う
          目は眩み  花が乱れ散るようで
          頭の中をざわめく風  通り雨が吹くようだ
          この世で  こんな目に遇うとは思いもしなかった
          一度堕ちたら  一巻の終わりだ
          瞿塘峡の険は  しばしば耳にし
          大庾嶺越えの危険は想像できる
          一生のあいだ  苦難が待っているだろう
          だが本当の恐怖は  これからはじまるのだ


 ⊂ものがたり⊃ 関中から蜀へ向かう路は蜀道と呼ばれ、秦嶺山脈を越える険しい山道の連続です。河岸の絶壁に穴をあけ、支柱で支えてある桟道は揺れ動き、目も眩むよな高さです。冬十二月、厳冬のさなか、杜甫の一家は危険な山道を助け合い励まし合いながら越えてゆきました。
 杜甫は険しい山道に「百年 敢て料らず」と嘆いています。「百年」というのは生涯という意味です。事実、杜甫は二度と蜀道を通りませんでしたし、瞿塘峡の険も大庾嶺越えも、このときまでは経験していませんでした。話に聞いていただけです。ただし、瞿塘峡だけは後に通過することになります。
 杜甫は末尾の二句で「終身 艱難を歴ん 恐懼 此れ従り数えん」と言っていますが、杜甫のこれからの苦難の旅を予言するような詩句で、感動なしには読むことができません。

 杜甫ー151
    成都府             成都府

  翳翳桑楡日     翳翳(えいえい)たり  桑楡(そうゆ)の日
  照我征衣裳     我が征(たび)の衣裳を照らす
  我行山川異     我れ行きて山川(さんせん)異(こと)なり
  忽在天一方     忽ち天の一方に在り
  但逢新人民     但(た)だ新人民に逢う
  未卜見故郷     未だ故郷を見るを卜(ぼく)せず
  大江東流去     大江(たいこう) 東に流れ去り
  游子日月長     游子(ゆうし)   日月(じつげつ)長し
  曾城填華屋     曾城(そうじょう) 華屋(かおく)填(うず)め
  季冬樹木蒼     季冬(きとう)   樹木蒼(あお)し
  喧然名都会     喧然(けんぜん)たる名都会(めいとかい)
  吹簫間笙簧     簫(しょう)を吹き笙簧(しょうこう)を間(まじ)う
  信美無与適     信(まこと)に美なれども与(とも)に適する無し
  側身望川梁     身を側(そばだ)てて川梁(せんりょう)を望む
  鳥雀夜各帰     鳥雀(ちょうじゃく) 夜  各々(おのおの)帰り
  中原杳茫茫     中原(ちゅうげん)  杳(よう)として茫茫(ぼうぼう)たり
  初月出不高     初月(しょげつ)    出でて高からず
  衆星尚争光     衆星(しゅうせい)  尚(な)お光を争う
  自古有羇旅     古(いにしえ)より羇旅(きりょ)有り
  我何苦哀傷     我れ何ぞ苦(はなは)だ哀傷(あいしょう)せむ

  ⊂訳⊃
          翳りゆく夕日が
          旅の衣(ころも)を照らしている
          行けば次第に  山川の姿は異なり
          いつのまにか  天の果てに来ていた
          出逢うのは   見なれない新しい人ばかり
          故郷に帰る日も まだ決めてはいない
          大河の水が   東に流れてやまないように
          旅に出て    久しい月日が過ぎている
          幾重もの城壁に  立派な家屋が満ち
          十二月というのに 樹々は蒼く茂っている
          にぎやかな大都会
          簫の吹く音に  笛が交じり合う
          真に美しいが  意にそわないところがあり
          不安な気持で 川の流れ橋のあたりを眺めやる
          夜ともなれば  鳥はねぐらに帰っていくが
          中原は遥かに遠く  どこだか分からない
          月は出たが  まだ低いところにあり
          無数の星が  なおも光を争っている
          古来人生に  旅はつきものだ
          なんで私が  いまさら傷み哀しむ必要があろう


 ⊂ものがたり⊃ 杜甫の一家が蜀の成都に着いたのは、乾元二年(759)年末のたそがれどきでした。この年の七月に四十八歳の杜甫は、華州の司功参軍の職を辞して秦州に向かったのですから、「游子 日月長し」と言っていますが、わずか半年の間に秦州・同谷と滞在して成都にたどり着いたことになります。時間としては半年ですが、変化の激しい半年でした。成都には家がぎっしりと立ち並び、冬というのに樹々は青々と茂っていました。
 成都は予想以上に賑やかな大都会でした。杜甫は「信に美なれども与に適する無し」と、はじめてみる城市にとまどいを感じています。しかし、ここまできた以上、覚悟を定めなければなりません。末尾の二句「古より羇旅有り 我れ何ぞ苦だ哀傷せむ」は杜甫の哀しい決意を物語るものでしょう。一家はひとまず、成都城外の西郊にあった浣花渓寺に旅装を解きました。