白居易ー66
禁中夜作書与元九 禁中にて 夜 書を作りて元九に与う
心緒万端書両紙 心緒(しんしょ)万端(ばんたん) 両紙に書き
欲封重読意遅遅 封ぜんと欲して重ねて読み 意(こころ)遅遅(ちち)たり
五声宮漏初明後 五声の宮漏(きゅうろう) 初めて明けて後(のち)
一点窓燈欲滅時 一点の窓燈(そうとう) 滅(き)えんと欲する時
⊂訳⊃
思いの総てを 二枚の紙に書き
封をしようと読み返すが 満足できない
朝四時を告げる漏刻の音 夜は明けそめ
いままさに 窓辺の一灯が燃えつきる
⊂ものがたり⊃ 新楽府は諷諭詩といっても現実の政事を正面から取り上げて批判するものではなく、過去の悪政を取り上げて今後の政事の諌めとするものでした。しかし、監察御史であった元稹も参加しての新楽府運動は、内容が政事にかかわるものであっただけに、相当に目立つ活動であったのは当然です。
元和四年の秋、洛陽でひとりの学生が自殺しました。この自殺事件の取り調べに関して元愼に越権行為があったとして、元稹は江陵府(湖北省江陵県)の士曹参軍に左遷されます。ただし、この左遷については別の説もあり、元稹が旅行中に駅亭での宿泊をめぐって宦官と争いになり、そのとき元稹が乱暴を働いたことが咎められたとも言われています。
元稹は都の覇城門(東南門)を出て江陵に向かいますが、白居易はなにかの事情で見送りに行けませんでした。のちに詩を贈って見送りに行けなかったことを弁解していますが、白居易は元稹が江陵に向かっている途中においても、要路に上書して元稹の罪の軽減を願い出ています。
友のための白居易の努力は実りませんでしたが、掲げた詩はそのころ作られたものと推定されます。親友の左遷に動揺して、書信に何を書いてよいか分からないでいる。夜明けの宮中、翰林院の勤務の部屋で、友への書信を読み返している白居易の姿がよく出ている作品と思います。
白居易ー70
別元九後詠所懐 元九に別れて後 所懐を詠ず
零落桐葉雨 零落(れいらく)す 桐葉(とうよう)の雨
蕭条槿花風 蕭条(しょうじょう)たり 槿花(きんか)の風
悠悠早秋意 悠悠(ゆうゆう)たる 早秋(そうしゅう)の意(い)
生此幽閑中 此の幽閑(ゆうかん)の中に生ず
況与故人別 況(いわ)んや 故人(こじん)と別れ
中懐正無悰 中懐(ちゅうかい) 正(まさ)に悰(たの)しみ無きをや
勿云不相送 云うこと勿(な)かれ 相送らずと
心到青門東 心は青門(せいもん)の東に到る
相知豈在多 相知(そうち)は豈(あ)に多きに在(あ)らんや
但問同不同 但(た)だ問う 同じきか同じからざるかを
同心一人去 同心(どうしん) 一人(いちにん)去って
坐覚長安空 坐(そぞ)ろに覚ゆ 長安の空(むな)しきを
⊂訳⊃
桐の葉から 雨がこぼれ落ち
槿の花に うら寂しい風が吹く
愁いに満ちた初秋の情が
深い静けさの中から生まれ出る
ましてや 親友の君と別れ
心の底から 本当の楽しみが消えた
見送らなかったなどと 言わないでくれ
心は青門の東まで行ったのだ
友人は 数の多少が問題ではない
聞きたいのは 同じ思いか同じでないかだ
理解し合える唯一の友 君が去って
長安はひとしお空しいものに思われる
⊂ものがたり⊃ 元和五年(810)の五月、白居易は京兆府の戸曹参軍(正七品上)に任ぜられました。一見左遷のようですが、都府の役人で翰林学士の兼務はそのままですので、むしろ翰林院の仕事に専念させるための措置とも考えられます。
加えて品階は五段階の昇進となりますので、収入は倍増することになります。そのころ白居易の母陳氏は思い病にかかっていましたので、収入の増加はありがたかったでしょう。
前年の秋からつづいていた成徳節度使王承宗(おうしょうそう)の討伐は、そのご進展せず、軍事費がかさむだけではなく、政府軍に厭戦気分が生じていました。白居易は王承宗との和約もやむを得ないと考えて上書を提出し、上書は採用されて秋七月には王承宗の地位は認められ、討伐軍は引き上げました。
そうした勤務のかたわら、白居易はこの年、「新楽府五十篇」と対になる諷諭詩の連作「秦中吟十篇」を書いています。「秦中吟十篇」は省略しますが、白居易がこれらの諷諭詩を作ったのは、元和四年から五年にかけて、三十八歳から三十九歳のときでした。政事批判の詩は、これまでに先例はあったもののこれだけ意識的に集中的に作られたのは画期的なことでした。唐代においては比較的言論の自由はあったようですが、批判されたと感じる側の反発もあったはずです。しかしそれは、陰に籠もって蓄積されていたようです。元稹という心許せる同調者がいたときはよかったのですが、元稹が些細なことで左遷されると、白居易は孤立感、孤独感に陥らざるを得ません。
掲げた詩は元和五年(810)七月ころの作品とされており、元稹が長安を去るときに見送りに行けなかったことを弁明し、友情は不変であると誓っています。「青門」は覇城門のことで、青く塗られていたので青門といい、長安の東壁南側にありました。
白居易ー71
八月十五日夜禁中 八月十五日の夜 禁中に独り
独直対月憶元九 直し 月に対して元九を憶う
銀台金闕夕沈沈 銀台(ぎんだい) 金闕(きんけつ) 夕べ沈沈たり
独宿相思在翰林 独宿(どくしゅく) 相思うて 翰林(かんりん)に在り
三五夜中新月色 三五夜中(さんごやちゅう) 新月の色
二千里外故人心 二千里外(にせんりがい) 故人(こじん)の心
渚宮東面煙波冷 渚宮(しょきゅう)の東面には煙波(えんぱ)冷やかならん
浴殿西頭鐘漏深 浴殿(よくでん)の西頭には鐘漏(しょうろう)深し
猶恐清光不同見 猶(な)お恐る 清光(せいこう) 同じくは見えざるを
江陵卑湿足秋陰 江陵は卑湿(ひしつ)にして 秋陰(しゅういん)足る
⊂訳⊃
銀台門 金闕門に 宵闇は謐かに深まり
わたしは独り 君を想って翰林院に宿る
十五夜の月が ぽっかり顔をのぞかせた
二千里の彼方 友の心を思いやる
渚宮の東では 月が冷たく川面にけむり
浴殿の西に 漏刻の時鐘の音がする
だが この清らかな月光は 同じようには見えないだろう
江陵は湿っぽくて 秋空もくもりがちだから
⊂ものがたり⊃ 先の詩を元稹に送ってからひと月ほどたった八月十五日の夜、白居易は宮中の翰林院でひとり月を見上げながら、配所の友を想って宿直をしていました。
この詩は白居易の作品のなかでも有名な一首ですので、ご存知の方も多いでしょう。翰林院はこのころ大明宮の西の夾城内にあったようですが、深夜の宮城は物音ひとつしない静けさで、暗い夜空に十五夜の月が浮かんでいます。
場面は二千里の彼方にある江陵の「渚宮」と交錯しており、渚宮は戦国楚の離宮で、江陵の水辺にありました。場面は一転して大明宮の「浴殿」に移ります。浴殿の西側に漏刻台があって、時鐘の音が夜の静けさを際立たせるように聞こえてきます。
遠く離れた二つの地点を交錯させて詠う技法は杜甫にもありますが、白居易のこの詩は際立ってすぐれています。結びの二句には、友を思いやる白居易の優しい心が満ち溢れているのを感じていただけるでしょう。
白居易ー72
春 雪 春 雪
元和歳在卯 元和(げんな) 歳(さい)卯(う)に在り
六月春二月 六月春二月(にげつ)
月晦寒食天 月晦(げつかい) 寒食(かんしょく)の天
天陰夜飛雪 天(てん)陰(くも)って夜(よる)雪を飛ばす
連宵復竟日 連宵(れんしょう) 復(ま)た竟日(きょうじつ)
浩浩殊未歇 浩浩(こうこう)として殊(こと)に未だ歇(や)まず
大似落鵝毛 大は鵝毛(がもう)を落とすに似て
密如飄玉屑 密(みつ)は玉屑(ぎょくせつ)を飄(ひるがえ)すが如し
寒銷春茫蒼 寒(かん)銷(き)えて 春茫蒼(ぼうそう)たり
気変風凛冽 気変じて 風凛冽(りんれつ)たり
上林草尽没 上林(じょうりん) 草 尽(ことごと)く没し
曲江氷復結 曲江(きょくこう) 氷(ひょう) 復(ま)た結ぶ
紅乾杏花死 紅(こう)乾いて 杏花(きょうか)死(か)れ
緑凍楊枝折 緑(りょく)凍りて 楊枝(ようし)折る
所憐物性傷 憐(あわれ)む所 物性(ぶつせい)の傷(きずつ)くを
非惜年芳絶 年芳(ねんぽう)の絶(た)ゆるを惜しむに非(あら)ず
上天有時令 上天(じょうてん) 時令(じれい)有り
四序平分別 四序(しじょ) 平らかに分別す
寒燠苟反常 寒燠(かんいく) 苟(いやしく)も常に反すれば
物性皆夭閼 物性(ぶつせい) 皆な夭閼(ようあつ)す
我観聖人意 我 聖人の意(い)を観るに
魯史有其説 魯史(ろし) 其の説有り
或記水不冰 或は水の冰(こお)らざるを記し
或書霜不殺 或は霜の殺(から)さざるを書す
上将儆政教 上は将(も)って政教を儆(いまし)め
下以防災孽 下は以って災孽(さいげつ)を防ぐ
玆雪今如何 玆(こ)の雪 今(いま)如何(いかん)
信美非時節 信(まこと)に美(び)なれども時節に非ず
⊂訳⊃
元和の卯歳
六年春二月の末
寒食節のころに
空は曇って 夜 雪が降る
連夜 終日 季節はずれの雪
激しく降って いまだ止まない
大きい雪は 鵝毛が落ちてくるように降り
小粒の雪は 玉の屑を散らすようだ
暖かい冬は たちまちに消え去り
気候は変じて 風は厳しく吹きつのる
上林園の草は ことごとく枯れ
曲江の池は また凍りつく
杏の紅花は 枯れて落ち
緑の葉は凍り 柳の枝は折れ曲がる
万物の傷つくことに 心を傷め
春の花が散るのを惜しみはしない
天には きまった時節があって
四季は 平等に配されている
だから 寒暖が狂ってしまえば
万物は みな本性が損なわれる
孔子の意図をひもとけば
魯史春秋に説くところあり
氷の張らなかったことや
霜が草木を枯らさなかったのを記している
上は政事文教の不都合をいましめ
下は災害の生ずるのを防ぐ
ところで 今年の雪はどうであろうか
景色はまことに美しいが 時節に合わない
⊂ものがたり⊃ 元和六年(811)の春、白居易は四十歳になりました。この年の二月の末に季節はずれの大雪が降りました。はじめの十句は序章で、まず年月を記し、風雪の模様を描きます。白居易が詩に年月や年齢を書き込むのはひとつの特色で、通俗的な感じがしないでもありませんが、読む者にはわかりやすく、後世の者が作品の編年をするのには大いに役立ちます。
こうした天候異変に逢っても、白居易は天の配剤に思いを致します。天候異変のために万物が傷つくことに心を傷め、春の花が散るのを惜しみません。「上天 時令有り 四序 平らかに分別す」るのが天の配剤ですが、寒暖が狂ってしまえば、万物はみな本性が損なわれると嘆きます。
白居易は孔子の『春秋』をひもといて、天変地異が天の諌めであることを述べます。このころ一時中央を離れていた李吉甫(りきちほ)が再び宰相に任ぜられて長安にもどってきました。貴門の李吉甫は寒門出の知識人を嫌っており、進士に及第して高官になっていた知識人は左遷されました。このことは白居易の政事的立場にも厳しさが増したことを意味します。
季節はずれの雪は、そうした政事環境の変化の象徴のように見えたのかもしれません。「玆の雪 今如何 信に美なれども時節に非ず」とやんわり結んでいるところは、まだ諷諭詩の精神が生きていることを示しているようです。
禁中夜作書与元九 禁中にて 夜 書を作りて元九に与う
心緒万端書両紙 心緒(しんしょ)万端(ばんたん) 両紙に書き
欲封重読意遅遅 封ぜんと欲して重ねて読み 意(こころ)遅遅(ちち)たり
五声宮漏初明後 五声の宮漏(きゅうろう) 初めて明けて後(のち)
一点窓燈欲滅時 一点の窓燈(そうとう) 滅(き)えんと欲する時
⊂訳⊃
思いの総てを 二枚の紙に書き
封をしようと読み返すが 満足できない
朝四時を告げる漏刻の音 夜は明けそめ
いままさに 窓辺の一灯が燃えつきる
⊂ものがたり⊃ 新楽府は諷諭詩といっても現実の政事を正面から取り上げて批判するものではなく、過去の悪政を取り上げて今後の政事の諌めとするものでした。しかし、監察御史であった元稹も参加しての新楽府運動は、内容が政事にかかわるものであっただけに、相当に目立つ活動であったのは当然です。
元和四年の秋、洛陽でひとりの学生が自殺しました。この自殺事件の取り調べに関して元愼に越権行為があったとして、元稹は江陵府(湖北省江陵県)の士曹参軍に左遷されます。ただし、この左遷については別の説もあり、元稹が旅行中に駅亭での宿泊をめぐって宦官と争いになり、そのとき元稹が乱暴を働いたことが咎められたとも言われています。
元稹は都の覇城門(東南門)を出て江陵に向かいますが、白居易はなにかの事情で見送りに行けませんでした。のちに詩を贈って見送りに行けなかったことを弁解していますが、白居易は元稹が江陵に向かっている途中においても、要路に上書して元稹の罪の軽減を願い出ています。
友のための白居易の努力は実りませんでしたが、掲げた詩はそのころ作られたものと推定されます。親友の左遷に動揺して、書信に何を書いてよいか分からないでいる。夜明けの宮中、翰林院の勤務の部屋で、友への書信を読み返している白居易の姿がよく出ている作品と思います。
白居易ー70
別元九後詠所懐 元九に別れて後 所懐を詠ず
零落桐葉雨 零落(れいらく)す 桐葉(とうよう)の雨
蕭条槿花風 蕭条(しょうじょう)たり 槿花(きんか)の風
悠悠早秋意 悠悠(ゆうゆう)たる 早秋(そうしゅう)の意(い)
生此幽閑中 此の幽閑(ゆうかん)の中に生ず
況与故人別 況(いわ)んや 故人(こじん)と別れ
中懐正無悰 中懐(ちゅうかい) 正(まさ)に悰(たの)しみ無きをや
勿云不相送 云うこと勿(な)かれ 相送らずと
心到青門東 心は青門(せいもん)の東に到る
相知豈在多 相知(そうち)は豈(あ)に多きに在(あ)らんや
但問同不同 但(た)だ問う 同じきか同じからざるかを
同心一人去 同心(どうしん) 一人(いちにん)去って
坐覚長安空 坐(そぞ)ろに覚ゆ 長安の空(むな)しきを
⊂訳⊃
桐の葉から 雨がこぼれ落ち
槿の花に うら寂しい風が吹く
愁いに満ちた初秋の情が
深い静けさの中から生まれ出る
ましてや 親友の君と別れ
心の底から 本当の楽しみが消えた
見送らなかったなどと 言わないでくれ
心は青門の東まで行ったのだ
友人は 数の多少が問題ではない
聞きたいのは 同じ思いか同じでないかだ
理解し合える唯一の友 君が去って
長安はひとしお空しいものに思われる
⊂ものがたり⊃ 元和五年(810)の五月、白居易は京兆府の戸曹参軍(正七品上)に任ぜられました。一見左遷のようですが、都府の役人で翰林学士の兼務はそのままですので、むしろ翰林院の仕事に専念させるための措置とも考えられます。
加えて品階は五段階の昇進となりますので、収入は倍増することになります。そのころ白居易の母陳氏は思い病にかかっていましたので、収入の増加はありがたかったでしょう。
前年の秋からつづいていた成徳節度使王承宗(おうしょうそう)の討伐は、そのご進展せず、軍事費がかさむだけではなく、政府軍に厭戦気分が生じていました。白居易は王承宗との和約もやむを得ないと考えて上書を提出し、上書は採用されて秋七月には王承宗の地位は認められ、討伐軍は引き上げました。
そうした勤務のかたわら、白居易はこの年、「新楽府五十篇」と対になる諷諭詩の連作「秦中吟十篇」を書いています。「秦中吟十篇」は省略しますが、白居易がこれらの諷諭詩を作ったのは、元和四年から五年にかけて、三十八歳から三十九歳のときでした。政事批判の詩は、これまでに先例はあったもののこれだけ意識的に集中的に作られたのは画期的なことでした。唐代においては比較的言論の自由はあったようですが、批判されたと感じる側の反発もあったはずです。しかしそれは、陰に籠もって蓄積されていたようです。元稹という心許せる同調者がいたときはよかったのですが、元稹が些細なことで左遷されると、白居易は孤立感、孤独感に陥らざるを得ません。
掲げた詩は元和五年(810)七月ころの作品とされており、元稹が長安を去るときに見送りに行けなかったことを弁明し、友情は不変であると誓っています。「青門」は覇城門のことで、青く塗られていたので青門といい、長安の東壁南側にありました。
白居易ー71
八月十五日夜禁中 八月十五日の夜 禁中に独り
独直対月憶元九 直し 月に対して元九を憶う
銀台金闕夕沈沈 銀台(ぎんだい) 金闕(きんけつ) 夕べ沈沈たり
独宿相思在翰林 独宿(どくしゅく) 相思うて 翰林(かんりん)に在り
三五夜中新月色 三五夜中(さんごやちゅう) 新月の色
二千里外故人心 二千里外(にせんりがい) 故人(こじん)の心
渚宮東面煙波冷 渚宮(しょきゅう)の東面には煙波(えんぱ)冷やかならん
浴殿西頭鐘漏深 浴殿(よくでん)の西頭には鐘漏(しょうろう)深し
猶恐清光不同見 猶(な)お恐る 清光(せいこう) 同じくは見えざるを
江陵卑湿足秋陰 江陵は卑湿(ひしつ)にして 秋陰(しゅういん)足る
⊂訳⊃
銀台門 金闕門に 宵闇は謐かに深まり
わたしは独り 君を想って翰林院に宿る
十五夜の月が ぽっかり顔をのぞかせた
二千里の彼方 友の心を思いやる
渚宮の東では 月が冷たく川面にけむり
浴殿の西に 漏刻の時鐘の音がする
だが この清らかな月光は 同じようには見えないだろう
江陵は湿っぽくて 秋空もくもりがちだから
⊂ものがたり⊃ 先の詩を元稹に送ってからひと月ほどたった八月十五日の夜、白居易は宮中の翰林院でひとり月を見上げながら、配所の友を想って宿直をしていました。
この詩は白居易の作品のなかでも有名な一首ですので、ご存知の方も多いでしょう。翰林院はこのころ大明宮の西の夾城内にあったようですが、深夜の宮城は物音ひとつしない静けさで、暗い夜空に十五夜の月が浮かんでいます。
場面は二千里の彼方にある江陵の「渚宮」と交錯しており、渚宮は戦国楚の離宮で、江陵の水辺にありました。場面は一転して大明宮の「浴殿」に移ります。浴殿の西側に漏刻台があって、時鐘の音が夜の静けさを際立たせるように聞こえてきます。
遠く離れた二つの地点を交錯させて詠う技法は杜甫にもありますが、白居易のこの詩は際立ってすぐれています。結びの二句には、友を思いやる白居易の優しい心が満ち溢れているのを感じていただけるでしょう。
白居易ー72
春 雪 春 雪
元和歳在卯 元和(げんな) 歳(さい)卯(う)に在り
六月春二月 六月春二月(にげつ)
月晦寒食天 月晦(げつかい) 寒食(かんしょく)の天
天陰夜飛雪 天(てん)陰(くも)って夜(よる)雪を飛ばす
連宵復竟日 連宵(れんしょう) 復(ま)た竟日(きょうじつ)
浩浩殊未歇 浩浩(こうこう)として殊(こと)に未だ歇(や)まず
大似落鵝毛 大は鵝毛(がもう)を落とすに似て
密如飄玉屑 密(みつ)は玉屑(ぎょくせつ)を飄(ひるがえ)すが如し
寒銷春茫蒼 寒(かん)銷(き)えて 春茫蒼(ぼうそう)たり
気変風凛冽 気変じて 風凛冽(りんれつ)たり
上林草尽没 上林(じょうりん) 草 尽(ことごと)く没し
曲江氷復結 曲江(きょくこう) 氷(ひょう) 復(ま)た結ぶ
紅乾杏花死 紅(こう)乾いて 杏花(きょうか)死(か)れ
緑凍楊枝折 緑(りょく)凍りて 楊枝(ようし)折る
所憐物性傷 憐(あわれ)む所 物性(ぶつせい)の傷(きずつ)くを
非惜年芳絶 年芳(ねんぽう)の絶(た)ゆるを惜しむに非(あら)ず
上天有時令 上天(じょうてん) 時令(じれい)有り
四序平分別 四序(しじょ) 平らかに分別す
寒燠苟反常 寒燠(かんいく) 苟(いやしく)も常に反すれば
物性皆夭閼 物性(ぶつせい) 皆な夭閼(ようあつ)す
我観聖人意 我 聖人の意(い)を観るに
魯史有其説 魯史(ろし) 其の説有り
或記水不冰 或は水の冰(こお)らざるを記し
或書霜不殺 或は霜の殺(から)さざるを書す
上将儆政教 上は将(も)って政教を儆(いまし)め
下以防災孽 下は以って災孽(さいげつ)を防ぐ
玆雪今如何 玆(こ)の雪 今(いま)如何(いかん)
信美非時節 信(まこと)に美(び)なれども時節に非ず
⊂訳⊃
元和の卯歳
六年春二月の末
寒食節のころに
空は曇って 夜 雪が降る
連夜 終日 季節はずれの雪
激しく降って いまだ止まない
大きい雪は 鵝毛が落ちてくるように降り
小粒の雪は 玉の屑を散らすようだ
暖かい冬は たちまちに消え去り
気候は変じて 風は厳しく吹きつのる
上林園の草は ことごとく枯れ
曲江の池は また凍りつく
杏の紅花は 枯れて落ち
緑の葉は凍り 柳の枝は折れ曲がる
万物の傷つくことに 心を傷め
春の花が散るのを惜しみはしない
天には きまった時節があって
四季は 平等に配されている
だから 寒暖が狂ってしまえば
万物は みな本性が損なわれる
孔子の意図をひもとけば
魯史春秋に説くところあり
氷の張らなかったことや
霜が草木を枯らさなかったのを記している
上は政事文教の不都合をいましめ
下は災害の生ずるのを防ぐ
ところで 今年の雪はどうであろうか
景色はまことに美しいが 時節に合わない
⊂ものがたり⊃ 元和六年(811)の春、白居易は四十歳になりました。この年の二月の末に季節はずれの大雪が降りました。はじめの十句は序章で、まず年月を記し、風雪の模様を描きます。白居易が詩に年月や年齢を書き込むのはひとつの特色で、通俗的な感じがしないでもありませんが、読む者にはわかりやすく、後世の者が作品の編年をするのには大いに役立ちます。
こうした天候異変に逢っても、白居易は天の配剤に思いを致します。天候異変のために万物が傷つくことに心を傷め、春の花が散るのを惜しみません。「上天 時令有り 四序 平らかに分別す」るのが天の配剤ですが、寒暖が狂ってしまえば、万物はみな本性が損なわれると嘆きます。
白居易は孔子の『春秋』をひもといて、天変地異が天の諌めであることを述べます。このころ一時中央を離れていた李吉甫(りきちほ)が再び宰相に任ぜられて長安にもどってきました。貴門の李吉甫は寒門出の知識人を嫌っており、進士に及第して高官になっていた知識人は左遷されました。このことは白居易の政事的立場にも厳しさが増したことを意味します。
季節はずれの雪は、そうした政事環境の変化の象徴のように見えたのかもしれません。「玆の雪 今如何 信に美なれども時節に非ず」とやんわり結んでいるところは、まだ諷諭詩の精神が生きていることを示しているようです。
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