王維ー78
山居秋暝 山居秋暝
空山新雨後 空山(くうざん) 新雨(しんう)の後
天気晩来秋 天気 晩来(ばんらい)秋なり
明月松間照 明月 松間(しょうかん)に照り
清泉石上流 清泉 石上(せきじょう)に流る
竹喧帰浣女 竹 喧(かまびす)しくして浣女(かんじょ)帰り
蓮動下漁舟 蓮 動いて漁舟(ぎょしゅう)下る
随意春芳歇 随意なり 春芳(しゅんほう)の歇(つ)くること
王孫自可留 王孫(おうそん) 自ら留(とど)まるべし
⊂訳⊃
寂しい山に秋雨が降り 心も洗われて
秋らしく爽やかな夜となった
明月の月の光が 松の木の間から差し入り
清らかな泉が 石の上を流れる
竹林の向こうで 女たちの賑やかな声がし
蓮の葉がゆれて 釣り舟が川を下っていく
春草が枯れ果てようと 私はかまわない
王孫もきっと この地にとどまるであろうから
⊂ものがたり⊃ 詩は輞川山荘の秋の景です。五言律詩ですが、前半四句は易しい語を使って含蓄の深い景色を詠い出しており、これだけで五言絶句として独立できそうです。後半四句で人が登場し、村の生活が詠われます。「浣女」(洗濯をする女)たちの声は竹林の向こうから聞こえ、釣り舟の通る動きは蓮の葉の動きで示され、間接的な表現になっています。描き方に王維の工夫が凝らされている部分です。
末尾の「王孫」は楚辞の「招隠士」の詩句を踏まえていますので、このままではわかりにくいのですが、「招隠士」では春草が枯れてしまったので帰ろうと春をほめる詩になっています。ここではそれを逆に使って、秋になっても王孫はきっとこの地にとどまっていてくれるだろうから私はかまわないと、秋の山居のすばらしさを詠う詩に作り変えているのです。
王維ー79
輞川居贈裴秀才迪 輞川居 裴秀才迪に贈る
寒山転蒼翠 寒山(かんざん) 転々(うたた) 蒼翠(そうすい)
秋日水潺湲 秋日(しゅうじつ) 水 潺湲(せんかん)たり
倚杖柴門外 杖に倚(よ)る 柴門(さいもん)の外
臨風聴暮蝉 風に臨んで暮蝉(ぼせん)を聴く
渡頭余落日 渡頭(ととう)に落日(らくじつ)余(のこ)り
墟里上孤煙 墟里(きょり)に孤煙(こえん)上る
復値接與酔 復(ま)た接與(せつよ)の酔えるに値(あ)い
狂歌五柳前 狂歌す 五柳(ごりゅう)の前
⊂訳⊃
寒々とした山は かえって緑の色を増し
秋の日に 水はさらさらと流れている
柴門の外で 杖に寄りかかり
風に吹かれて 日暮れの蝉の声を聞く
渡し場の辺に 夕陽は消えのこり
村里に ひとすじの煙が立ち昇る
またも出会った 酔っぱらいの接與どの
五柳先生の家の前で 狂った歌を詠っている
⊂ものがたり⊃ 輞川荘は、はじめは宋之問の古い別荘を購い取っただけのものでしたが、輞川の別荘にしばしば通うようになってから、すこしずつ広げていったようです。そうした時期に王維と特に親しく交流するようになったのが裴迪(はいてき)です。王維は詩題で裴迪を秀才(しゅうさい)と呼んでいますので、貢挙(こうきょ・後の科挙)の予備試験である郷試(ごうし)に及第しただけの若い詩人であったようです。
王維は裴迪を酔っぱらいの「接與」(論語に出てくる楚の隠者)と呼び、自分を「五柳先生」(陶淵明の自称)と呼んで、からかっています。
王維ー80
酌酒与裴迪 酒を酌みて裴迪に与う
酌酒与君君自寛 酒を酌(く)みて君に与う 君自ら寛(ゆる)うせよ
人情翻覆似波瀾 人情の翻覆(はんぷく) 波瀾(はらん)に似たり
白首相知猶按剣 白首(はくしゅ)の相知(そうち)も猶お剣を按じ
朱門先達笑弾冠 朱門の先達(せんだつ)も弾冠(だんかん)を笑う
草色全経細雨湿 草色(そうしょく)は全く細雨を経て湿(うる)おい
花枝欲動春風寒 花枝(かし)は動かんと欲して春風寒し
世事浮雲何足問 世事(せじ)浮雲(ふうん) 何ぞ問うに足らん
不如高臥且加餐 如(し)かず 高臥して且く餐(さん)を加えんには
⊂訳⊃
さあ一杯飲みたまえ そしてのんびりすることだ
人情がくるくる変わるのは 波の騒ぎのようなもの
共白髪の友だちでさえ 剣(つるぎ)の柄(つか)に掌をかけ
出世をすれば先輩も 頼る者を笑っている
雨の恵みで若草は しっとりと潤うが
枝の花は咲こうとしても 冷たい春の風が吹く
この世のことは浮き雲だ 問題にするに当たらない
のうのうと寝そべって おいしいものでも食べたがよい
⊂ものがたり⊃ この詩は裴迪(はいてき)が進士の試験に落第するかしてしょげているところを、王維が自分の家に呼んで、酒を酌みながら慰めている作品でしょう。ここに述べられている人生観は、親子ほども年の違う裴迪を励ます意味もあると思いますが、このころの王維自身の感懐でもあったと思います。
王維ー81
勅賜百官桜桃 勅して百官に桜桃を賜う
芙蓉闕下会千官 芙蓉(ふよう)の闕下(けつか) 千官(せんかん)会す
紫禁朱桜出上闌 紫禁の朱桜(しゅおう) 上闌(じょうらん)より出づ
総是寢園春薦後 総じて是れ寢園(しんえん)春薦(しゅんせん)の後
非関御苑鳥嗛残 御苑の鳥の嗛(ふく)み残せしに関(かかわ)るに非ず
帰鞍競帯青糸籠 帰鞍(きあん)競って帯ぶ 青糸(せいし)の籠
中使頻傾赤玉盤 中使(ちゅうし)頻りに傾く 赤玉(せきぎょく)の盤
飽食不須愁内熱 飽食するも内熱(ないねつ)を愁うるを須(もち)いず
大官還有蔗漿寒 大官還(ま)た有り 蔗漿(しょしょう)の寒(かん)
⊂訳⊃
芙蓉の楼門に 百官が集い
恩賜の桜桃が 上蘭観からもたらされる
これらは総て 寢廟の春の祀りに供えたもの
御苑の鳥が つついたような傷物ではない
帰宅の鞍に 争って籠を結びつけ
宮中の使者が 赤玉の大皿から流し込む
たっぷり食べても 熱の出る心配はなく
大膳職には 冷えた飲み物がたっぷりとある
⊂ものがたり⊃ 天宝九載(750)に王維は母を亡くしました。王維は五十二歳でしたので、母崔氏は享年七十歳くらいだったでしょう。王維は悲しみのために食事も咽喉を通らなかったといいます。親が死ねば三年間の喪に服することになり、勤務につくことができません。
喪が明けた天宝十一載(752)に王維は文部郎中(従五品上)に任ぜられました。その年の三月に尚書省の吏部が文部と改称されていますので、旧称では吏部郎中になったわけで、官吏の任免に関する重要な職についたことになります。天宝十一載の十一月に宰相李林甫が亡くなり、楊貴妃の又従兄妹にあたる楊国忠が宰相になっており、楊国忠は文部尚書を兼ねていますので、王維を文部郎中に起用したのは楊国忠かもしれません。
桜桃が実るころですので、翌天宝十二載(753)の春のことと思われますが、掲げた詩には「時に文部郎中たり」との題注があり、王維が文部郎中としてさくらんぼの下賜に与ったことがわかります。しかし、尾聯の二句をみると、王維はあまりありがたがっていないようです。
山居秋暝 山居秋暝
空山新雨後 空山(くうざん) 新雨(しんう)の後
天気晩来秋 天気 晩来(ばんらい)秋なり
明月松間照 明月 松間(しょうかん)に照り
清泉石上流 清泉 石上(せきじょう)に流る
竹喧帰浣女 竹 喧(かまびす)しくして浣女(かんじょ)帰り
蓮動下漁舟 蓮 動いて漁舟(ぎょしゅう)下る
随意春芳歇 随意なり 春芳(しゅんほう)の歇(つ)くること
王孫自可留 王孫(おうそん) 自ら留(とど)まるべし
⊂訳⊃
寂しい山に秋雨が降り 心も洗われて
秋らしく爽やかな夜となった
明月の月の光が 松の木の間から差し入り
清らかな泉が 石の上を流れる
竹林の向こうで 女たちの賑やかな声がし
蓮の葉がゆれて 釣り舟が川を下っていく
春草が枯れ果てようと 私はかまわない
王孫もきっと この地にとどまるであろうから
⊂ものがたり⊃ 詩は輞川山荘の秋の景です。五言律詩ですが、前半四句は易しい語を使って含蓄の深い景色を詠い出しており、これだけで五言絶句として独立できそうです。後半四句で人が登場し、村の生活が詠われます。「浣女」(洗濯をする女)たちの声は竹林の向こうから聞こえ、釣り舟の通る動きは蓮の葉の動きで示され、間接的な表現になっています。描き方に王維の工夫が凝らされている部分です。
末尾の「王孫」は楚辞の「招隠士」の詩句を踏まえていますので、このままではわかりにくいのですが、「招隠士」では春草が枯れてしまったので帰ろうと春をほめる詩になっています。ここではそれを逆に使って、秋になっても王孫はきっとこの地にとどまっていてくれるだろうから私はかまわないと、秋の山居のすばらしさを詠う詩に作り変えているのです。
王維ー79
輞川居贈裴秀才迪 輞川居 裴秀才迪に贈る
寒山転蒼翠 寒山(かんざん) 転々(うたた) 蒼翠(そうすい)
秋日水潺湲 秋日(しゅうじつ) 水 潺湲(せんかん)たり
倚杖柴門外 杖に倚(よ)る 柴門(さいもん)の外
臨風聴暮蝉 風に臨んで暮蝉(ぼせん)を聴く
渡頭余落日 渡頭(ととう)に落日(らくじつ)余(のこ)り
墟里上孤煙 墟里(きょり)に孤煙(こえん)上る
復値接與酔 復(ま)た接與(せつよ)の酔えるに値(あ)い
狂歌五柳前 狂歌す 五柳(ごりゅう)の前
⊂訳⊃
寒々とした山は かえって緑の色を増し
秋の日に 水はさらさらと流れている
柴門の外で 杖に寄りかかり
風に吹かれて 日暮れの蝉の声を聞く
渡し場の辺に 夕陽は消えのこり
村里に ひとすじの煙が立ち昇る
またも出会った 酔っぱらいの接與どの
五柳先生の家の前で 狂った歌を詠っている
⊂ものがたり⊃ 輞川荘は、はじめは宋之問の古い別荘を購い取っただけのものでしたが、輞川の別荘にしばしば通うようになってから、すこしずつ広げていったようです。そうした時期に王維と特に親しく交流するようになったのが裴迪(はいてき)です。王維は詩題で裴迪を秀才(しゅうさい)と呼んでいますので、貢挙(こうきょ・後の科挙)の予備試験である郷試(ごうし)に及第しただけの若い詩人であったようです。
王維は裴迪を酔っぱらいの「接與」(論語に出てくる楚の隠者)と呼び、自分を「五柳先生」(陶淵明の自称)と呼んで、からかっています。
王維ー80
酌酒与裴迪 酒を酌みて裴迪に与う
酌酒与君君自寛 酒を酌(く)みて君に与う 君自ら寛(ゆる)うせよ
人情翻覆似波瀾 人情の翻覆(はんぷく) 波瀾(はらん)に似たり
白首相知猶按剣 白首(はくしゅ)の相知(そうち)も猶お剣を按じ
朱門先達笑弾冠 朱門の先達(せんだつ)も弾冠(だんかん)を笑う
草色全経細雨湿 草色(そうしょく)は全く細雨を経て湿(うる)おい
花枝欲動春風寒 花枝(かし)は動かんと欲して春風寒し
世事浮雲何足問 世事(せじ)浮雲(ふうん) 何ぞ問うに足らん
不如高臥且加餐 如(し)かず 高臥して且く餐(さん)を加えんには
⊂訳⊃
さあ一杯飲みたまえ そしてのんびりすることだ
人情がくるくる変わるのは 波の騒ぎのようなもの
共白髪の友だちでさえ 剣(つるぎ)の柄(つか)に掌をかけ
出世をすれば先輩も 頼る者を笑っている
雨の恵みで若草は しっとりと潤うが
枝の花は咲こうとしても 冷たい春の風が吹く
この世のことは浮き雲だ 問題にするに当たらない
のうのうと寝そべって おいしいものでも食べたがよい
⊂ものがたり⊃ この詩は裴迪(はいてき)が進士の試験に落第するかしてしょげているところを、王維が自分の家に呼んで、酒を酌みながら慰めている作品でしょう。ここに述べられている人生観は、親子ほども年の違う裴迪を励ます意味もあると思いますが、このころの王維自身の感懐でもあったと思います。
王維ー81
勅賜百官桜桃 勅して百官に桜桃を賜う
芙蓉闕下会千官 芙蓉(ふよう)の闕下(けつか) 千官(せんかん)会す
紫禁朱桜出上闌 紫禁の朱桜(しゅおう) 上闌(じょうらん)より出づ
総是寢園春薦後 総じて是れ寢園(しんえん)春薦(しゅんせん)の後
非関御苑鳥嗛残 御苑の鳥の嗛(ふく)み残せしに関(かかわ)るに非ず
帰鞍競帯青糸籠 帰鞍(きあん)競って帯ぶ 青糸(せいし)の籠
中使頻傾赤玉盤 中使(ちゅうし)頻りに傾く 赤玉(せきぎょく)の盤
飽食不須愁内熱 飽食するも内熱(ないねつ)を愁うるを須(もち)いず
大官還有蔗漿寒 大官還(ま)た有り 蔗漿(しょしょう)の寒(かん)
⊂訳⊃
芙蓉の楼門に 百官が集い
恩賜の桜桃が 上蘭観からもたらされる
これらは総て 寢廟の春の祀りに供えたもの
御苑の鳥が つついたような傷物ではない
帰宅の鞍に 争って籠を結びつけ
宮中の使者が 赤玉の大皿から流し込む
たっぷり食べても 熱の出る心配はなく
大膳職には 冷えた飲み物がたっぷりとある
⊂ものがたり⊃ 天宝九載(750)に王維は母を亡くしました。王維は五十二歳でしたので、母崔氏は享年七十歳くらいだったでしょう。王維は悲しみのために食事も咽喉を通らなかったといいます。親が死ねば三年間の喪に服することになり、勤務につくことができません。
喪が明けた天宝十一載(752)に王維は文部郎中(従五品上)に任ぜられました。その年の三月に尚書省の吏部が文部と改称されていますので、旧称では吏部郎中になったわけで、官吏の任免に関する重要な職についたことになります。天宝十一載の十一月に宰相李林甫が亡くなり、楊貴妃の又従兄妹にあたる楊国忠が宰相になっており、楊国忠は文部尚書を兼ねていますので、王維を文部郎中に起用したのは楊国忠かもしれません。
桜桃が実るころですので、翌天宝十二載(753)の春のことと思われますが、掲げた詩には「時に文部郎中たり」との題注があり、王維が文部郎中としてさくらんぼの下賜に与ったことがわかります。しかし、尾聯の二句をみると、王維はあまりありがたがっていないようです。