李白211
覧鏡書懐 覧鏡書懐
得道無古今 道(みち)を得(う)れば古今(ここん)無く
失道還衰老 道を失えば還(ま)た衰老(すいろう)
自笑鏡中人 自ら笑う 鏡中(きょうちゅう)の人
白髪如霜草 白髪 霜草(そうそう)の如し
捫心空歎息 心を捫(な)でて空(むな)しく歎息し
問影何枯槁 影に問う 何ぞ枯槁(ここう)せると
桃梨竟何言 桃梨(とうり) 竟(つい)に何をか言う
終成南山皓 終(つい)に南山(なんざん)の皓(こう)と成らん
⊂訳⊃
道を会得すれば 古今を超越し
道を失えば 人並みに老衰する
鏡に映るこの姿 われながら笑ってしまう
白髪は 霜に打ちのめされた草のようだ
胸に手を当てて 空しく溜め息をつき
何故こんなに痩せたのかと 鏡の中の自分に問う
桃梨は何も言わなかったが おのずから路ができ
つまりは南山の四皓となって終わりを迎えよう
⊂ものがたり⊃ この詩も「江南春懐」と同じころの作品です。「自ら笑う 鏡中の人 白髪 霜草の如し」と鏡に映る自分の顔を見て歎息します。結びの二句「桃梨 竟に何をか言う 終に南山の皓と成らん」は『史記』を踏まえています。李将軍列伝の論賛に「桃李言(ものい)はざれども、下自ら踁(こみち)を為(な)す」という有名な個所があり、桃李は何も言わないけれど、花や実が人を引きつけて、木の下に小径ができる。そんな生き方を立派であると思うのです。また、桃李の花や実を李白の詩と考えれば、自分の名は詩によって後世に残るであろうと言っているようにも思われます。そして、これからは「南山の皓」(秦末に終南山に隠れ住んだ四人の老隠者)のように、乱世から身を避けて余生を生きようと隠遁の志を述べるのです。
李白ー216
九日龍山飲 九日 龍山に飲む
九日龍山飲 九日(きゅうじつ) 龍山に飲めば
黄花笑逐臣 黄花(こうか) 逐臣(ちくしん)を笑う
酔看風落帽 酔いては看る 風の帽(ぼう)を落とすを
舞愛月留人 舞いては愛す 月の人を留(とど)むるを
⊂訳⊃
九月九日 龍山に登って酒を飲めば
菊の花が 逐臣を笑っている
酔って眺めるのは 風が頭巾を吹き落すさま
舞って楽しいのは 月が私をひきとめること
⊂ものがたり⊃ 上元三年(762)の春、安史の乱はまだ終息していませんでした。ところがその年の夏四月、玄宗上皇が七十八歳で亡くなり、あとを追うように粛宗が五十二歳の若さで亡くなりました。唐朝としては思いがけないことで、皇太子李豫が即位して代宗となり、四月に宝応と改元されました。
病の癒えた李白が金陵に出て来て崔太守に暇を告げ、送別の宴が催されたのは宝応元年の秋のことです。天宝六載以来交流のあった崔四侍御は、このとき罪を許されて昇州(金陵)の太守(刺史)になっていました。
李白は「李太尉が秦兵百万を大挙し 出でて東南を征すると聞き 懦夫は纓を請い 一割の用を申べんと冀う。半道病みて還り 金陵の崔侍御に留別す」という題の「十九韻」(三十八句)の長詩を捧げて、安史の乱の経過のなかで安慶緒(安禄山の後嗣)の軍を燕趙(河北方面)に撃退した経緯を描写します。そのなかで李光弼が臨淮から兵を出して彭城(江蘇省徐州)を包囲し、威令は千里の間に及んでいると李光弼の征旅を褒めます。李白はこの戦に参加するつもりで出かけ、途中で病気になって引き返しました。題にも「半道病みて還り」と、そのことを述べています。
李白は金陵の知友に別れを告げると、いったん当塗(とうと)県令李陽冰のもとにもどりました。当塗は金陵(南京市)の上流60kmほどのところで、舟で行けばすぐです。当塗県城の東南6kmほどのところに龍山という山があり、九月九日の重陽節(ちょうようせつ)に李白は龍山に登高(とうこう)して菊酒を飲み、明月を楽しみました。
詩中で「逐臣」と言っているのは自分のことで、李白は一度朝廷に召され解任された臣下という意味で「逐臣」と称していました。もちろん逐(お)われたのは佞臣の讒言によるものという意味が含まれていて、単なる詩人ではないという誇りが込められています。転句の「風の帽を落とすを」というのは東晋の孟嘉(もうか)の故事で、江陵の龍山で催された重陽節の野宴で、孟嘉の冠が風に飛ばされました。酔っていてそれに気づかなかった孟嘉は同席者から笑われますが、孟嘉は即座に応答の文章を書いて一座の者を感心させたといいます。李白は自分も孟嘉のような存在だけれど、舞を舞えば月はまだ自分を引きとめると同席の人に元気なところを見せたのです。
李白ー217
九月十日即時 九月十日 即時
昨日登高罷 昨日(さくじつ) 登高(とうこう)罷(や)み
今朝更挙觴 今朝(こんちょう) 更に觴(さかずき)を挙ぐ
菊花何太苦 菊花(きくか) 何ぞ太(はなは)だ苦しき
遭此両重陽 此の両重陽(りょうちょうよう)に遭(あ)うは
⊂訳⊃
登高の宴は 昨日済んだのに
今朝はまた さらに杯を挙げている
菊の花には なんとも気の毒なことだ
可哀そうに 二度もの重陽節に出逢うとは
⊂ものがたり⊃ 九月十日は小重陽(しょうちょうよう)といって、重陽節を重ねて楽しむ日でした。前日につづいて朝から菊の花びらを浮かべた菊酒を飲むので、李白は「菊花 何ぞ太だ苦しき」と菊の花に同情を寄せています。自分の酒好きを菊の花で誤魔化している節がみえみえです。李白の病気は過度の飲酒が原因であったと思われ、重陽節のあと、李白は再度の病に臥し、当塗県令李陽冰の世話になります。
李白ー218
臨路歌 臨路(臨終)の歌
大鵬飛兮振八裔 大鵬(たいほう)飛んで八裔(はちえい)に振(ふる)い
中天摧兮力不済 中天(ちゅうてん)に摧(くだ)けて力済(すく)わず
余風激兮万世 余風(よふう)は万世(ばんせい)に激し
遊扶桑兮挂石袂 扶桑(ふそう)に遊んで石袂(左袂さへい)を挂(か)く
後人得之伝此 後人(こうじん) 之(これ)を得て此(これ)を伝う
仲尼亡乎誰為出涕 仲尼(ちゅうじ)亡びたるかな 誰か為に涕を出ださん
⊂訳⊃
大鵬は飛んで 八方に翼を伸ばしたが
中天でくじけ 自らを救う力はない
影響は 万世に及ぶであろうが
扶桑の国に遊んで 左の袖をひっかけてしまう
後世の人が この鳥を得て世に伝えても
孔子が亡くなった今 誰が涙を流してくれるであろうか
⊂ものがたり⊃ 李県令は李姓ですが、李白の親戚ではありません。李白は知人の家で二か月余り病臥したあと、その年の冬十一月にこの世を去りました。享年六十二歳です。枕頭に妻宗氏と息子伯禽がいたかどうかはわかりません。しかし、伯禽が皖南地方で生活したことは、伯禽の二人の娘、つまり李白の孫娘が農民の妻となって付近に住んでいたことからわかります。
死が近いことを知った李白は詩稿のすべてを李陽冰に託し、死後に世に出すことを依頼して絶筆の一首を遺しました。この詩には題名のほかに一か所の誤字があると見られていますが、伝聞転写の際の誤字でなければ、李白は誤字を正す暇もなく逝ったことになります。
李白が自分を『荘子』に出てくる大鵬に擬したことは、若いころの詩にも見られることです。大鵬は八方に翼を伸ばしたけれども、中天で力くじけて飛ぶことができなくなったと詠います。結びの二句は後世の人が大鵬(李白)のことを知っても、孔子がいなくなったいまは、孔子が「獲麟」に涙したように、誰が自分のために泣いてくれるだろうかと結ぶのです。詩の天才李白の壮大な自らを自負する人生は、このようにして幕を閉じました。
覧鏡書懐 覧鏡書懐
得道無古今 道(みち)を得(う)れば古今(ここん)無く
失道還衰老 道を失えば還(ま)た衰老(すいろう)
自笑鏡中人 自ら笑う 鏡中(きょうちゅう)の人
白髪如霜草 白髪 霜草(そうそう)の如し
捫心空歎息 心を捫(な)でて空(むな)しく歎息し
問影何枯槁 影に問う 何ぞ枯槁(ここう)せると
桃梨竟何言 桃梨(とうり) 竟(つい)に何をか言う
終成南山皓 終(つい)に南山(なんざん)の皓(こう)と成らん
⊂訳⊃
道を会得すれば 古今を超越し
道を失えば 人並みに老衰する
鏡に映るこの姿 われながら笑ってしまう
白髪は 霜に打ちのめされた草のようだ
胸に手を当てて 空しく溜め息をつき
何故こんなに痩せたのかと 鏡の中の自分に問う
桃梨は何も言わなかったが おのずから路ができ
つまりは南山の四皓となって終わりを迎えよう
⊂ものがたり⊃ この詩も「江南春懐」と同じころの作品です。「自ら笑う 鏡中の人 白髪 霜草の如し」と鏡に映る自分の顔を見て歎息します。結びの二句「桃梨 竟に何をか言う 終に南山の皓と成らん」は『史記』を踏まえています。李将軍列伝の論賛に「桃李言(ものい)はざれども、下自ら踁(こみち)を為(な)す」という有名な個所があり、桃李は何も言わないけれど、花や実が人を引きつけて、木の下に小径ができる。そんな生き方を立派であると思うのです。また、桃李の花や実を李白の詩と考えれば、自分の名は詩によって後世に残るであろうと言っているようにも思われます。そして、これからは「南山の皓」(秦末に終南山に隠れ住んだ四人の老隠者)のように、乱世から身を避けて余生を生きようと隠遁の志を述べるのです。
李白ー216
九日龍山飲 九日 龍山に飲む
九日龍山飲 九日(きゅうじつ) 龍山に飲めば
黄花笑逐臣 黄花(こうか) 逐臣(ちくしん)を笑う
酔看風落帽 酔いては看る 風の帽(ぼう)を落とすを
舞愛月留人 舞いては愛す 月の人を留(とど)むるを
⊂訳⊃
九月九日 龍山に登って酒を飲めば
菊の花が 逐臣を笑っている
酔って眺めるのは 風が頭巾を吹き落すさま
舞って楽しいのは 月が私をひきとめること
⊂ものがたり⊃ 上元三年(762)の春、安史の乱はまだ終息していませんでした。ところがその年の夏四月、玄宗上皇が七十八歳で亡くなり、あとを追うように粛宗が五十二歳の若さで亡くなりました。唐朝としては思いがけないことで、皇太子李豫が即位して代宗となり、四月に宝応と改元されました。
病の癒えた李白が金陵に出て来て崔太守に暇を告げ、送別の宴が催されたのは宝応元年の秋のことです。天宝六載以来交流のあった崔四侍御は、このとき罪を許されて昇州(金陵)の太守(刺史)になっていました。
李白は「李太尉が秦兵百万を大挙し 出でて東南を征すると聞き 懦夫は纓を請い 一割の用を申べんと冀う。半道病みて還り 金陵の崔侍御に留別す」という題の「十九韻」(三十八句)の長詩を捧げて、安史の乱の経過のなかで安慶緒(安禄山の後嗣)の軍を燕趙(河北方面)に撃退した経緯を描写します。そのなかで李光弼が臨淮から兵を出して彭城(江蘇省徐州)を包囲し、威令は千里の間に及んでいると李光弼の征旅を褒めます。李白はこの戦に参加するつもりで出かけ、途中で病気になって引き返しました。題にも「半道病みて還り」と、そのことを述べています。
李白は金陵の知友に別れを告げると、いったん当塗(とうと)県令李陽冰のもとにもどりました。当塗は金陵(南京市)の上流60kmほどのところで、舟で行けばすぐです。当塗県城の東南6kmほどのところに龍山という山があり、九月九日の重陽節(ちょうようせつ)に李白は龍山に登高(とうこう)して菊酒を飲み、明月を楽しみました。
詩中で「逐臣」と言っているのは自分のことで、李白は一度朝廷に召され解任された臣下という意味で「逐臣」と称していました。もちろん逐(お)われたのは佞臣の讒言によるものという意味が含まれていて、単なる詩人ではないという誇りが込められています。転句の「風の帽を落とすを」というのは東晋の孟嘉(もうか)の故事で、江陵の龍山で催された重陽節の野宴で、孟嘉の冠が風に飛ばされました。酔っていてそれに気づかなかった孟嘉は同席者から笑われますが、孟嘉は即座に応答の文章を書いて一座の者を感心させたといいます。李白は自分も孟嘉のような存在だけれど、舞を舞えば月はまだ自分を引きとめると同席の人に元気なところを見せたのです。
李白ー217
九月十日即時 九月十日 即時
昨日登高罷 昨日(さくじつ) 登高(とうこう)罷(や)み
今朝更挙觴 今朝(こんちょう) 更に觴(さかずき)を挙ぐ
菊花何太苦 菊花(きくか) 何ぞ太(はなは)だ苦しき
遭此両重陽 此の両重陽(りょうちょうよう)に遭(あ)うは
⊂訳⊃
登高の宴は 昨日済んだのに
今朝はまた さらに杯を挙げている
菊の花には なんとも気の毒なことだ
可哀そうに 二度もの重陽節に出逢うとは
⊂ものがたり⊃ 九月十日は小重陽(しょうちょうよう)といって、重陽節を重ねて楽しむ日でした。前日につづいて朝から菊の花びらを浮かべた菊酒を飲むので、李白は「菊花 何ぞ太だ苦しき」と菊の花に同情を寄せています。自分の酒好きを菊の花で誤魔化している節がみえみえです。李白の病気は過度の飲酒が原因であったと思われ、重陽節のあと、李白は再度の病に臥し、当塗県令李陽冰の世話になります。
李白ー218
臨路歌 臨路(臨終)の歌
大鵬飛兮振八裔 大鵬(たいほう)飛んで八裔(はちえい)に振(ふる)い
中天摧兮力不済 中天(ちゅうてん)に摧(くだ)けて力済(すく)わず
余風激兮万世 余風(よふう)は万世(ばんせい)に激し
遊扶桑兮挂石袂 扶桑(ふそう)に遊んで石袂(左袂さへい)を挂(か)く
後人得之伝此 後人(こうじん) 之(これ)を得て此(これ)を伝う
仲尼亡乎誰為出涕 仲尼(ちゅうじ)亡びたるかな 誰か為に涕を出ださん
⊂訳⊃
大鵬は飛んで 八方に翼を伸ばしたが
中天でくじけ 自らを救う力はない
影響は 万世に及ぶであろうが
扶桑の国に遊んで 左の袖をひっかけてしまう
後世の人が この鳥を得て世に伝えても
孔子が亡くなった今 誰が涙を流してくれるであろうか
⊂ものがたり⊃ 李県令は李姓ですが、李白の親戚ではありません。李白は知人の家で二か月余り病臥したあと、その年の冬十一月にこの世を去りました。享年六十二歳です。枕頭に妻宗氏と息子伯禽がいたかどうかはわかりません。しかし、伯禽が皖南地方で生活したことは、伯禽の二人の娘、つまり李白の孫娘が農民の妻となって付近に住んでいたことからわかります。
死が近いことを知った李白は詩稿のすべてを李陽冰に託し、死後に世に出すことを依頼して絶筆の一首を遺しました。この詩には題名のほかに一か所の誤字があると見られていますが、伝聞転写の際の誤字でなければ、李白は誤字を正す暇もなく逝ったことになります。
李白が自分を『荘子』に出てくる大鵬に擬したことは、若いころの詩にも見られることです。大鵬は八方に翼を伸ばしたけれども、中天で力くじけて飛ぶことができなくなったと詠います。結びの二句は後世の人が大鵬(李白)のことを知っても、孔子がいなくなったいまは、孔子が「獲麟」に涙したように、誰が自分のために泣いてくれるだろうかと結ぶのです。詩の天才李白の壮大な自らを自負する人生は、このようにして幕を閉じました。