杜甫ー270
風疾舟中伏枕書懐三十六韻 風疾に舟中枕に伏し懐を書す 三十六韻
奉呈湖南親友 湖南の親友に呈し奉る
軒轅休製律 軒轅(けんえん) 律(りつ)を製するを休(や)めよ
虞舜罷弾琴 虞舜(ぐしゅん) 琴(こと)を弾ずるを罷(や)めよ
尚錯雄鳴管 尚お錯(あやま)る雄鳴(ゆうめい)の管(かん)
猶傷半死心 猶お傷(いた)む半死の心(しん)
聖賢名古邈 聖賢(せいけん) 名 古(いにしえ)邈(ばく)たり
羇旅病年浸 羇旅(きりょ) 病(やまい) 年々浸(おか)す
舟泊常依震 舟泊(しゅうはく) 常に震(しん)に依(よ)り
湖平早見参 湖(こ)平かにして早く参(しん)を見る
如聞馬融笛 聞くが如し馬融(ばゆう)が笛(てき)
若倚仲宣襟 倚(よ)るが若(ごと)し仲宣(ちゅうせん)が襟(きん)
故国悲寒望 故国 寒望(かんぼう)に悲しみ
群雲惨歳陰 群雲 歳陰(さいいん)に惨(さん)たり
水郷霾白屋 水郷 白屋(はくおく)に霾(つちふ)り
楓岸畳青岑 楓岸(ふうがん)に青岑(せいしん)畳(たたな)わる
鬱鬱冬炎瘴 鬱鬱(うつうつ)として冬(ふゆ)炎瘴(えんしょう)あり
濛濛雨滞淫 濛濛(もうもう)として雨(あめ)滞淫(たいいん)す
鼓迎非祭鬼 鼓(こ)は迎う 非祭(ひさい)の鬼(き)
弾落似鴞禽 弾(だん)は落とす 鴞(きょう)に似たる禽(きん)
興尽纔無悶 興(きょう)尽きて纔(わずか)に悶(もん)無く
愁来遽不禁 愁い来たりて遽(にわか)に禁(た)えず
生涯相泪没 生涯 相(あい)泪没(こつぼつ)す
時物正蕭森 時物(じぶつ) 正(まさ)に蕭森(しょうしん)たり
疑惑樽中弩 疑惑(ぎわく)す 樽中(そんちゅう)の弩(ど)
淹留冠上簪 淹留(えんりゅう)す 冠上(かんじょう)の簪(しん)
牽裾驚魏帝 牽裾(けんきょ) 魏帝(ぎてい)を驚かし
投閣為劉歆 投閣(とうかく) 劉歆(りゅうきん)が為なり
狂走終奚適 狂走 終(つい)に奚(いずく)にか適(ゆ)かむ
微才謝所欽 微才 所欽(しょきん)を謝(しゃ)す
吾安藜不糝 吾(われ)は安んず藜糝(れいさん)せざるに
汝貴玉為琛 汝(なんじ)は貴(たっと)くして玉琛(ぎょくちん)為(た)り
烏几重重縛 烏几(うき) 重重(ちょうちょう)縛(ばく)す
鶉衣寸寸針 鶉衣(じゅんい) 寸寸(すんすん)針(はり)す
哀傷同庾信 哀傷(あいしょう) 庾信(ゆしん)に同じ
述作異陳琳 述作(じゅつさく) 陳琳(ちんりん)に異(こと)なる
十暑岷山葛 十暑(じつしょ) 岷山(びんざん)の葛(かつ)
三霜楚戸砧 三霜(さんそう) 楚戸(そこ)の砧(ちん)
叨陪錦帳坐 叨(みだ)りに陪(ばい)す 錦帳(きんちょう)の坐
久放白頭吟 久しく放(ほしいまま)にす 白頭(はくとう)の吟
反樸時難遇 反樸(へんぼく) 時 遇(あ)い難く
忘機陸易沈 忘機(ぼうき) 陸 沈み易(やす)し
応過数粒食 応(まさ)に過ぐるなべし数粒(すうりゅう)の食
得近四知金 近づくことを得たり四知(しち)の金(きん)
春草封帰恨 春草(しゅんそう) 帰恨(きこん)を封じ
源花費独尋 源花(げんか) 独尋(どくじん)を費(ついや)す
転蓬憂悄悄 転蓬(てんぽう) 憂い悄悄(しょうしょう)たり
行薬病涔涔 行薬(こうやく) 病(やまい)涔涔(しんしん)たり
夭瘞追潘岳 夭(よう)を瘞(うず)むるは潘岳(はんがく)を追い
持危覓林 危(き)を持(じ)するは林(とうりん)を覓(もと)む
蹉跎翻学歩 蹉跎(さた) 翻(かえ)って歩(ほ)を学び
感激在知音 感激 知音(ちいん)に在り
卻假蘇張舌 卻(かえ)って假(か)る蘇張(そちょう)の舌(した)
高誇周宋鐔 高く誇る周宋(しゅうそう)の鐔(じん)
納流迷浩汗 納流(のうりゅう) 浩汗(こうかん)なるに迷い
峻趾得嶔崟 峻趾(しゅんし) 嶔崟(きんぎん)たるを得たり
城府開清旭 城府(じょうふ) 清旭(せいきょく)に開き
松筠起碧潯 松筠(しょういん) 碧潯(へきじん)に起こる
披顔争倩倩 顔(がん)を披(ひら)きて争いて倩倩(せんせん)たり
逸足競駸駸 逸足(しゅんそく)競(きそ)いて駸駸(しんしん)たり
朗鍳存愚直 朗鍳(ろうかん) 愚直(ぐちょく)を存(そん)し
皇天実照臨 皇天(こうてん) 実に照臨(しょうりん)せり
公孫仍恃険 公孫(こうそん) 仍(な)お険(けん)を恃(たの)み
侯景未生擒 侯景(こうけい) 未(いま)だ生擒(せいきん)せられず
書信中原闊 書信(しょしん) 中原(ちゅうげん)闊(かつ)なり
干戈北斗深 干戈(かんか) 北斗(ほくと)深し
畏人千里井 人を畏(おそ)る 千里の井(せい)
問俗九州箴 俗(ぞく)を問う 九州の箴(しん)
戦血流依旧 戦血(せんけつ)流れて旧に依(よ)り
軍声動至今 軍声(ぐんせい)動きて今に至る
葛洪尸定解 葛洪(かつこう) 尸(し)定めて解(と)けむ
許靖力難任 許靖(きょせい) 力(ちから)任(た)え難し
家事丹砂訣 家事(かじ)と丹砂(たんさ)の訣(けつ)と
無成涕作霖 成る無くして涕(なんだ)霖(りん)を作(な)す
⊂訳⊃
黄帝は 律の定めをやめたがよい
帝舜は 琴を弾くのをやめたがよい
雄鳴の管は 韻律の調和をうしない
梧桐の琴は 胴心が半分傷んでいる
聖賢の名は 遠いむかしのこと
旅にあって 年々病に侵されている
舟の泊りでは いつも東北の側に寄り
湖面は平らで 朝早くに参星を見る
馬融が旅路で聞いた笛
旅の身を 軒端に寄せる王粲の心境だ
故郷を想って 寒空の遠望を悲しみ
群がる雲は 歳末の陰気に満ちている
水辺の村の白壁に 土埃が舞い
岸の楓樹に 山の緑が重なって見える
冬でも熱気が立ちこめ 蒸気が漂い
陰鬱な雨が いつまでも降りつづく
産土の鬼神を 村人は太鼓で迎え
梟に似た鳥を 投石で打ち落とす
興味が尽きれば 悶えもなく
愁いが湧くと 急に堪え難くなる
人生には 浮き沈みがあるが
自然の風物は 蕭として厳かである
杯中の蛇影 疑心暗鬼に惑わされ
冠の身が こんなところに滞留している
天子の裳裾を引いて 強く諫め
宮殿から放り出される問責を受けた
狂ったように駆けめぐり 何処へゆくのか
この身は 諸兄に感謝して去ろうとする
米も混じらぬ粥で安んじているが
諸兄の存在は 貴重な玉琛である
壊れた脇息を 幾度も修理して用い
破れた衣服を 縫い合わせて着ている
悲しみの深さは 庾信と変わらず
作品の出来栄えは 陳琳に及ばない
岷山の麓に棲んで 葛衣の十夏を過ごし
楚地の砧を聞きながら 三度の霜を経た
郎官の地位にありながら 無為に過ごし
気の向くままに 白髪の詩を吟じてきた
純朴の時世にもどるのは 困難だが
欲を捨てれば 世間を離れるのはたやすい
数粒の餌で生きる鳥よりはましな身で
清廉な人のお金の恵みを受けている
春草が望郷の想いを止めてくれるので
桃源の花をひとりで尋ねる愚行もした
転蓬の憂いを しみじみと味合い
病に悩みつつ 薬を飲みながら旅をする
夭折の子を葬って潘岳の悲しみを知り
体の支えには林の杖の援けを借りる
一度躓いた身で 恰好よく歩こうとし
知己の親切には いつも感激している
臆面もなく蘇秦・張儀の弁舌を弄し
諸邦の存在の必要を説いて誇っている
江湖には多くの川が流れ 広さに迷い
険しい山の麓に沿って歩く経験もした
清らかな朝日のなかで 城門は開かれ
みどりの水際には 松や竹が生えている
にこにこ顔の追従者が 地位を争い
俊足の才人は 颯爽と出世を競う
私の愚直は 皆さんのご覧のとおり
偽りのない心は皇天が照覧なさる
公孫述は 険阻を恃んでいまだ従わず
侯景のような叛臣は 捕まっていない
中原は広くて 書信は届かず
北の長安は 戦禍に深く傷ついている
千里の地 市井にあって人をはばかり
各地の習俗や伝説を尋ねて歩く
戦場の流血は あいも変わらず
軍勢の喚声は いまもつづいている
葛洪は死んで 屍は解けて仙人となり
許靖の避難が 立派であるのに及ばない
生活の道でも 仙術においても失敗し
霖雨のように 涙が落ちるばかりである
⊂ものがたり⊃ この詩は『杜少陵詩集』の最後に置かれており、湖上をゆく杜甫の絶筆とされています。衡州で「迴棹」を決意した杜甫は、ほどなく潭州の兵乱も収まったので、衡州から潭州に移ると、秋のあいだは潭州にとどまって北航の準備をととのえました。世話になった知友に別れの挨拶をし、潭州を船出したのは冬のはじめでした。
詩は舟中に病気の身を横たえながら潭州の親友に贈ったもので、五言古詩三十六韻、七十二句の長詩です。杜甫の辞世の詩と目されるこの詩は、旅の模様を語りながら自分の生涯を回顧しています。そのなかで目立つのは、湖南の友人に対する感謝の言葉です。杜甫の最後の漂泊の旅が、友人たちの援助に頼るものであったことが示されています。
はじめ八句のうち最初の二聯は、黄帝軒轅(けんえん)氏と帝舜有虞(ゆうぐ)氏の故事を借りて、世の乱れを指摘しています。「聖賢 名 古邈たり」と唐朝の衰微を嘆きながら、杜甫は病の身を舟に託して北へ向かいます。「舟泊 常に震に依り」と言っているのは、震が易の方位で東北を意味し、故郷に帰るには東北に舟を向けなければならないので、湖の東北側に寄せて舟泊まりをしていると言っているのです。八句目の「参」は七宿の参星(しんせい)のことで、冬の朝には南に沈む星です。この句によって杜甫は、別れてきた湖南の知友を懐かしむ気持ちを表わしています。
洞庭湖を北上しながら、杜甫の思いはつづきます。「馬融が笛」というのは後漢の馬融が「長笛賦」(ちょうてきふ)を作って故郷を去る悲しみを詠った故事であり、「仲宣が襟」というのは後漢の王粲が「登楼賦」(とうろうふ)を作り、北風に向かって襟をひらいた故事をさします。襟をひらくのは、故郷の風を胸元に受け入れる望郷の仕種です。
馬融や王粲のような心境で湖南を去るというのは、杜甫が湖南を故郷のように想っているという気持ちを表すものでしょう。見上げると冬の雲は寒々と空に満ちており、湖岸の風景に目を移すと、岸辺の村の白壁に土埃が舞っています。楓樹の向こうには山々の緑が重なって見え、冬にもかかわらず蒸し暑くて湯気がただよい、やがて陰鬱な雨が降ってきました。
岸辺の村からは、土着の神を祭る太鼓の音が聞こえてきます。また村人は「鴞」(梟)に似た鳥を投石で打ち落とすと言います。そんな村人の自然な生き方を思うと、杜甫は「生涯 相泪没す 時物 正に蕭森たり」と、人生は変転極まりないのに自然は永遠であるのを感ずるのです。自分は「樽中の弩」、つまり疑心暗鬼にとらわれて、本当は冠をいただいて朝廷に仕えている身であるのに、こんなところでうろうろしていると反省するのです。
こんなみじめな状態に立ち至ったのも、粛宗を強く諫言して左遷されたからだと、杜甫は漂泊の人生にいたった原因に思いを致します。「狂走 終に奚にか適かむ」と、杜甫は自分の未来に自信をなくしています。
杜甫は湖南の知友たちに改めて感謝しながら、この地を去ろうとしていますが、身のまわりにあるのは壊れた脇息(きょうそく)や修理した衣服、貧しい生活だけです。「烏几 重重縛す」と五言の簡潔な表現になっていますが、黒い脇息の壊れた部分を紐かなにかでぐるぐる巻きにして使っている姿を想像してください。
自分の詩を考えてみても、悲しみの深さでは庾信と変わらないけれど、出来栄えは陳琳に及ばないと反省します。「陳琳」は三国時代に曹操を非難する檄文を書き、その名文に感心した曹操が陳琳を召して用いたという故事を指しています。自分は詩にはすぐれていると思うが、官に用いられず陳琳には及ばないという意味でしょう。
三十六句めから六句にわたって述べていることは、蜀に十年、楚に三年、旅の人生を送って来たけれども無為に過ごし、白髪の歳になるまで詩を作るだけの人生であった。いまさら人生をもとの純朴な時代にもどすことはできないが、欲を捨てれば世間を離れることはたやすいと、自分自身を振り返って納得しようとするのです。
ここから湖南漂泊の旅の回想に移ります。杜甫は数粒の餌で生きる鳥よりはましな身分であり、知友が差し出してくれる「四知の金」(清潔な金銭)で露命をつないできたと詠います。江南の山野に魅せられて、桃源の花をひとりで尋ね求めてもみたけれど、漂泊の愁いは増すばかりでした。
「夭を瘞むるは潘岳を追い」は、故事を踏まえています。潘岳は「西征賦」を作った詩人であり、旅の途中で幼児を亡くしました。その悲しみを知ったというのは、杜甫も耒陽のあたりで幼い子を亡くしたと推定されます。杜甫の正妻の子はすでに成人になっていて夭折とは言えないので、小婦(妾)の子が旅の途中で亡くなったのであろうと思われるのです。
病の身に薬を飲み、杖の援けを借りながら、杜甫の反省はつづきます。一度つまずいた身が恰好よく歩こうとしても、結局は知己の親切に頼る生活です。戦国時代の縦横家蘇秦(そしん)・張儀(ちょうぎ)を気取って政略を論じ、杜甫の持論である「高く誇る周宋の鐔」は、もともと『荘子』にある思想で、天下は自然の要害や隣邦との友好関係によって保たれると説くものです。こうした政事論も自分を誇るだけの空論でしかなかったと思うのでした。
江湖(世間という意味もあります)には多くの川が流れ、大地の広さに迷うほどでした。特に潭州では多くの友人に快く迎えられ、そのことに重ねて感謝しています。「松筠 碧潯に起こる」の松筠は松と竹のことで、中国では松竹は忠貞廉直の士の比喩とされています。無論、潭州の友を褒める言葉です。
そんななかで追従者は地位を争い、才人は出世を競うが、私の愚直な性格は皆さんもご存じでしょう。しかし、私の偽りのない心は天が知っていますと杜甫は言います。兵乱はいまだ終息しておらず、「公孫 仍お険を恃み 侯景 未だ生擒せられず」と故事を借りて世の乱れを指摘します。
「公孫」は公孫述(こうそんじゅつ)のことで、蜀で叛乱を起こして皇帝を称しました。また「侯景」は南朝梁の叛臣で、史上「侯景の乱」として有名です。戦乱のために書信は中原に届かず、都長安は戦禍に傷ついていると嘆くのです。
杜甫は戦乱の世をさまよってきた自分の人生に、最後に一言して三十六韻の長い詩を閉じます。戦禍のために千里の地をさまよい歩き、街中で人々に遠慮しながら各地を尋ねて歩いたけれども、戦場の流血はいまも変わらずにつづいています。
「葛洪」は死んで仙人になり、「許靖」は艱難に遭うたびに人を先に逃がしてやり、自分を後にしたというけれど、自分はそうした滅私の人には及ばない。許靖のような立派な生き方にも葛洪のような隠遁の暮らしにも成功せず、涙が流れ落ちるばかりであると結びます。
杜甫は洞庭湖を北航中に、湖岸のどこかで病のために亡くなったとされています。大暦五年(770)の冬、享年五十九歳でした。杜甫は岳陽に近い湖岸で亡くなり、岳陽に仮埋葬されたというのが通説でしたが、1980年代に研究がすすみ、杜甫は洞庭湖の中ほどから東へ汨羅水を遡り、汨羅水の中流北岸にある昌江(湖南省平江県)で亡くなったという説が有力になっています。
当時、昌江の城市に斐隠(はいいん)という名医がおり、病が重くなった杜甫は斐隠の治療を受けるために昌江の町の岸辺に舟を繋ぎ、停泊中に舟中で没したというのが事実のようです。平江県大橋郷小田村に高さ1m余の封土で覆われた墓があり、「唐左拾遺工部員外郎杜文貞公之墓」と刻んだ墓碑が建っているそうです。「文貞公」というのは元の順帝が至正二年(1342)に追贈した送り名であるといいます。付近に七百三十一人いるという杜姓の者は、春秋二回、杜甫墓を清め、いまも例祭をつづけているそうです。
風疾舟中伏枕書懐三十六韻 風疾に舟中枕に伏し懐を書す 三十六韻
奉呈湖南親友 湖南の親友に呈し奉る
軒轅休製律 軒轅(けんえん) 律(りつ)を製するを休(や)めよ
虞舜罷弾琴 虞舜(ぐしゅん) 琴(こと)を弾ずるを罷(や)めよ
尚錯雄鳴管 尚お錯(あやま)る雄鳴(ゆうめい)の管(かん)
猶傷半死心 猶お傷(いた)む半死の心(しん)
聖賢名古邈 聖賢(せいけん) 名 古(いにしえ)邈(ばく)たり
羇旅病年浸 羇旅(きりょ) 病(やまい) 年々浸(おか)す
舟泊常依震 舟泊(しゅうはく) 常に震(しん)に依(よ)り
湖平早見参 湖(こ)平かにして早く参(しん)を見る
如聞馬融笛 聞くが如し馬融(ばゆう)が笛(てき)
若倚仲宣襟 倚(よ)るが若(ごと)し仲宣(ちゅうせん)が襟(きん)
故国悲寒望 故国 寒望(かんぼう)に悲しみ
群雲惨歳陰 群雲 歳陰(さいいん)に惨(さん)たり
水郷霾白屋 水郷 白屋(はくおく)に霾(つちふ)り
楓岸畳青岑 楓岸(ふうがん)に青岑(せいしん)畳(たたな)わる
鬱鬱冬炎瘴 鬱鬱(うつうつ)として冬(ふゆ)炎瘴(えんしょう)あり
濛濛雨滞淫 濛濛(もうもう)として雨(あめ)滞淫(たいいん)す
鼓迎非祭鬼 鼓(こ)は迎う 非祭(ひさい)の鬼(き)
弾落似鴞禽 弾(だん)は落とす 鴞(きょう)に似たる禽(きん)
興尽纔無悶 興(きょう)尽きて纔(わずか)に悶(もん)無く
愁来遽不禁 愁い来たりて遽(にわか)に禁(た)えず
生涯相泪没 生涯 相(あい)泪没(こつぼつ)す
時物正蕭森 時物(じぶつ) 正(まさ)に蕭森(しょうしん)たり
疑惑樽中弩 疑惑(ぎわく)す 樽中(そんちゅう)の弩(ど)
淹留冠上簪 淹留(えんりゅう)す 冠上(かんじょう)の簪(しん)
牽裾驚魏帝 牽裾(けんきょ) 魏帝(ぎてい)を驚かし
投閣為劉歆 投閣(とうかく) 劉歆(りゅうきん)が為なり
狂走終奚適 狂走 終(つい)に奚(いずく)にか適(ゆ)かむ
微才謝所欽 微才 所欽(しょきん)を謝(しゃ)す
吾安藜不糝 吾(われ)は安んず藜糝(れいさん)せざるに
汝貴玉為琛 汝(なんじ)は貴(たっと)くして玉琛(ぎょくちん)為(た)り
烏几重重縛 烏几(うき) 重重(ちょうちょう)縛(ばく)す
鶉衣寸寸針 鶉衣(じゅんい) 寸寸(すんすん)針(はり)す
哀傷同庾信 哀傷(あいしょう) 庾信(ゆしん)に同じ
述作異陳琳 述作(じゅつさく) 陳琳(ちんりん)に異(こと)なる
十暑岷山葛 十暑(じつしょ) 岷山(びんざん)の葛(かつ)
三霜楚戸砧 三霜(さんそう) 楚戸(そこ)の砧(ちん)
叨陪錦帳坐 叨(みだ)りに陪(ばい)す 錦帳(きんちょう)の坐
久放白頭吟 久しく放(ほしいまま)にす 白頭(はくとう)の吟
反樸時難遇 反樸(へんぼく) 時 遇(あ)い難く
忘機陸易沈 忘機(ぼうき) 陸 沈み易(やす)し
応過数粒食 応(まさ)に過ぐるなべし数粒(すうりゅう)の食
得近四知金 近づくことを得たり四知(しち)の金(きん)
春草封帰恨 春草(しゅんそう) 帰恨(きこん)を封じ
源花費独尋 源花(げんか) 独尋(どくじん)を費(ついや)す
転蓬憂悄悄 転蓬(てんぽう) 憂い悄悄(しょうしょう)たり
行薬病涔涔 行薬(こうやく) 病(やまい)涔涔(しんしん)たり
夭瘞追潘岳 夭(よう)を瘞(うず)むるは潘岳(はんがく)を追い
持危覓林 危(き)を持(じ)するは林(とうりん)を覓(もと)む
蹉跎翻学歩 蹉跎(さた) 翻(かえ)って歩(ほ)を学び
感激在知音 感激 知音(ちいん)に在り
卻假蘇張舌 卻(かえ)って假(か)る蘇張(そちょう)の舌(した)
高誇周宋鐔 高く誇る周宋(しゅうそう)の鐔(じん)
納流迷浩汗 納流(のうりゅう) 浩汗(こうかん)なるに迷い
峻趾得嶔崟 峻趾(しゅんし) 嶔崟(きんぎん)たるを得たり
城府開清旭 城府(じょうふ) 清旭(せいきょく)に開き
松筠起碧潯 松筠(しょういん) 碧潯(へきじん)に起こる
披顔争倩倩 顔(がん)を披(ひら)きて争いて倩倩(せんせん)たり
逸足競駸駸 逸足(しゅんそく)競(きそ)いて駸駸(しんしん)たり
朗鍳存愚直 朗鍳(ろうかん) 愚直(ぐちょく)を存(そん)し
皇天実照臨 皇天(こうてん) 実に照臨(しょうりん)せり
公孫仍恃険 公孫(こうそん) 仍(な)お険(けん)を恃(たの)み
侯景未生擒 侯景(こうけい) 未(いま)だ生擒(せいきん)せられず
書信中原闊 書信(しょしん) 中原(ちゅうげん)闊(かつ)なり
干戈北斗深 干戈(かんか) 北斗(ほくと)深し
畏人千里井 人を畏(おそ)る 千里の井(せい)
問俗九州箴 俗(ぞく)を問う 九州の箴(しん)
戦血流依旧 戦血(せんけつ)流れて旧に依(よ)り
軍声動至今 軍声(ぐんせい)動きて今に至る
葛洪尸定解 葛洪(かつこう) 尸(し)定めて解(と)けむ
許靖力難任 許靖(きょせい) 力(ちから)任(た)え難し
家事丹砂訣 家事(かじ)と丹砂(たんさ)の訣(けつ)と
無成涕作霖 成る無くして涕(なんだ)霖(りん)を作(な)す
⊂訳⊃
黄帝は 律の定めをやめたがよい
帝舜は 琴を弾くのをやめたがよい
雄鳴の管は 韻律の調和をうしない
梧桐の琴は 胴心が半分傷んでいる
聖賢の名は 遠いむかしのこと
旅にあって 年々病に侵されている
舟の泊りでは いつも東北の側に寄り
湖面は平らで 朝早くに参星を見る
馬融が旅路で聞いた笛
旅の身を 軒端に寄せる王粲の心境だ
故郷を想って 寒空の遠望を悲しみ
群がる雲は 歳末の陰気に満ちている
水辺の村の白壁に 土埃が舞い
岸の楓樹に 山の緑が重なって見える
冬でも熱気が立ちこめ 蒸気が漂い
陰鬱な雨が いつまでも降りつづく
産土の鬼神を 村人は太鼓で迎え
梟に似た鳥を 投石で打ち落とす
興味が尽きれば 悶えもなく
愁いが湧くと 急に堪え難くなる
人生には 浮き沈みがあるが
自然の風物は 蕭として厳かである
杯中の蛇影 疑心暗鬼に惑わされ
冠の身が こんなところに滞留している
天子の裳裾を引いて 強く諫め
宮殿から放り出される問責を受けた
狂ったように駆けめぐり 何処へゆくのか
この身は 諸兄に感謝して去ろうとする
米も混じらぬ粥で安んじているが
諸兄の存在は 貴重な玉琛である
壊れた脇息を 幾度も修理して用い
破れた衣服を 縫い合わせて着ている
悲しみの深さは 庾信と変わらず
作品の出来栄えは 陳琳に及ばない
岷山の麓に棲んで 葛衣の十夏を過ごし
楚地の砧を聞きながら 三度の霜を経た
郎官の地位にありながら 無為に過ごし
気の向くままに 白髪の詩を吟じてきた
純朴の時世にもどるのは 困難だが
欲を捨てれば 世間を離れるのはたやすい
数粒の餌で生きる鳥よりはましな身で
清廉な人のお金の恵みを受けている
春草が望郷の想いを止めてくれるので
桃源の花をひとりで尋ねる愚行もした
転蓬の憂いを しみじみと味合い
病に悩みつつ 薬を飲みながら旅をする
夭折の子を葬って潘岳の悲しみを知り
体の支えには林の杖の援けを借りる
一度躓いた身で 恰好よく歩こうとし
知己の親切には いつも感激している
臆面もなく蘇秦・張儀の弁舌を弄し
諸邦の存在の必要を説いて誇っている
江湖には多くの川が流れ 広さに迷い
険しい山の麓に沿って歩く経験もした
清らかな朝日のなかで 城門は開かれ
みどりの水際には 松や竹が生えている
にこにこ顔の追従者が 地位を争い
俊足の才人は 颯爽と出世を競う
私の愚直は 皆さんのご覧のとおり
偽りのない心は皇天が照覧なさる
公孫述は 険阻を恃んでいまだ従わず
侯景のような叛臣は 捕まっていない
中原は広くて 書信は届かず
北の長安は 戦禍に深く傷ついている
千里の地 市井にあって人をはばかり
各地の習俗や伝説を尋ねて歩く
戦場の流血は あいも変わらず
軍勢の喚声は いまもつづいている
葛洪は死んで 屍は解けて仙人となり
許靖の避難が 立派であるのに及ばない
生活の道でも 仙術においても失敗し
霖雨のように 涙が落ちるばかりである
⊂ものがたり⊃ この詩は『杜少陵詩集』の最後に置かれており、湖上をゆく杜甫の絶筆とされています。衡州で「迴棹」を決意した杜甫は、ほどなく潭州の兵乱も収まったので、衡州から潭州に移ると、秋のあいだは潭州にとどまって北航の準備をととのえました。世話になった知友に別れの挨拶をし、潭州を船出したのは冬のはじめでした。
詩は舟中に病気の身を横たえながら潭州の親友に贈ったもので、五言古詩三十六韻、七十二句の長詩です。杜甫の辞世の詩と目されるこの詩は、旅の模様を語りながら自分の生涯を回顧しています。そのなかで目立つのは、湖南の友人に対する感謝の言葉です。杜甫の最後の漂泊の旅が、友人たちの援助に頼るものであったことが示されています。
はじめ八句のうち最初の二聯は、黄帝軒轅(けんえん)氏と帝舜有虞(ゆうぐ)氏の故事を借りて、世の乱れを指摘しています。「聖賢 名 古邈たり」と唐朝の衰微を嘆きながら、杜甫は病の身を舟に託して北へ向かいます。「舟泊 常に震に依り」と言っているのは、震が易の方位で東北を意味し、故郷に帰るには東北に舟を向けなければならないので、湖の東北側に寄せて舟泊まりをしていると言っているのです。八句目の「参」は七宿の参星(しんせい)のことで、冬の朝には南に沈む星です。この句によって杜甫は、別れてきた湖南の知友を懐かしむ気持ちを表わしています。
洞庭湖を北上しながら、杜甫の思いはつづきます。「馬融が笛」というのは後漢の馬融が「長笛賦」(ちょうてきふ)を作って故郷を去る悲しみを詠った故事であり、「仲宣が襟」というのは後漢の王粲が「登楼賦」(とうろうふ)を作り、北風に向かって襟をひらいた故事をさします。襟をひらくのは、故郷の風を胸元に受け入れる望郷の仕種です。
馬融や王粲のような心境で湖南を去るというのは、杜甫が湖南を故郷のように想っているという気持ちを表すものでしょう。見上げると冬の雲は寒々と空に満ちており、湖岸の風景に目を移すと、岸辺の村の白壁に土埃が舞っています。楓樹の向こうには山々の緑が重なって見え、冬にもかかわらず蒸し暑くて湯気がただよい、やがて陰鬱な雨が降ってきました。
岸辺の村からは、土着の神を祭る太鼓の音が聞こえてきます。また村人は「鴞」(梟)に似た鳥を投石で打ち落とすと言います。そんな村人の自然な生き方を思うと、杜甫は「生涯 相泪没す 時物 正に蕭森たり」と、人生は変転極まりないのに自然は永遠であるのを感ずるのです。自分は「樽中の弩」、つまり疑心暗鬼にとらわれて、本当は冠をいただいて朝廷に仕えている身であるのに、こんなところでうろうろしていると反省するのです。
こんなみじめな状態に立ち至ったのも、粛宗を強く諫言して左遷されたからだと、杜甫は漂泊の人生にいたった原因に思いを致します。「狂走 終に奚にか適かむ」と、杜甫は自分の未来に自信をなくしています。
杜甫は湖南の知友たちに改めて感謝しながら、この地を去ろうとしていますが、身のまわりにあるのは壊れた脇息(きょうそく)や修理した衣服、貧しい生活だけです。「烏几 重重縛す」と五言の簡潔な表現になっていますが、黒い脇息の壊れた部分を紐かなにかでぐるぐる巻きにして使っている姿を想像してください。
自分の詩を考えてみても、悲しみの深さでは庾信と変わらないけれど、出来栄えは陳琳に及ばないと反省します。「陳琳」は三国時代に曹操を非難する檄文を書き、その名文に感心した曹操が陳琳を召して用いたという故事を指しています。自分は詩にはすぐれていると思うが、官に用いられず陳琳には及ばないという意味でしょう。
三十六句めから六句にわたって述べていることは、蜀に十年、楚に三年、旅の人生を送って来たけれども無為に過ごし、白髪の歳になるまで詩を作るだけの人生であった。いまさら人生をもとの純朴な時代にもどすことはできないが、欲を捨てれば世間を離れることはたやすいと、自分自身を振り返って納得しようとするのです。
ここから湖南漂泊の旅の回想に移ります。杜甫は数粒の餌で生きる鳥よりはましな身分であり、知友が差し出してくれる「四知の金」(清潔な金銭)で露命をつないできたと詠います。江南の山野に魅せられて、桃源の花をひとりで尋ね求めてもみたけれど、漂泊の愁いは増すばかりでした。
「夭を瘞むるは潘岳を追い」は、故事を踏まえています。潘岳は「西征賦」を作った詩人であり、旅の途中で幼児を亡くしました。その悲しみを知ったというのは、杜甫も耒陽のあたりで幼い子を亡くしたと推定されます。杜甫の正妻の子はすでに成人になっていて夭折とは言えないので、小婦(妾)の子が旅の途中で亡くなったのであろうと思われるのです。
病の身に薬を飲み、杖の援けを借りながら、杜甫の反省はつづきます。一度つまずいた身が恰好よく歩こうとしても、結局は知己の親切に頼る生活です。戦国時代の縦横家蘇秦(そしん)・張儀(ちょうぎ)を気取って政略を論じ、杜甫の持論である「高く誇る周宋の鐔」は、もともと『荘子』にある思想で、天下は自然の要害や隣邦との友好関係によって保たれると説くものです。こうした政事論も自分を誇るだけの空論でしかなかったと思うのでした。
江湖(世間という意味もあります)には多くの川が流れ、大地の広さに迷うほどでした。特に潭州では多くの友人に快く迎えられ、そのことに重ねて感謝しています。「松筠 碧潯に起こる」の松筠は松と竹のことで、中国では松竹は忠貞廉直の士の比喩とされています。無論、潭州の友を褒める言葉です。
そんななかで追従者は地位を争い、才人は出世を競うが、私の愚直な性格は皆さんもご存じでしょう。しかし、私の偽りのない心は天が知っていますと杜甫は言います。兵乱はいまだ終息しておらず、「公孫 仍お険を恃み 侯景 未だ生擒せられず」と故事を借りて世の乱れを指摘します。
「公孫」は公孫述(こうそんじゅつ)のことで、蜀で叛乱を起こして皇帝を称しました。また「侯景」は南朝梁の叛臣で、史上「侯景の乱」として有名です。戦乱のために書信は中原に届かず、都長安は戦禍に傷ついていると嘆くのです。
杜甫は戦乱の世をさまよってきた自分の人生に、最後に一言して三十六韻の長い詩を閉じます。戦禍のために千里の地をさまよい歩き、街中で人々に遠慮しながら各地を尋ねて歩いたけれども、戦場の流血はいまも変わらずにつづいています。
「葛洪」は死んで仙人になり、「許靖」は艱難に遭うたびに人を先に逃がしてやり、自分を後にしたというけれど、自分はそうした滅私の人には及ばない。許靖のような立派な生き方にも葛洪のような隠遁の暮らしにも成功せず、涙が流れ落ちるばかりであると結びます。
杜甫は洞庭湖を北航中に、湖岸のどこかで病のために亡くなったとされています。大暦五年(770)の冬、享年五十九歳でした。杜甫は岳陽に近い湖岸で亡くなり、岳陽に仮埋葬されたというのが通説でしたが、1980年代に研究がすすみ、杜甫は洞庭湖の中ほどから東へ汨羅水を遡り、汨羅水の中流北岸にある昌江(湖南省平江県)で亡くなったという説が有力になっています。
当時、昌江の城市に斐隠(はいいん)という名医がおり、病が重くなった杜甫は斐隠の治療を受けるために昌江の町の岸辺に舟を繋ぎ、停泊中に舟中で没したというのが事実のようです。平江県大橋郷小田村に高さ1m余の封土で覆われた墓があり、「唐左拾遺工部員外郎杜文貞公之墓」と刻んだ墓碑が建っているそうです。「文貞公」というのは元の順帝が至正二年(1342)に追贈した送り名であるといいます。付近に七百三十一人いるという杜姓の者は、春秋二回、杜甫墓を清め、いまも例祭をつづけているそうです。