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tiandaoの自由訳漢詩

ティェンタオの自由訳漢詩 李白71ー75

2009年05月29日 | Weblog
 李白ー71
   翰林読書言懐呈      翰林に読書して懐いを言い
   集賢院内諸学士      集賢院内の諸学士に呈す

  晨趨紫禁中     晨(あした)に紫禁(しきん)の中(うち)に趨(はし)り
  夕待金門詔     夕(ゆうべ)に金門(きんもん)の詔(しょう)を待つ
  観書散遺帙     書を観て遺帙(いちつ)を散じ
  探古窮至妙     古(いにしえ)を探って至妙(しみょう)を窮(きわ)む
  片言苟会心     片言(へんげん)  苟(も)し心に会すれば
  掩巻忽而笑     巻を掩(おお)いて忽ちにして笑う
  青蠅易相點     青蠅(せいよう)  相(あい)點(けが)し易(やす)く
  白雪難同調     白雪(はくせつ)  同調(どうちょう)し難(がた)し
  本是疎散人     本(もと)是(こ)れ疎散(そさん)の人
  屢貽褊促誚     屢(しばしば)褊促(へんそく)の誚(そしり)を貽(おく)らる
  雲天属清朗     雲天(うんてん)  清朗に属(ちか)し
  林壑憶遊眺     林壑(りんがく)  遊眺(ゆうちょう)を憶う
  或時清風来     或時(あるとき)は清風来たり
  倚欄干嘯     (かん)に欄干に倚(よ)りて嘯(うそぶ)く
  厳光桐廬渓     厳光(がんこう)  桐廬(とうろ)の渓(けい)
  謝客臨海嶠     謝客(しゃかく)  臨海(りんかい)の嶠(きょう)
  功成謝人君     功成り人君(じんくん)に謝し
  従此一投釣     此(これ)より一に投釣(とうちょう)せん

  ⊂訳⊃
          早朝には  皇居に参内し
          夕べには  翰林院で勅命を待つ
          遺された帙を解いて  古書を調べ
          旧きを探っては  政事の妙理を解する
          すこしでも   心に適うことがあれば
          巻を蔽って  快心の笑みをもらす
          青蠅は    白い玉をけがしやすく
          白雪の曲に  和するのは困難である
          私はもともと 杜撰(ずさん)な人間だから
          しばしば偏屈短気のそしりを受けた
          しかし  空は晴れて澄みわたっているので
          山林幽谷に遊んだ日を想い出す
          ときには涼しい風が吹けば
          欄干のあたりで  のどかに詩を吟ずる
          厳光が糸を垂れた桐廬の流れ
          謝霊雲が登った臨海の山のいただき
          功業が成れば  君王にいとまを戴き
          以後はいちずに釣り糸を垂れるといたそう


 ⊂ものがたり⊃ 李白は求めがあれば詩を献ずると同時に、普段は翰林院に出仕して古い書類を調べ、政事(せいじ)の妙理を学び、すこしでも心にかなうことがあれば、快心の笑みをもらします。勅命があれば出師表(すいしのひょう)や外交文書の草案を起草し、国政の一部に参画したのです。
 しかし、夏が過ぎるころになると、次第に同僚との折り合いが悪くなってきました。年を取っていましたが、李白は役所では新参者ですし、役所の仕来たりや狎れ合いの部分に通じていなかったでしょう。加えて李白は、そうした人間関係の細かい部分に気配りをするような性格の持ち主ではありませんでした。小役人には不向きな性格といえます。もちまえの自信からくる傲慢不遜な態度も目立つようになり、秋口になると李白の耳に自分に対する悪口が聞こえてくるようになります。
 唐の段成式(だんせいしき)が書いた『酉陽雑俎』(ゆうようざっそ)に、宦官で玄宗お気に入りの高力士に李白が皇帝の前で自分の履(くつ)を脱がせたという話が載っているそうですが、李白はそういう無作法なことをする人間ではないと思います。しかし、正義感が強く、思ったことを直言するので、同僚からはうとまれていたかも知れません。
 李白が役所の欄干のあたりで吟じた詩は、最後の二聯四句かも知れません。「厳光」は後漢の厳子陵(がんしりょう)のことで、光武帝の創業に功績がありましたが、光武帝が即位すると招きに応ぜず、故郷の桐廬渓(浙江省桐廬県の川)で釣りをして過ごしたといいます。「謝客」は南朝宋の謝霊雲(しゃれいうん)のことで、自然詩人として有名でした。例によって功成れば隠遁すると富貴に恬澹とした志を述べるのです。

 李白ー73
   古風 其三十九       古風 其の三十九

  登高望四海     登高(とうこう)して四海(しかい)を望めば
  天地何漫漫     天地  何ぞ漫漫(まんまん)たる
  霜被群物秋     霜は被(おお)って群物(ぐんぶつ)秋なり
  風飄大荒寒     風は飄(ひるがえ)って大荒(たいこう)寒し
  栄華東流水     栄華  東流(とうりゅう)の水
  万事皆波瀾     万事  皆(みな)波瀾(はらん)
  白日掩徂暉     白日  徂暉(そき)を掩(おお)い
  浮雲無定端     浮雲  定端(じょうたん)無し
  梧桐巣燕雀     梧桐(ごとう)に燕雀(えんじゃく)を巣(すく)わしめ
  枳棘棲鴛鸞     枳棘(ききょく)に鴛鸞(えんらん)を棲(す)ましむ
  且復帰去来     且(しばら)く復(ま)た帰去来(かえりなん)
  剣歌行路難     剣歌(けんか)す  行路難(ころなん)

  ⊂訳⊃
          高い処に登って  四方を見わたすと
          天地は如何にも  ひろびろとしている
          霜が降りて  すべては秋の色
          風が吹いて  荒野は寒々としている
          思えば  栄華は東へと流れる水
          総ては  波乱に満ちている
          白日は  やがて落日となり
          浮雲は  消え去る時の定めがない
          いまの世は  青桐に燕雀が巣をかけ
          事もあろうに 鳳凰が枳殻(からたち)に棲んでいる
          ともかくも   故郷へ帰ろう
          剣を叩いて  行路難をうたいながら


 ⊂ものがたり⊃ 宮廷に出入りするようになって一年が過ぎ、政事の現実がどのようなものであるか垣間見るようになってくると、李白は宮廷詩人としての才能しか尊重されない自分の立場に失望を感じるようになってきました。
 「登高遠望」は詩経・楚辞の昔からある伝統的な詩題で、高い処に登って遠くを眺め、世の中のことを思うのです。開元の盛世を築いた玄宗皇帝は楊太真と遊び暮らす毎日であり、政事の実権は宰相李林甫(りりんぽ)の手に移ってしまい「梧桐に燕雀を巣わしめ 枳棘に鴛鸞を棲ましむ」状態です。李白は陶淵明の「帰去来辞」を思い出し、孟嘗君(もうしょうくん)に苦言を呈した馮驩(ふうかん)のように剣の柄をたたきながら、古楽府「行路難」の歌を口ずさむのです。

 李白ー74
   送賀賓客帰越       賀賓客が越に帰るを送る

  鏡湖流水漾清波   鏡湖(きょうこ) 流水 清波(せいは)を漾(ただよ)わし
  狂客帰舟逸興多   狂客(きょうかく)の帰舟(きしゅう) 逸興(いつきょう)多し
  山陰道士如相見   山陰(さんいん)の道士 如(も)し相(あい)見れば
  応写黄庭換白鵝   応(まさ)に黄庭(こうてい)を写して白鵝(はくが)に換うべし

  ⊂訳⊃
          鏡湖・剡水(せんすい)は  清らかに波うち

          四明狂客のご帰還とあれば  面白いことも多いでしょう

          越州の道士に会ったら  ちょうどよい

          黄庭経を写して白鵝(がちょう)と換えるのです


 ⊂ものがたり⊃ 天宝二年(743)の十二月、賀知章は八十六歳の高齢でもあり、病気がちでもあったので、道士になって郷里に帰ることを願い出て許されました。翌天宝三載(この年から年を載というように改められました)の正月五日に、左右相以下の卿大夫(けいたいふ)が長楽坡で賀知章を送別し、李白も詩を贈っています。
 詩題に「賀賓客」とあるのは賀知章が太子賓客(正三品)で職を辞したからであり、「狂客」と言っているのは、賀知章が「四明狂客」(しめいきょうかく)と号していたからです。賀知章は故郷の山陰(浙江省紹興市)に帰ってゆくので、帰ったら「黄庭経」(道教の経典)を書写して鵝鳥と交換なさればよいと、李白は戯れています。賀知章には充分な資産が支給されていますので、生活に困ることはなかったはずです。

 李白ー75
   灞陵行送別           灞陵の行(うた) 送別

  送君灞陵亭       君を送る  灞陵亭(はりょうてい)
  灞水流浩浩       灞水(はすい)は流れて浩浩(こうこう)たり
  上有無花之古樹    上に無花(むか)の古樹(こじゅ)有り
  下有傷心之春草    下に傷心(しょうしん)の春草(しゅんそう)有り
  我向秦人問路岐    我  秦人(しんじん)に向かって路岐(ろき)を問う
  云是王粲南登之古道 云う是れ 王粲(おうさん)が南登(なんと)の古道なりと
  古道連綿走西京    古道は連綿(れんめん)として西京(せいけい)に走り
  紫関落日浮雲生    紫関(しかん)  落日  浮雲(ふうん)生ず
  正当今夕断腸処    正(まさ)に当たる 今夕(こんせき)断腸の処(ところ)
  驪歌愁絶不忍聴    驪歌(りか)愁絶(しゅうぜつ)して聴くに忍(しの)びず

  ⊂訳⊃
          灞陵亭に君を送れば
          灞水はひろびろと流れている
          上には  まだ花の咲かない古樹があり
          下には悲しげに  春草が芽吹いている
          そこにある分かれ道  土地の者に尋ねると
          むかし王粲が  都との別れに登った古道という
          古道は連なって長安までつづき
          宮門のあたり  夕陽は沈み  浮き雲が湧いている
          まさに今夜は  断腸の思いのとき
          別れの歌は悲しくて  聞くに堪えない


 ⊂ものがたり⊃ 正月は春の人事異動の時期で、李白は長安を離れてゆくいろいろな人を見送っています。「灞陵」は駅亭の名で、東方に去る人の場合は、灞水に架かる灞橋まで見送るのが当時の習慣でした。
 詩中の「王粲」は後漢末の詩人で、ときに西京(後漢は洛陽を都としていましたので長安を西京といいます)で争乱が起きたので、王粲は長安を去って荊州(湖北省江陵県)の劉表のもとに赴きました。灞陵まできたとき、南の高処に登って長安に別れを告げますが、そのときに登った古道がこの路であると、土地の秦人が教えてくれたのです。「驪歌」は「驪駒の歌」という古歌で、漢代にも歌われた別れの歌だそうです。