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tiandaoの自由訳漢詩

ティェンタオの自由訳漢詩 白居易50ー54

2010年09月29日 | Weblog
 白居易ー50
   贈売松者           松を売る者に贈る

  一束蒼蒼色     一束(いつそく)  蒼蒼(そうそう)の色
  知従澗底来     澗底(かんてい)従(よ)り来たるを知れど
  斸掘経幾日     斸掘(しょくくつ)して幾日をか経(へ)たる
  枝葉満塵埃     枝葉(しよう)  塵埃(じんあい)満つ
  不買非他意     買わざるは他意(たい)あるに非(あら)ず
  城中無地栽     城中  栽(う)うる地無し

  ⊂訳⊃
          ひと束の蒼々とした色
          谷底から採って来たのは知っているが
          掘り出して  まだ幾日もならないのに
          枝葉は塵と埃にまみれている
          買わないのは  ほかでもない
          長安には  植える土地がないからだ


 ⊂ものがたり⊃ 都勤めになった白居易は、新昌坊に新居を構えます。新昌坊は校書郎に任官したときに住んだ常楽坊のふたつ南の坊で、高台に属します。坊の東南隅に青龍寺があり、楽遊原につらなる辺鄙な住宅地です。
 松の苗を売る賈人に詩を贈ったのも、このころのことでしょう。この詩が五言六句の変則的な詩であるのも、即興的に作られたものであることを示しています。松の苗を買わないことを小難しく述べてありますが、谷底から掘り出した松は寒門出身であることを意味しており、松は高潔な人格者の比喩でもあります。「城中 栽うる地無し」と言っているのは、高潔な者が生きることの難しさを嘆いているのでしょう。

 白居易ー51
    胡旋女              胡旋の女
     戒近習也               近習を戒むるなり

  胡旋女  胡旋女   胡旋(こせん)の女   胡旋の女
  心応絃  手応鼓   心は絃(げん)に応じ 手は鼓(こ)に応ず
  絃鼓一声双袖挙   絃鼓(げんこ)一声(いっせい)  双袖(そうしゅう)挙がり
  廻雪飄飄転蓬舞   廻雪(かいせつ)飄飄(ひょうひょう)  転蓬(てんぽう)舞う
  左旋右転不知疲   左に旋(めぐ)り右に転じて  疲れを知らず
  千匝万周無已時   千匝(せんそう)万周(ばんしゅう)   已(や)む時無し
  人間物類無可比   人間(じんかん)の物類(ぶつるい)  比すべき無く
  奔車輪緩旋風遅   奔車(ほんしゃ)も輪(わ)緩(ゆる)やかにして  旋風も遅し
  曲終再拝謝天子   曲終わりて  再拝  天子に謝すれば
  天子為之微啓歯   天子  之(これ)が為に微(かす)かに歯を啓(ひら)く
  胡旋女  出康居   胡旋(こせん)の女  康居(こうきょ)より出(い)ず
  徒労東来万里余   徒(いたず)らに労(ろう)す  東に来たる万里余
  中原自有胡旋者   中原(ちゅうげん)  自(おのずか)ら胡旋の者有り
  闘妙争能爾不如   妙を闘(たたか)わし能(のう)を争う爾(なんじ)も如(し)かず
  天宝季年時欲変   天宝(てんぽう)の季年(きねん)  時を変ぜんと欲す
  臣妾人人学円転   臣妾人人(しんしょうじんじん)   円転(えんてん)を学ぶ
  中有太真外禄山   中(うち)には太真(たいしん)有り 外には禄山(ろくざん)
  二人最道能胡旋   二人(ににん)  最も道(い)う  能(よ)く胡旋すと
  梨花園中冊作妃   梨花(りか)園中(えんちゅう)   冊(さく)して妃と作(な)し
  金鶏障下養為児   金鶏(きんけい)障下(しょうか)  養って児と為(な)す
  禄山胡旋迷君眼   禄山(ろくざん)  胡旋して君の眼を迷わし
  兵過黄河疑未反   兵は黄河を過ぐるも  未だ反せずと疑う
  貴妃胡旋惑君心   貴妃(きひ)  胡旋して君の心を惑わし
  死棄馬嵬念更深   死して馬嵬(ばかい)に棄つるも  念(おも)うこと更に深し
  従茲地軸天維転   茲(こ)れより地軸(ちじく)天維(てんい)転じ
  五十年来制不禁   五十年来  制すれども禁(とど)まらず
  胡旋女  莫空舞   胡旋の女  空しく舞う莫(なか)れ
  数唱此歌悟明主   数(しばしば)此の歌を唱いて明主(めいしゅ)を悟らしめよ

  ⊂訳⊃
          胡旋の舞姫   西域の踊り子よ
          心は絃に応じ  手は鼓に従う
          音曲ひとたび鳴れば  両袖はひるがえり
          風に舞い散る雪  転びゆくよもぎ草
          右に左に  旋回して疲れを知らず
          千回万回  やむときがない
          この世の物で比べるものはなく
          奔る車輪も  つむじ風もかなわない
          曲が終わり  再拝して天子に額ずくと
          帝の口元に  笑みがこぼれる
          胡旋の舞姫は康居(ソグド)の国を出て
          万里の路を東へ来たが  無駄足であった
          中国にはもとより胡旋の名手がいて
          妙技を競っても 勝ち目はない
          天宝の末年   時勢が変わろうとするとき
          男女の近習が  円転の舞を学んだ
          宮中では太真  外では安禄山
          この二人こそ  胡旋の舞の名手である
          梨花の御苑で  太真は貴妃となり
          金鶏の衝立の陰で  安禄山は養子となる
          安禄山は胡旋を舞って  天子の目を惑わし
          兵が黄河を渡っても   帝は叛乱を信じない
          楊貴妃は胡旋を舞って  天子の心を惑わし
          馬嵬で死を与えても   未練はつきない
          それ以来  地はめぐり  天は移るが
          五十年来  胡旋の舞を禁止できない
          胡旋の舞姫よ  空しく舞うのはやめ
          しばしばこの歌を唱って  名君の目をひらかせよ


 ⊂ものがたり⊃ 元和三年八月ごろ、白居易は友人楊汝士の妹と結婚します。翌元和四年(809)に長女が生まれ、翰林院にちなんで金鑾(きんらん)と名づけました。この年の二月には元稹も母親の喪が明け、御史台の監察御史(正八品上)に任ぜられました。
 元和四年の三月、成徳節度使の王真士(おうしんし)が亡くなり、その子の王承宗(おうしょうそう)が留後(りゅうご)と称して節度使になろうとしました。節度使は本来、政府が任命するもので世襲ではありません。このころ河北諸鎮の世襲化は半ば公然の慣行になっていましたので、憲宗はこの機会に藩鎮世襲の弊害を除こうと考えました。
 成徳節度使の冶所は恒州(河北省正定県)にあり、いわゆる河朔三鎮のひとつです。政府部内には河朔三鎮に手をつけるのは時期尚早との論があり、白居易も討伐には反対でした。しかし、宦官で左神策軍中尉の吐突承璀(ととつしょうさい)が名乗り出て、みずから討伐に向かいたい願い出ましたので、討伐が開始されました。
 しかし、吐突承璀の軍はしばしば成徳軍に破れ、討伐の成果はあがりません。そのうちに十一月二十七日になって淮西節度使の呉少誠(ごしょうせい)が死に、呉少陽(ごしょうよう)が呉少誠の子の呉元慶(ごげんけい)を殺して留後を自称しました。淮西節度使の冶所は蔡州(河南省汝南県)にあって、河朔三鎮からは離れています。そのため政府部内では蔡州を討つべきであるという意見が強かったのですが、河北に兵を出しているために兵の余裕がなく、呉少陽の淮西節度使は認めざるを得ませんでした。
 白居易はこの時期、翰林学士・左拾遺の職にありますが、職務のかたわら「新楽府五十篇」の制作にいどみます。「胡旋女」はそのなかの一首です。
 楽府(がふ)は漢代からあったものですが、唐代になって楽府の題と曲調を借りて新しい民謡風の詩を作ることが始まります。白居易は楽府の社会詩的な部分を発展させ、題も内容にふさわしい新しいものに変えて「新楽府」と称しました。詩の内容も政事や社会の矛盾を指摘する内容に意識的に変えて、唐詩の革新をはかります。
 白居易の「新楽府」には序がついていますが、詩の原点は『詩経』にあり、詩経の詩はもともと民間の声を天子に伝えるために采詩官(さいしかん)によって諸国から集められたものであり、単なる個人的な詠嘆や風景の美を詠う詩は、詩本来の任務を忘れたものであると主張しています。
 「新楽府」の各詩には、さらにそれぞれの詩の目的を示す小序がついており、「胡旋女」の小序は近習(天子が身辺に近づけている寵臣)に人を選ばなければ、再び安禄山の乱のような大乱を生ずると警告するものです。
 「長恨歌」においては、あくまで男女の愛の永遠性を伝奇風の筋立てで物語り、楊貴妃の悲劇の原因となった安禄山の叛乱については触れるところがありませんでした。白居易は無論、そのことを意識してたわけで、「胡旋女」においては、その欠を補うように、胡旋のような芸能にうつつを抜かして天子の寵を争うような政事であってはならない。「数(しばしば)此の歌を唱いて明主を悟らしめよ」と忠告しています。

 白居易ー54
    新豊折臂翁          新豊の臂を折りし翁
      戒辺功也             辺功を戒むるなり

  新豊老翁八十八   新豊(しんぽう)の老翁(ろうおう)八十八
  頭鬢眉鬚皆似雪   頭鬢(とうびん)眉鬚(びしゅ)  皆(みな)雪に似たり
  玄孫扶向店前行   玄孫(げんそん)に扶けられて店前(てんぜん)に向かいて行く
  左臂憑肩右臂折   左臂(さひ)は肩に憑(よ)り  右臂(うひ)は折る
  問翁臂折来幾年   翁に問う  臂(うで)折れてより幾年(いくとせ)ぞと
  兼問致折何因縁   兼ねて問う 折るを致せしは何の因縁(いんねん)ぞと
  翁云貫属新豊県   翁は云う  貫(かん)は新豊県に属(ぞく)し
  生逢聖代無征戦   生まれて聖代に逢(あ)い  征戦無し
  慣聴梨園歌管声   梨園(りえん)歌管(かかん)の声を聴くに慣(な)れ
  不識旗槍与弓箭   識(し)らず  旗槍(きそう)と弓箭(きゅうせん)とを
  無何天宝大徴兵   何(いくばく)も無く天宝(てんぽう)  大いに兵を徴(ちょう)し
  戸有三丁点一丁   戸(こ)に三丁(さんてい)有れば一丁を点(てん)ず
  点得駆将何処去   点じ得て駆(か)り  将(も)って何処(いずく)にか去る
  五月万里雲南行   五月  万里  雲南(うんなん)に行く
  聞道雲南有瀘水   聞道(きくなら)く  雲南に瀘水(ろすい)有り
  椒花落時瘴煙起   椒花(しょうか)落つる時  瘴煙(しょうえん)起こり
  大軍徒渉水如湯   大軍徒渉(としょう)するに水は湯の如く
  未過十人二三死   未(いま)だ過ぎざるに十人に二三(にさん)は死すと
  村南村北哭声哀   村南(そんなん)村北(そんほく)  哭声(こくせい)哀し
  児別爺嬢夫別妻   児(じ)は爺嬢(やじょう)に別れ  夫は妻に別る
  皆云前後征蛮者   皆云う  前後  蛮(ばん)を征する者
  千万人行無一廻   千万人行きて一の廻(かえ)る無しと
  是時翁年二十四   是(こ)の時  翁の年(とし)二十四
  兵部牒中有名字   兵部(へいぶ)の牒中(ちょうちゅう)に名字(めいじ)有り
  夜深不敢使人知   夜深(よふ)けて敢えて人をして知らしめず
  偸将大石槌折臂   偸(ひそ)かに大石を将(も)って槌(つい)して臂(うで)を折る
  張弓簸旗倶不堪   弓を張り旗を簸(あ)ぐること倶(とも)に堪えず
  従茲始免征雲南   茲(こ)れより始めて雲南に征くを免(まぬが)る
  骨砕筋傷非不苦   骨砕け筋(すじ)傷(やぶ)るは苦しからざるに非(あら)ず
  且図揀退帰郷土   且つ図(はか)る  揀(えら)び退けられて郷土に帰らんことを
  臂折来来六十年   臂(うで)折りてより来来(このかた)六十年
  一肢雖廃一身全   一肢(いっし)廃すと雖も一身全(まった)し
  至今風雨陰寒夜   今に至るまで風雨(ふうう)陰寒(いんかん)の夜
  直到天明痛不眠   直(ただ)ちに天明(てんめい)に到るまで痛みて眠られず
  痛不眠         痛みて眠られざるも
  終不悔         終(つい)に悔(く)いず
  且喜老身今独在   且つ喜ぶ  老身(ろうしん)今独り在るを
  不然当時瀘水頭   然らずんば  当時  瀘水(ろすい)の頭(ほとり)
  身死魂孤骨不収   身死し魂(たましい)孤(こ)にして骨(ほね)収められず
  応作雲南望郷鬼   応(まさ)に雲南望郷の鬼(き)と作(な)りて
  万人冢上哭呦呦   万人冢上(ちょうじょう)に哭(こく)して呦呦(ゆうゆう)たるべし
  老人言         老人の言(げん)
  君聴取         君  聴取(ちょうしゅ)せよ
  君不聞         君  聞かずや
  開元宰相宋開府   開元の宰相宋開府(そうかいふ)
  不賞辺功防黷武   辺功を賞せず武を黷(けが)すを防(しの)ぎしを
  又不聞         又た聞かずや
  天宝宰相楊国忠   天宝の宰相楊国忠(ようこくちゅう)
  欲求恩幸立辺功   恩幸(おんこう)を求めて辺功を立てんと欲す
  辺功未立生人怨   辺功未(いま)だ立たざるに人の怨(うら)みを生ず
  請問新豊折臂翁   請う問え  新豊折臂(せつび)の翁に

  ⊂訳⊃
          新豊の街の老人  年は八十八歳
          髪や眉  あごひげも雪のように白い
          孫の孫に支えられて  店の前を行く
          左の腕で肩にすがり  右腕は折れている
          翁に尋ねる  「腕を折ってから  何年になるのですか」
          「どういうわけで  折ってしまったのですか」と
          翁は答える  「私は新豊県に属する者
          聖代に生まれ合わせて  戦もありませんでした
          梨園の歌や音楽に聞きなれて
          旗や槍  弓矢のことなど知りません
          ところが程なく天宝の代   大徴兵がはじまって
          家に三人の壮丁がいれば  一人は兵籍に取られ
          何処に駆り出されて行くかといえば
          夏五月  万里の彼方  雲南に行くというのです
          聞けば雲南には  瀘水があって
          山椒の花が散るころには  瘴気が立ち昇り
          大軍が徒歩で渡ると  水はお湯のように熱く
          渡り切らないうちに   十人に二三人は死ぬそうです
          村中は  哀しみの泣き声であふれ
          息子は父母に別れ  夫は妻と別れる
          蛮族征伐に行った者は  あとにもさきにも
          万に一人も無事に帰った者はいないと皆が言う
          ときに私は二十四歳
          兵部の名簿に名前が載っておりました
          夜が更けて  誰にも知られないように
          大きな石で  腕をたたき折りました
          弓を引くことも 旗を振ることもできなくなり
          それでやっと 雲南行きをまぬがれたのです
          骨は砕け 筋肉は破れて 苦しくないはずはありませんが
          どうにか名簿から外され  故郷に帰れるようにしたのです
          腕を折ってから  六十年になりますが
          手は一本だめになっても  命だけは助かりました
          風雨の夜  底冷えのする日には
          いまでも痛んで  夜明けまで眠られません
          痛くて眠られなくても
          後悔はしていない
          老人になるまで  ひとり生きているのを喜んでいます
          そうでなければあの時 瀘水のほとりで死に
          魂は孤独にさまよって  骨は拾ってもらえず
          雲南の地で  望郷の鬼となり
          万人塚のほとりで悲しく泣いていることでしょう」
          老人のこの言葉
          しっかり耳にとどめてほしい
          皆さんもお聞きのように
          開元の宰相宋開府は
          辺功に賞を与えず  無用の戦をしなかった
          またお聞きのように
          天宝の宰相楊国忠は
          天子の恩寵を求めて  辺境での軍功を企てた
          ところが功績もないうちに  人の怨みが生まれる
          どうか尋ねてほしいのだ   新豊の腕を折った翁に


 ⊂ものがたり⊃ この詩の小序は「辺功を戒むるなり」とあります。「辺功」とは国境付近での戦功のことで、外征の功を争う無益な戦が平和に生きている民衆にはかり知れない苦しみを与えることを告発しています。
 はじめの十句は導入部で、新豊(陝西省臨潼県の東北)の街で八十八歳になるという翁を見かけます。右臂の折れた翁が「玄孫」(曾孫の子)に助けられて歩いているので、白居易は臂が折れたのはどういうわけかと尋ねます。あとは翁の答えで、自分は新豊に籍のある者ですが、弓矢のことも知りませんでしたと平和に生きてきたことを述べます。
 なお、新豊は漢の劉邦が楚の豊県の出身だったので、漢を建国したときに新しく建てた街で、故郷の街とそっくりに作られました。豊県から連れてきた犬も、道を間違えずに自分の家を探し当てたという話が伝わっているくらいです。漢初のころ一時都だった時期もありますが、都が長安に定まってからは劉邦の父親の居城になりました。
 ところが天宝の御代になって大徴兵がはじまり、何処に出兵するかというと雲南(雲南省方面)に行くというのです。雲南には毒気を含んだ川があり、渡り切らないうちに十人に二三人は死ぬという噂がひろがって、村中は哀しみの声にあふれたと、翁は当時を振り返ります。
 新豊の翁がみずから腕を折ったのは二十四歳のときと言っていますので、元和四年(809)に八十八歳の老人が二十四歳であったのは天宝四載(745)ということになります。この年は楊太真が貴妃(皇后の次の位)になった年で、このころから玄宗の辺境攻略の徴兵が始まっていることは史書でも確かめられます。自分の名前が兵籍(唐は当時徴兵制度でした)に載っており、徴兵が言ってきたので、二十四歳の若者は誰にも知られないように大きな石で自分の腕を折ったというのです。
 翁の話はつづきます。腕を折ってから六十年になりますが、手は一本だめになっても、命だけは助かりました。いまでも痛んで眠られないときもありますが、後悔はしていません。そうでなけれは雲南の戦にかり出されて、いまごろは望郷の鬼となって万人塚のほとりで泣いていることでしょうと結びます。
 最後の十句は結びです。詩中の「宋開府」は玄宗の開元初期の名宰相宋環(そうかん)のことで、開府儀同三司という職にいましたので、宋開府と呼ばれます。宋開府は玄宗を補佐して辺功を賞しませんでしたが、天宝末期の宰相楊国忠は南詔討伐の兵を起こして辺功を立てようとしました。しかし、失敗して多くの犠牲者を出したのです。
 楊国忠が宰相になったのは天宝十一載(752)のときですので、新豊の翁は三十一歳になっていたことになります。10月4日の詩に出てきた「五月 万里 雲南に行く」というのは象徴的な表現かもしれませんが、白居易は天子の機嫌を取るために臣下の起こす戦争が、いかに民衆を苦しめるものであるかを具体的に描いて、「辺功」を戒めたのです。