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tiandaoの自由訳漢詩

ティェンタオの自由訳漢詩 李白193ー199

2009年09月28日 | Weblog
 李白193
   自漢陽病酒帰        漢陽より酒に病んで帰り
   寄王明府           王明府に寄す

  去歳左遷夜郎道   去歳(きょさい)左遷す  夜郎(やろう)の道
  琉璃硯水長枯槁   琉璃(るり)の硯水(けんすい)  長く枯槁(ここう)す
  今年敕放巫山陽   今年(こんねん)敕放(ちょくほう)す  巫山の陽(よう)
  蛟龍筆翰生輝光   蛟龍(こうりゅう)の筆翰  輝光(きこう)を生ず
  聖主還聴子虚賦   聖主還(ま)た聴く  子虚(しきょ)の賦(ふ)
  相如却欲論文章   相如(そうじょ)却(ま)た欲す  文章を論ずるを
  願掃鸚鵡洲      願わくは鸚鵡洲(おうむしゅう)を掃(はら)い
  与君酔百場      君と与(とも)に百場(ひゃくじょう)を酔わん
  嘯起白雲飛七沢   白雲を嘯起(しょうき)して七沢(しちたく)に飛ばし
  歌吟緑水動三湘   緑水(りょくすい)に歌吟して三湘(さんしょう)を動かさん
  莫惜連船沽美酒   惜(おし)む莫(なか)れ   船を連ねて美酒を沽(か)い
  千金一擲買春芳   千金一擲(いってき)して 春芳(しゅんほう)を買うことを

  ⊂訳⊃
          去年は  夜郎の道に流されて
          琉璃の硯も干からびてしまった
          今年は  大赦で巫山の麓からもどされ
          蛟龍の筆も輝きを生ずる
          天子はまた子虚の賦を聴こうとなさる
          司馬相如としては文章を論じたいと思う
          できたら  鸚鵡洲を掃除して
          君といっしょに百遍も酔い痴れたい
          白雲を呼び起こして  七沢に飛ばし
          水上に吟じて  三湘の水を揺すりたいものだ
          君よ  惜しみなさるな  船をつらねて美酒を買い
          千金を投げ出して  春の花を手にすることを


 ⊂ものがたり⊃ 李白は江陵に着きましたが、そこには永くとどまらず、初夏のころには江夏(こうか)にくだって、秋の半ばまで鄂州付近で過ごします。
 そのころ河南では、安史の乱が再び重大な局面を迎えていました。洛陽を敗退した安慶緒(安禄山の息子)は東方に退き、相州(河南省安陽市)に拠点をかまえ、周辺の七郡を支配する勢いになっていました。そこで唐朝は九節度使の軍を派遣して相州の城を包囲しますが、城を落とせないまま乾元二年(759)の春を迎えていました。ところが二月の末になって、唐に帰服して帰義王范陽節度使になって幽州に屯していた史思明(安禄山の親友)が再び叛し、安慶緒を援けると称して南下してきました。
 相州の野に相対した唐と史思明の両軍がまさに戦端を開こうとした三月三日、突如として猛烈な風が吹き起こり、両軍は陣を乱して避難します。そこを史思明は機敏に立ちまわって相州の城に入り、安慶緒を殺して自分が大燕国の帝位につきます。唐軍は相州から退き、河陽(河南省孟県)に陣地をかまえて洛陽の守りを固めますが、四月には洛陽は史思明軍の手に落ち、唐軍は陝州(河南省三門峡市)から潼関へかけての線で首都の防衛を固めます。
 李白が江夏に着いたのは、そうした国家の危機のときで、李白はもういちど国のために尽くしたいと推薦の伝手を求めて多くの詩を送りますが、めぼしい成果は得られませんでした。そのあたりの事情を語るのが詩の「聖主還た聴く 子虚の賦 相如却た欲す 文章を論ずるを」の部分で、李白は自分を司馬相如に擬し、漢陽の王県令らと大いに飲んで国家の現状を憂えたようです。
 詩題によると、李白は漢陽の王明府(県令)のところで酒を飲み過ぎて悪酔いし、江夏にもどってから詩を送ったようですが、悪酔いを謝るどころか、詩の後半六句でも意気軒高なものです。
 「鸚鵡洲」というのは江夏のすこし上流にあった長江の中洲で、島のように大きな中洲であったらしく、当時は中洲の広場で宴会なども行われています。その鸚鵡洲を払いのけて、百遍も酔おうと李白は気炎を挙げています。結句の「千金一擲して 春芳を買うことを」というのは、自分のような能力のある者を大切に扱ってもらいたいという比喩で、任官を求めるものです。

 李白ー195
   陪族叔刑部侍郎曄及中書  族叔刑部侍郎曄 及び中書賈舎
   賈舎人至遊洞庭 五首     人至に陪して洞庭に遊ぶ 五首
   其一               其の一

  洞庭西望楚江分   洞庭(どうてい)  西に望めば  楚江(そこう)分かる
  水尽南天不見雲   水尽きて  南天(なんてん)に雲を見ず
  日落長沙秋色遠   日は落ちて  長沙(ちょうさ)  秋色(しゅうしょく)遠し
  不知何処弔湘君   知らず  何(いず)れの処にか湘君(しょうくん)を弔わん

  ⊂訳⊃
          洞庭湖を西に望めば  分流する楚江の流れ

          南の空    湖水の果てに雲ひとつなし

          日は落ちて  長沙のかなたまで秋色みなぎり

          はて湘君は  どこに弔ったらよかろうか


 ⊂ものがたり⊃ 洛陽を占領した史思明軍は、それ以上、西へ進む力がありませんでしたので、河南の戦線は膠着状態に陥っていました。李白は本来ならば、江夏から長江を下って豫章にいる妻の宗氏のもとにもどるべきところですが、秋の半ばになると逆に長江を遡り、遠く湖南の南岳衡山を訪れる計画を立てます。
 なぜこの時期に、方角違いの南岳なのか、理由ははっきりしませんが、おそらく招待する人がいたからでしょう。赦免になったので旅費は自弁になっているはずで、李白はかせぐ必要がありました。
 江夏を離れた李白は衡山に行く途中、洞庭湖の入口にある岳州(湖北省岳陽市)を通ることになりますが、そこで旧知の李曄(りよう)と賈至(かし)に遇います。李曄は宗室の一員で尚書省刑部侍郎(正四品下)の要職にいましたが、事件に巻き込まれて四月に嶺南の一県尉に左遷され、左遷地に赴く途中、岳州まで来て滞在しているところでした。賈至は玄宗の使者となって粛宗のもとに行き、そのまま粛宗に従って中書舎人(従六品上)知制誥(ちせいこう)になっていましたが、些細な事件に連座して汝州(河南省臨汝県)に左遷され、この三月過ぎに、さらに岳州の司馬に再貶(さいへん)されて岳州に来ていたのです。
 連作五首は、李白が李曄と賈至の供をして洞庭湖で船遊びをしたときの詩ですが、其の一が夕方、其の二と其の三が夜半、其の四は夜半過ぎ、其の五は夜明けの詩になっており、夜通しの遊宴を詠って意図的に構成したものであることが分かります。其の一の詩で「日は落ちて 長沙 秋色遠し」と言っているのは、李曄も賈至も左遷の身ですので、長沙に流された漢の賈誼(かぎ)の身の上を示唆して二人を慰めているのでしょう。

 李白ー196
   陪族叔刑部侍郎曄及中書  族叔刑部侍郎曄 及び中書賈舎
   賈舎人至遊洞庭 五首     人至に陪して洞庭に遊ぶ 五首
   其二               其の二

  南湖秋水夜無煙   南湖  秋水(しゅうすい)  夜煙(やえん)無し
  耐可乗流直上天   耐(なん)ぞ  流れに乗じて直ちに天に上る可けんや
  且就洞庭賖月色   且(しばら)く洞庭に就いて  月色を賖(か)り
  将船買酒白雲辺   船を将(も)って酒を買わん  白雲の辺(ほとり)

  ⊂訳⊃
          南湖の秋は  夜になっても澄んでいる

          流れに乗って天に昇りたいが  できないことだ

          まずは洞庭湖で  月の光の助けを借り

          船に乗って酒を買いに行こう  あの白雲のあたりまで


 ⊂ものがたり⊃ 「南湖」(なんこ)と呼ばれる湖は当時の中国のほうぼうにあったようですが、ここでは洞庭湖(どうていこ)の南の部分を指すと思われます。李白は仙人となって昇天することを、思うようにならない現実を批判するときの比喩として用いることが多いのですが、それが不可能なことも知っています。だから、酒でも買ってきて飲み、酔いましょうというのです。しかし、その酒は白雲の彼方にあります。ということは、朝廷が遥かに遠いことを比喩しているのです。

 李白ー197
   陪族叔刑部侍郎曄及中書  族叔刑部侍郎曄 及び中書賈舎
   賈舎人至遊洞庭 五首     人至に陪して洞庭に遊ぶ 五首
   其三               其の三

  洛陽才子謫湘川   洛陽の才子  湘川(しょうせん)に謫(たく)せらる
  元礼同舟月下仙   元礼(げんれい)  舟を同じくす月下(げっか)の仙
  記得長安還欲笑   長安を記し得て  還(ま)た笑わんと欲するも
  不知何処是西天   知らず  何(いず)れの処にか是(こ)れ西天(せいてん)

  ⊂訳⊃
          洛陽の才子は  湘水の地に流され

          李元礼と舟に乗り   月下の仙人のようだ

          長安の日々を思って 笑おうとするが

          はて  どちらが都   西の空だろうか


 ⊂ものがたり⊃ 「洛陽の才子」は漢の賈誼のことですが、賈至も同姓で、同じ洛陽の生まれ、同じように瀟湘の地に流されています。賈至のことをさしていると考えていいでしょう。「元礼」は後漢の名士で河南尹(河南府の長官)であった李膺(りよう、字は元礼)のことです。李膺は友人の郭太(かくた)と親しかったのですが、二人が舟に乗って黄河を渡ると、神仙が同乗しているようであったという説話がありました。李白はその話を引用して、李曄と賈至が同じ舟に乗っていることを「月下の仙人」のようだと褒めたのです。
 転結の二句は、長安の日々を思い出して談笑しようとするのですが、笑いが凍りついて笑い顔になりません。李白はそれを「知らず 何れの処にか是れ西天」ととぼけながら誤魔化しているのです。「西天」が都の方角、つまり都長安のことであるのは言うまでもありません。

 李白ー198
   陪族叔刑部侍郎曄及中書  族叔刑部侍郎曄 及び中書賈舎
   賈舎人至遊洞庭 五首     人至に陪して洞庭に遊ぶ 五首
   其四               其の四

  洞庭湖西秋月輝   洞庭の湖西(こせい)  秋月(しゅうげつ)輝き
  瀟湘江北早鴻飛   瀟湘(しょうしょう)の江北  早鴻(そうこう)飛ぶ
  酔客満船歌白紵   酔客船に満ちて  白紵(はくちょ)を歌う
  不知霜露入秋衣   知らず  霜露(そうろ)の秋衣(しゅうい)に入るを

  ⊂訳⊃
          洞庭湖の西に  秋の月が輝き

          瀟湘の北には  はやくも雁が飛んでいる

          酔客は船に満ちて  白紵の辞(うた)を歌う

          露霜が  衣に浸みるのも気づかずに


 ⊂ものがたり⊃ 「瀟湘」(しょうしょう)は瀟水と湘水のことですが、瀟水は湘水の上流で湘水に合流する支流ですので、この二水が合わさって流れる湖南の地を瀟湘の地といいます。その川の北を季節に早い鴻(大きい雁)が飛んでいます。湖上には、ほかにも月見の船が出ていて、酔客が「白紵」(はくちょ)を歌っているのが聞こえます。「白紵」は楽府の「白紵辞」という舞い歌で、本来は呉の歌です。
 夜も更けて霜や夜露が衣服を濡らしますが、人々はそれも気にしないで酔い、かつ歌っていると、李白は宴遊の舟遊びのうちに、そこはかとない哀愁をただよわせます。

 李白ー199
   陪族叔刑部侍郎曄及中書  族叔刑部侍郎曄 及び中書賈舎
   賈舎人至遊洞庭 五首     人至に陪して洞庭に遊ぶ 五首
   其五               其の五

  帝子瀟湘去不還   帝子(ていし)  瀟湘  去りて還(かえ)らず
  空余秋草洞庭間   空しく秋草(しゅうそう)を余す  洞庭の間(かん)
  淡掃明湖開玉鏡   淡く明湖(めいこ)を掃(はら)って  玉鏡を開けば
  丹青画出是君山   丹青(たんせい)もて画き出すは  是れ君山(くんざん)

  ⊂訳⊃
          堯帝の娘は  瀟湘に身を投げて帰らず

          洞庭湖のほとりには  秋草だけが生えている

          明るい湖面をひと拭きして  玉の鏡を開くと

          絵具で描いたように現れる  それが君山だ


 ⊂ものがたり⊃ 「帝子」というのは堯帝(ぎょうてい)の娘の娥皇(がこう)と女英(じょえい)のことで、夫帝舜の死を知って悲しみ、湘水に身を投じて死にます。李白は「空しく秋草を余す 洞庭の間」と人生の空しさを詠います。転結の二句は洞庭湖に朝の光が射し込む瞬間の描写です。「君山」は当時は湖岸に近い湖中にあった島で、「君山」の名は湘君(娥皇)の君にちなむと言われています。
 朝日がさすと、君山が鏡のような湖面に描いたように浮かびあがってくる。五首連作の最後を美しい夜明けの風景でまとめた李白の技はみごとです。この七言絶句の連作は李白晩年の名作とされていますが、同船者二人の境遇や故事を理解していないと、詩の隠された意味がわからず、詩のよさを味わいつくすことはできません。