李白ー124
独坐敬亭山 独り敬亭山に坐す
衆鳥高飛尽 衆鳥(しゅうちょう) 高く飛んで尽(つ)き
孤雲独去 孤雲(こうん) 独り去って閑(かん)なり
相看両不厭 相(あい)看て両(ふた)つながら厭(あ)かざるは
只有敬亭山 只(た)だ敬亭山(けいていざん)有るのみ
⊂訳⊃
鳥たちは 高く飛び去って消え
浮き雲は いつか流れて閑(しず)かである
いつまでも みつめていて飽きないのは
敬亭山よ もはやお前があるだけだ
⊂ものがたり⊃ この詩は李白の有名な五言絶句ですので、大抵の人はご存じと思います。敬亭山は宣城の北5kmほどのところにあって、高さ300mほどの小山だそうです。謝朓も宣城の太守だったころ、しばしば訪れたことのある景勝地でした。この詩は普通、李白が敬亭山の麓に住んでいて、山を厭かず眺めていたと解されていますが、ときどき訪ねていって一日中眺めていたとするほうがいいようです。宣城では李白は隠棲の気持ちを詩に詠ってはいますが、隠棲はしていません。城内で多くの宴会に呼ばれ、詩を作っています。
詩の起承の二句は、李白が坐しているあたりのようすを描いて簡潔かつ秀逸です。李白の心、閑雅な心の在りようまでが目に浮かぶように描かれています。ところで李白が見ている敬亭山は自然の単なる景勝地ではなく、六朝以来、累積した美意識、詩の文化の優れた部分が蓄積された山です。李白は「相看て両つながら厭かざるは」といっていますが、「両つ」とは何でしょう。山とそれを見ている自分でしょうか。この解釈は通説ですが、この「両つ」は結びの句から山にかかわるものを言っていると考えられます。自然の美と敬亭山に込められた詩、詩文化の蓄積への思いと言ってもいいでしょう。一歩さがって山の自然美と謝朓の詩と言ってもいいと思います。
李白ー125
山中問答 山中問答
問余何意棲碧山 余(よ)に問う 何の意ありてか碧山(へきざん)に棲むと
笑而不答心自閑 笑って答えず 心自(おのずか)ら閑(かん)なり
桃花流水杳然去 桃花(とうか)流水 杳然(ようぜん)として去る
別有天地間 別に天地の人間(じんかん)に非(あら)ざる有り
⊂訳⊃
どんな心算で 奥山に住んでいるかと問われても
笑って答えず 心はどこまでものどかである
桃の花びらは 水に浮かんで流れ去り
ここにこそ 俗世を離れた別の境地がある
⊂ものがたり⊃ この詩には「山中答俗人」(山中にて俗人に答う)と題する伝本もありますので、李白が問答した相手は「俗人」ということになります。李白のような有名詩人が宣城のような田舎町に住んでいるのを不思議に思った人が、どうしてこんな辺鄙なところに住んでいるのかと尋ねたのでしょう。
詩には「笑って答えず」とありますので、転結の二句は李白が心に思ったことを詩句にしたことになります。「人間」は人の世、俗世のことですので、李白はそれを否定して「桃花流水」に目を向けます。ここにこそ俗世を離れた別の境地があるというのです。俗人には答えませんでしたが、心ある人には詩作品として自分の心境を述べたのです。俗人には分からないだろうが、という意味も暗に含まれているでしょう。この詩には誰かの問いに答えたのではなく自問自答の詩であるという解釈もありますが、そうするとなお俗人には分からないだろうという意味が創作されていることになります。
李白ー127
観胡人吹笛 胡人の笛を吹くを観る
胡人吹玉笛 胡人(こじん) 玉笛(ぎょくてき)を吹く
一半是秦声 一半は是(こ)れ秦声(しんせい)
十月呉山暁 十月 呉山(ござん)の暁(あかつき)
梅花落敬亭 梅花 敬亭(けいてい)に落つ
愁聞出塞曲 愁えて出塞(しゅっさい)の曲を聞けば
涙満逐臣纓 涙は逐臣(ちくしん)の纓(えい)に満つ
却望長安道 却(かえ)って長安の道を望み
空懐恋主情 空しく主(しゅ)を恋うるの情を懐(いだ)く
⊂訳⊃
胡人が笛を吹いている
半ばは秦の曲だ
初冬の十月 呉山の夜明け
梅花落の曲を聞けば 春の敬亭山を想い出す
出塞の曲を聞けば 悲しみは胸に満ち
涙は逐臣の纓を濡らす
かくて私は 都長安へ通ずる道を眺め
むなしく天子を恋い慕うのである
⊂ものがたり⊃ 李白は揚州で、李白を慕って訪ねてきた魏万(後にと改名)という若い詩人と会います。魏万は黄河の北にある王屋山(河南省済源県の西)の出身で、李白の後を追って旅をつづけ、揚州でやっと追いついたのです。魏万の懐には相当の金があったらしく、李白はこの若者をつれて揚州の知識人と交流し、揚州からさらに金陵まで同行します。
詩には「十月 呉山の暁」とありますので、十月ごろまで金陵(李白は金陵を呉山と呼ぶことがあります)に滞在したときの作品でしょう。この詩によって、李白がまだ官途への望みを絶ち切れないでいることがわかります。魏万のような若い詩人が慕ってくると、一層旅に明け暮れる無冠の詩人で終わりたくないという気持ちが湧いてくるのでしょう。「逐臣」というのは一度天子に仕えたが都を追われた臣という意味で、追われた理由は天子のまわりにいる者の讒言によるという説明がついていたはずです。梅花落と出塞の曲、李白の心は詩と官、敬亭山と長安に分裂しているのです。
李白は魏万に自分の経歴などいろいろなことを語り、李白詩集の編纂を依頼して金陵でわかれます。それから冬のはじめには宣城にもどったようです。
独坐敬亭山 独り敬亭山に坐す
衆鳥高飛尽 衆鳥(しゅうちょう) 高く飛んで尽(つ)き
孤雲独去 孤雲(こうん) 独り去って閑(かん)なり
相看両不厭 相(あい)看て両(ふた)つながら厭(あ)かざるは
只有敬亭山 只(た)だ敬亭山(けいていざん)有るのみ
⊂訳⊃
鳥たちは 高く飛び去って消え
浮き雲は いつか流れて閑(しず)かである
いつまでも みつめていて飽きないのは
敬亭山よ もはやお前があるだけだ
⊂ものがたり⊃ この詩は李白の有名な五言絶句ですので、大抵の人はご存じと思います。敬亭山は宣城の北5kmほどのところにあって、高さ300mほどの小山だそうです。謝朓も宣城の太守だったころ、しばしば訪れたことのある景勝地でした。この詩は普通、李白が敬亭山の麓に住んでいて、山を厭かず眺めていたと解されていますが、ときどき訪ねていって一日中眺めていたとするほうがいいようです。宣城では李白は隠棲の気持ちを詩に詠ってはいますが、隠棲はしていません。城内で多くの宴会に呼ばれ、詩を作っています。
詩の起承の二句は、李白が坐しているあたりのようすを描いて簡潔かつ秀逸です。李白の心、閑雅な心の在りようまでが目に浮かぶように描かれています。ところで李白が見ている敬亭山は自然の単なる景勝地ではなく、六朝以来、累積した美意識、詩の文化の優れた部分が蓄積された山です。李白は「相看て両つながら厭かざるは」といっていますが、「両つ」とは何でしょう。山とそれを見ている自分でしょうか。この解釈は通説ですが、この「両つ」は結びの句から山にかかわるものを言っていると考えられます。自然の美と敬亭山に込められた詩、詩文化の蓄積への思いと言ってもいいでしょう。一歩さがって山の自然美と謝朓の詩と言ってもいいと思います。
李白ー125
山中問答 山中問答
問余何意棲碧山 余(よ)に問う 何の意ありてか碧山(へきざん)に棲むと
笑而不答心自閑 笑って答えず 心自(おのずか)ら閑(かん)なり
桃花流水杳然去 桃花(とうか)流水 杳然(ようぜん)として去る
別有天地間 別に天地の人間(じんかん)に非(あら)ざる有り
⊂訳⊃
どんな心算で 奥山に住んでいるかと問われても
笑って答えず 心はどこまでものどかである
桃の花びらは 水に浮かんで流れ去り
ここにこそ 俗世を離れた別の境地がある
⊂ものがたり⊃ この詩には「山中答俗人」(山中にて俗人に答う)と題する伝本もありますので、李白が問答した相手は「俗人」ということになります。李白のような有名詩人が宣城のような田舎町に住んでいるのを不思議に思った人が、どうしてこんな辺鄙なところに住んでいるのかと尋ねたのでしょう。
詩には「笑って答えず」とありますので、転結の二句は李白が心に思ったことを詩句にしたことになります。「人間」は人の世、俗世のことですので、李白はそれを否定して「桃花流水」に目を向けます。ここにこそ俗世を離れた別の境地があるというのです。俗人には答えませんでしたが、心ある人には詩作品として自分の心境を述べたのです。俗人には分からないだろうが、という意味も暗に含まれているでしょう。この詩には誰かの問いに答えたのではなく自問自答の詩であるという解釈もありますが、そうするとなお俗人には分からないだろうという意味が創作されていることになります。
李白ー127
観胡人吹笛 胡人の笛を吹くを観る
胡人吹玉笛 胡人(こじん) 玉笛(ぎょくてき)を吹く
一半是秦声 一半は是(こ)れ秦声(しんせい)
十月呉山暁 十月 呉山(ござん)の暁(あかつき)
梅花落敬亭 梅花 敬亭(けいてい)に落つ
愁聞出塞曲 愁えて出塞(しゅっさい)の曲を聞けば
涙満逐臣纓 涙は逐臣(ちくしん)の纓(えい)に満つ
却望長安道 却(かえ)って長安の道を望み
空懐恋主情 空しく主(しゅ)を恋うるの情を懐(いだ)く
⊂訳⊃
胡人が笛を吹いている
半ばは秦の曲だ
初冬の十月 呉山の夜明け
梅花落の曲を聞けば 春の敬亭山を想い出す
出塞の曲を聞けば 悲しみは胸に満ち
涙は逐臣の纓を濡らす
かくて私は 都長安へ通ずる道を眺め
むなしく天子を恋い慕うのである
⊂ものがたり⊃ 李白は揚州で、李白を慕って訪ねてきた魏万(後にと改名)という若い詩人と会います。魏万は黄河の北にある王屋山(河南省済源県の西)の出身で、李白の後を追って旅をつづけ、揚州でやっと追いついたのです。魏万の懐には相当の金があったらしく、李白はこの若者をつれて揚州の知識人と交流し、揚州からさらに金陵まで同行します。
詩には「十月 呉山の暁」とありますので、十月ごろまで金陵(李白は金陵を呉山と呼ぶことがあります)に滞在したときの作品でしょう。この詩によって、李白がまだ官途への望みを絶ち切れないでいることがわかります。魏万のような若い詩人が慕ってくると、一層旅に明け暮れる無冠の詩人で終わりたくないという気持ちが湧いてくるのでしょう。「逐臣」というのは一度天子に仕えたが都を追われた臣という意味で、追われた理由は天子のまわりにいる者の讒言によるという説明がついていたはずです。梅花落と出塞の曲、李白の心は詩と官、敬亭山と長安に分裂しているのです。
李白は魏万に自分の経歴などいろいろなことを語り、李白詩集の編纂を依頼して金陵でわかれます。それから冬のはじめには宣城にもどったようです。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます