李白ー119
秋登宣城謝朓北楼 秋 宣城の謝朓の北楼に登る
江城如画裏 江城(こうじょう) 画裏(がり)の如く
山晩望晴空 山晩(く)れて晴空(せいくう)に望む
両水夾明鏡 両水(りょうすい) 明鏡を夾(さしはさ)み
双橋落彩虹 双橋(そうきょう) 彩虹(さいこう)を落せり
人煙寒橘柚 人煙(じんえん) 橘柚(きつゆう)に寒く
秋色老梧桐 秋色(しゅうしょく) 梧桐(ごとう)に老ゆ
誰念北楼上 誰か念(おも)わん 北楼(ほくろう)の上
臨風懐謝公 風に臨んで謝公(しゃこう)を懐(おも)わんとは
⊂訳⊃
川辺の街は 絵のように美しく
日暮れの山 晴れわたる空の眺め
二筋の川は 鏡のように澄み
二つの橋は 虹の絵姿を水面に映す
炊煙は寒々と 蜜柑の木になびき
梧桐の葉は 秋の気配に枯れしぼむ
北楼に立って 吹く風に向かい合い
謝朓のことが ただひたすらに偲ばれる
⊂ものがたり⊃ 冬十月に范陽(はんよう)に着いて安禄山の軍を見た李白は、そのあまりにも乱暴な跋扈ぶりに驚いて、すぐに范陽を去りました。翌天宝十二載(735)の早春、李白は魏郡(河北省魏県の東一帯)から西へ太行山を越えて西河郡(山西省汾陽県)に行きます。そこから南下して潼関に至り、西岳華山に詣でます。潼関から東南に旅をして長江に至り、歴陽(安徽省和県)から長江を渡るのですが、これは大変な旅行です。季節はすでに秋になっていました。
歴陽(れきよう)は郡名で和州のことですので、対岸は当塗(とうと)です。李白は当塗からさらに内陸部にはいって宣城(安徽省宣城県)に行き、ひとまず城内に居を定めます。宣城(せんじょう)は南朝斉の時代に謝朓(しゃちょう)が太守(郡の長官)を勤めた城市です。
李白はさっそく謝朓が建てたという北楼に登って詩を書きました。「江城」というのは宣城のことで、宛渓と勾渓の二つの流れが宣城をはさんで北に流れ、やがて合流して長江に注ぎます。宛渓には二つの美しい橋がかかり、川に映る姿は絵のように美しい。北楼は城内の陵陽山上にあり、謝朓はこの楼で詩作をしたという伝えも残っています。李白は宣城がすっかり気に入り、しばらく滞在することにしました。
李白ー120
把酒問月 酒を把って月に問う
青天有月来幾時 青天(せいてん) 月有りて来のかた 幾時(いくとき)ぞ
我今停杯一問之 我 今 杯(さかずき)を停(とど)めて一たび之を問わん
人攀明月不可得 人の明月を攀(よ)づるは得(う)可からず
月行却与人相随 月行(げっこう) 却って人と相い随(したが)う
皎如飛鏡臨丹闕 皎(きょう)として飛鏡の丹闕(たんけつ)に臨むが如く
緑烟滅尽清暉発 緑烟(りょくえん) 滅び尽して清暉(せいき)発す
但見宵従海上来 但(た)だ見る 宵(よい)に海上より来たるを
寧知暁向雲間没 寧んぞ知らん 暁に雲間(うんかん)に向かいて没するを
白兎擣薬秋復春 白兎(はくと) 薬を擣(つ)いて 秋復(ま)た春
姮娥孤棲与誰隣 姮娥(こうが) 孤(ひと)り棲みて 誰とか隣りせん
今人不見古時月 今人(こんじん)は見ず 古時(こじ)の月
今月曾経照古人 今月(こんげつ)は曾経(かつ)て古人(こじん)を照らせり
古人今人若流水 古人 今人 流水(りゅうすい)の若(ごと)く
共看明月皆如此 共に明月を看(み)ること 皆 此(かく)の如し
唯願当歌対酒時 唯(た)だ願わくは 歌に当たり酒に対するの時
月光長照金樽裏 月光 長(とこし)えに金樽(そん)の裏(うち)を照らさんことを
⊂訳⊃
夜空に月が出はじめて どれだけの歳月が流れたのか
杯の手を休め ちょっとそのことを尋ねてみたい
人は明月に近づこうとするが できない相談だ
月のほうから 人の歩みについてくる
昇ったばかりの白い月 天上の門に臨む鏡のよう
夕靄が消えてしまうと 月は清らかな光を放つ
人はただ 日暮れの月が海上に昇るのを愛でるだけ
雲間に沈む 夜明けの月には関心がない
月の兎は仙薬をついて 秋から春と休むことなく
姮娥はひとり月に棲み いったい誰と親しむのか
今の世の人は 昔の月を見ることはないが
今の世の月は 昔の人を照らしていた
昔の人も今の人も 同じ疑問を抱きながら
流れる水のように 生きてはやがて去ってゆく
私の願いは唯一つ 歌を詠い酒を飲むべき人生に
月の光が 酒樽の中を照らしつづけてくれること
⊂ものがたり⊃ 李白の友人の崔成甫(さいせいほ)は宣州の宇文(うぶん)太守と知友でした。九月九日の重陽節に崔成甫が金陵から宇文太守を訪ねてきますが、そのとき李白は響山(きょうざん)に出かけていて留守でした。李白はその後、宇文太守とも近づきになり、宣城での交際も広がります。
ある宴席で李白は月について問われ、一首を書き上げました。詩のはじめの二句は導入部で、つぎの六句は人と月の関係について述べていますが、全体としてこれまでの李白のように月に陶酔するという感じがなくなり、長安で作った「月下独酌」の発想を客観的に述べているのが目立ちます。
後半の八句では、月の兎と月の女神姮娥の伝説について疑問を呈し、月と人、永遠と現在について冷静な態度で観察を試みています。人が月に降り立った現在では、子供も思いつかない疑問ですが、これは唐代の詩です。李白の観察には一種の無常感が漂っていて、李白らしい華やかさがありません。歌を詠い酒を飲むべき時(この「時」は人生という意味でしょう)に、月光が「長えに金樽の裏を照らさんことを」と、最後になってやっと李白らしい詩句で結びます。この詩は李白の心境の変化を示すような作品であるという気がします。
李白ー122
宣州謝朓楼餞別 宣州の謝朓楼にて
校書叔雲 校書叔雲を餞別す
棄我去者 我を棄てて去る者は
昨日之日不可留 昨日の日にして 留む可からず
乱我心者 我が心を乱す者は
今日之日多煩憂 今日の日にして 煩憂(はんゆう)多し
長風万里送秋雁 長風(ちょうふう) 万里 秋雁(しゅうがん)を送り
対此可以酣高楼 此(これ)に対して 以て高楼に酣(かん)す可し
蓬莱文章建安骨 蓬莱(ほうらい)の文章 建安(けんあん)の骨(こつ)
中間小謝又清発 中間の小謝(しょうしゃ) 又(ま)た清発(せいはつ)
倶懐逸興壮思飛 倶(とも)に逸興(いつきょう)を懐うて壮思(そうし)飛び
欲上青天覧明月 青天(せいてん)に上って明月を覧(と)らんと欲す
抽刀断水水更流 刀(かたな)を抽(ぬ)いて水を断てば 水は更に流れ
挙杯消愁愁更愁 杯を挙げて愁(うれい)を消せば 愁は更に愁う
人生在世不称意 人生 世に在って意(い)に称(かな)わず
明朝散髪弄扁舟 明朝 髪を散じて扁舟(へんしゅう)を弄(ろう)せん
⊂訳⊃
私を捨てて去る者
それは過ぎ去った日 留めることはできない
私の心をみだす者
それは今日という日 煩わしい限りだ
万里の彼方から吹く風が 秋の雁を吹き寄せる
この淋しさに耐えるには 高楼で飲むしかあるまい
後漢の文章 建安の詩魂
六朝の謝朓も 溌溂として清々しい
共に感動が胸に満ち 勇壮な気分で立ち上がり
天空に駆け昇って 明月を手にしたいものだ
剣を抜き水を斬れば 水はさらに流れ
杯を挙げ愁いを消せば 愁いはさらに深くなる
この世に生きていても 意に添わぬことばかり
明日こそはざんばら髪で 小舟に身をまかせよう
⊂ものがたり⊃ 李白は宣州でも多くの送別詩や贈答詩を書いていますが、校書叔雲を送別したこの雑言古詩は力作との評価が高いものです。校書というのは秘書省校書郎(正九品上)のことで、微官ですが中央の官としてなんらかの公用で宣州にきたのでしょう。「叔雲」は叔父李雲と解されますが、李白の父親の弟に校書郎になった者がいたとも考えられませんので、例によって李姓の者に親しみをこめて叔父と呼びかけたのでしょう。
はじめの六句はやや荒れた感じで、客に対して失礼ではないかと感じます。秋の北風に乗って雁が南に渡ってきますが、その淋しい風景に耐えるには高楼で飲むしかないと、自棄的な言い方をしています。
この宴会では、飲みはじめると詩論が話題になったらしく、李白は後漢の文章と建安の詩、六朝の謝朓の詩をほめています。詩論をたたかわせているうちに気分が盛り上がり、天に昇って月を手にしたいと言ったり、剣を抜いたり、杯を挙げたりしますが、そんなことでは李白の欝屈した気持ちはほぐれません。生きていても気に食わぬことばかりと言って、明日こそは髪も結わず冠も着けずに、つまり隠者の姿になって小舟に身をまかせようと結びます。
秋登宣城謝朓北楼 秋 宣城の謝朓の北楼に登る
江城如画裏 江城(こうじょう) 画裏(がり)の如く
山晩望晴空 山晩(く)れて晴空(せいくう)に望む
両水夾明鏡 両水(りょうすい) 明鏡を夾(さしはさ)み
双橋落彩虹 双橋(そうきょう) 彩虹(さいこう)を落せり
人煙寒橘柚 人煙(じんえん) 橘柚(きつゆう)に寒く
秋色老梧桐 秋色(しゅうしょく) 梧桐(ごとう)に老ゆ
誰念北楼上 誰か念(おも)わん 北楼(ほくろう)の上
臨風懐謝公 風に臨んで謝公(しゃこう)を懐(おも)わんとは
⊂訳⊃
川辺の街は 絵のように美しく
日暮れの山 晴れわたる空の眺め
二筋の川は 鏡のように澄み
二つの橋は 虹の絵姿を水面に映す
炊煙は寒々と 蜜柑の木になびき
梧桐の葉は 秋の気配に枯れしぼむ
北楼に立って 吹く風に向かい合い
謝朓のことが ただひたすらに偲ばれる
⊂ものがたり⊃ 冬十月に范陽(はんよう)に着いて安禄山の軍を見た李白は、そのあまりにも乱暴な跋扈ぶりに驚いて、すぐに范陽を去りました。翌天宝十二載(735)の早春、李白は魏郡(河北省魏県の東一帯)から西へ太行山を越えて西河郡(山西省汾陽県)に行きます。そこから南下して潼関に至り、西岳華山に詣でます。潼関から東南に旅をして長江に至り、歴陽(安徽省和県)から長江を渡るのですが、これは大変な旅行です。季節はすでに秋になっていました。
歴陽(れきよう)は郡名で和州のことですので、対岸は当塗(とうと)です。李白は当塗からさらに内陸部にはいって宣城(安徽省宣城県)に行き、ひとまず城内に居を定めます。宣城(せんじょう)は南朝斉の時代に謝朓(しゃちょう)が太守(郡の長官)を勤めた城市です。
李白はさっそく謝朓が建てたという北楼に登って詩を書きました。「江城」というのは宣城のことで、宛渓と勾渓の二つの流れが宣城をはさんで北に流れ、やがて合流して長江に注ぎます。宛渓には二つの美しい橋がかかり、川に映る姿は絵のように美しい。北楼は城内の陵陽山上にあり、謝朓はこの楼で詩作をしたという伝えも残っています。李白は宣城がすっかり気に入り、しばらく滞在することにしました。
李白ー120
把酒問月 酒を把って月に問う
青天有月来幾時 青天(せいてん) 月有りて来のかた 幾時(いくとき)ぞ
我今停杯一問之 我 今 杯(さかずき)を停(とど)めて一たび之を問わん
人攀明月不可得 人の明月を攀(よ)づるは得(う)可からず
月行却与人相随 月行(げっこう) 却って人と相い随(したが)う
皎如飛鏡臨丹闕 皎(きょう)として飛鏡の丹闕(たんけつ)に臨むが如く
緑烟滅尽清暉発 緑烟(りょくえん) 滅び尽して清暉(せいき)発す
但見宵従海上来 但(た)だ見る 宵(よい)に海上より来たるを
寧知暁向雲間没 寧んぞ知らん 暁に雲間(うんかん)に向かいて没するを
白兎擣薬秋復春 白兎(はくと) 薬を擣(つ)いて 秋復(ま)た春
姮娥孤棲与誰隣 姮娥(こうが) 孤(ひと)り棲みて 誰とか隣りせん
今人不見古時月 今人(こんじん)は見ず 古時(こじ)の月
今月曾経照古人 今月(こんげつ)は曾経(かつ)て古人(こじん)を照らせり
古人今人若流水 古人 今人 流水(りゅうすい)の若(ごと)く
共看明月皆如此 共に明月を看(み)ること 皆 此(かく)の如し
唯願当歌対酒時 唯(た)だ願わくは 歌に当たり酒に対するの時
月光長照金樽裏 月光 長(とこし)えに金樽(そん)の裏(うち)を照らさんことを
⊂訳⊃
夜空に月が出はじめて どれだけの歳月が流れたのか
杯の手を休め ちょっとそのことを尋ねてみたい
人は明月に近づこうとするが できない相談だ
月のほうから 人の歩みについてくる
昇ったばかりの白い月 天上の門に臨む鏡のよう
夕靄が消えてしまうと 月は清らかな光を放つ
人はただ 日暮れの月が海上に昇るのを愛でるだけ
雲間に沈む 夜明けの月には関心がない
月の兎は仙薬をついて 秋から春と休むことなく
姮娥はひとり月に棲み いったい誰と親しむのか
今の世の人は 昔の月を見ることはないが
今の世の月は 昔の人を照らしていた
昔の人も今の人も 同じ疑問を抱きながら
流れる水のように 生きてはやがて去ってゆく
私の願いは唯一つ 歌を詠い酒を飲むべき人生に
月の光が 酒樽の中を照らしつづけてくれること
⊂ものがたり⊃ 李白の友人の崔成甫(さいせいほ)は宣州の宇文(うぶん)太守と知友でした。九月九日の重陽節に崔成甫が金陵から宇文太守を訪ねてきますが、そのとき李白は響山(きょうざん)に出かけていて留守でした。李白はその後、宇文太守とも近づきになり、宣城での交際も広がります。
ある宴席で李白は月について問われ、一首を書き上げました。詩のはじめの二句は導入部で、つぎの六句は人と月の関係について述べていますが、全体としてこれまでの李白のように月に陶酔するという感じがなくなり、長安で作った「月下独酌」の発想を客観的に述べているのが目立ちます。
後半の八句では、月の兎と月の女神姮娥の伝説について疑問を呈し、月と人、永遠と現在について冷静な態度で観察を試みています。人が月に降り立った現在では、子供も思いつかない疑問ですが、これは唐代の詩です。李白の観察には一種の無常感が漂っていて、李白らしい華やかさがありません。歌を詠い酒を飲むべき時(この「時」は人生という意味でしょう)に、月光が「長えに金樽の裏を照らさんことを」と、最後になってやっと李白らしい詩句で結びます。この詩は李白の心境の変化を示すような作品であるという気がします。
李白ー122
宣州謝朓楼餞別 宣州の謝朓楼にて
校書叔雲 校書叔雲を餞別す
棄我去者 我を棄てて去る者は
昨日之日不可留 昨日の日にして 留む可からず
乱我心者 我が心を乱す者は
今日之日多煩憂 今日の日にして 煩憂(はんゆう)多し
長風万里送秋雁 長風(ちょうふう) 万里 秋雁(しゅうがん)を送り
対此可以酣高楼 此(これ)に対して 以て高楼に酣(かん)す可し
蓬莱文章建安骨 蓬莱(ほうらい)の文章 建安(けんあん)の骨(こつ)
中間小謝又清発 中間の小謝(しょうしゃ) 又(ま)た清発(せいはつ)
倶懐逸興壮思飛 倶(とも)に逸興(いつきょう)を懐うて壮思(そうし)飛び
欲上青天覧明月 青天(せいてん)に上って明月を覧(と)らんと欲す
抽刀断水水更流 刀(かたな)を抽(ぬ)いて水を断てば 水は更に流れ
挙杯消愁愁更愁 杯を挙げて愁(うれい)を消せば 愁は更に愁う
人生在世不称意 人生 世に在って意(い)に称(かな)わず
明朝散髪弄扁舟 明朝 髪を散じて扁舟(へんしゅう)を弄(ろう)せん
⊂訳⊃
私を捨てて去る者
それは過ぎ去った日 留めることはできない
私の心をみだす者
それは今日という日 煩わしい限りだ
万里の彼方から吹く風が 秋の雁を吹き寄せる
この淋しさに耐えるには 高楼で飲むしかあるまい
後漢の文章 建安の詩魂
六朝の謝朓も 溌溂として清々しい
共に感動が胸に満ち 勇壮な気分で立ち上がり
天空に駆け昇って 明月を手にしたいものだ
剣を抜き水を斬れば 水はさらに流れ
杯を挙げ愁いを消せば 愁いはさらに深くなる
この世に生きていても 意に添わぬことばかり
明日こそはざんばら髪で 小舟に身をまかせよう
⊂ものがたり⊃ 李白は宣州でも多くの送別詩や贈答詩を書いていますが、校書叔雲を送別したこの雑言古詩は力作との評価が高いものです。校書というのは秘書省校書郎(正九品上)のことで、微官ですが中央の官としてなんらかの公用で宣州にきたのでしょう。「叔雲」は叔父李雲と解されますが、李白の父親の弟に校書郎になった者がいたとも考えられませんので、例によって李姓の者に親しみをこめて叔父と呼びかけたのでしょう。
はじめの六句はやや荒れた感じで、客に対して失礼ではないかと感じます。秋の北風に乗って雁が南に渡ってきますが、その淋しい風景に耐えるには高楼で飲むしかないと、自棄的な言い方をしています。
この宴会では、飲みはじめると詩論が話題になったらしく、李白は後漢の文章と建安の詩、六朝の謝朓の詩をほめています。詩論をたたかわせているうちに気分が盛り上がり、天に昇って月を手にしたいと言ったり、剣を抜いたり、杯を挙げたりしますが、そんなことでは李白の欝屈した気持ちはほぐれません。生きていても気に食わぬことばかりと言って、明日こそは髪も結わず冠も着けずに、つまり隠者の姿になって小舟に身をまかせようと結びます。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます