白居易ー124
尋郭道士不遇 郭道士を尋ねて遇わず
郡中乞仮来相訪 郡中(ぐんちゅう)に仮(か)を乞うて 来たりて相訪(と)うに
洞裏朝元去不逢 洞裏(どうり) 元(げん)に朝(ちょう)して 去りて逢わず
看院祇留双白鶴 院を看るは 祇(た)だ双白鶴(そうはくかく)を留め
入門唯見一青松 門を入れば 唯(た)だ一青松(いちせいしょう)を見る
薬鑪有火丹応伏 薬鑪(やくろ) 火有り 丹(たん)応(まさ)に伏すべし
雲碓無人水自舂 雲碓(うんたい) 人無く 水自(おのずか)ら舂(うすず)く
欲問参同契中事 参同契中(さんどうけいちゅう)の事を問わんと欲すれども
更期何日得従容 更に期せん 何れの日にか従容(しょうよう)たるを得ん
⊂訳⊃
郡の役所に暇をもらい 尋ねていったが
洞中の玄元廟に出かけ 留守であった
道観の番をしているのは 二羽の白い鶴
門を入れば 一本の青松が見えるだけだ
薬の鑪には火の気があり 丹砂を熱しているのであろう
雲母の碓は 人けがないのに水の力で搗いている
参同契のことを尋ねようと思ってきたが
いずれまた ゆっくり語り合いたいものである
⊂ものがたり⊃ 詩題の「郭道士」は郭虚舟という名の道士ですが、経歴は不詳です。仕事もない司馬が郡衙に賜暇を願って出かけているのは、幾日か滞在するつもりであったのでしょう。
廬山は雲母(うんも)の山地で、雲母の粉末は丹砂とともに仙薬の原料でした。「参同契」は古い錬金術の書で、白居易はそれを郭道士から借りていました。その内容について教えを請うつもりで道観(道教の寺)を訪れたのでしょうが、道士は不在で会えませんでした。当時の山中の道士のようすがよくわかります。
白居易ー125
廬山草堂夜雨独宿 廬山の草堂の夜雨に独り宿し
寄牛二・李七・庾三 牛二・李七・庾三十二員外に
十二員外 寄す
丹霄携手三君子 丹霄(たんしょう) 手を携(たずさ)う三君子
白髪垂頭一病翁 白髪(はくはつ) 頭(こうべ)を垂る一病翁
蘭省花時錦帳下 蘭省(らんしょう)の花の時 錦帳(きんちょう)の下(もと)
廬山雨夜草菴中 廬山(ろざん)の雨の夜 草菴(そうあん)の中(うち)
終身膠漆心応在 終身 膠漆(こうしつ) 心応(まさ)に在るべし
半路雲泥迹不同 半路 雲泥(うんでい) 迹(あと)同じからず
唯有無生三昧観 唯だ 無生三昧(むしょうさんまい)の観(かん)有り
栄枯一照両成空 栄枯(えいこ)一照(いっしょう)して 両つながら空と成る
⊂訳⊃
朝廷で手を取り合っている三君子
私は白髪頭を垂れた病気の年寄り
秘書省の花の季節に 君らは錦の帳の下
私は廬山の雨の夜に 草の庵の中にいる
終生一心同体の気持ちは今もあるだろうが
人生の半ばを過ぎて 差は雲泥の身となる
私にあるのは生死を越えた悟りの境地
栄枯盛衰は やがて二つとも空となるのだ
⊂ものがたり⊃ 元和十三年の晩春のころと思われますが、白居易は都の牛僧孺(ぎゅうそうじゅ)、李宗閔(りそうびん)、庾三十二(ゆ:三十二は排行)に詩を贈ります。詩中の「蘭省」は蘭台ともいい、秘書省のことです。詩題に「員外」とありますので、三人はそのころ著作局に属して員外左郎(従六品上)であったのでしょう。
牛僧孺らは白居易が制挙に及第した二年後の元和三年に制挙の賢良方正能直言極諌科に応じて及第したのですが、制挙の対策(答案)で時の政府の政策を厳しく批判しました。憲宗はそのころ李吉甫を宰相に任じて藩鎮に対する強硬策を推進していましたので、牛僧孺らの主張はもっと温和な対策を行って馴致すべきであるというものでした。 そのため牛僧孺らはながく不遇な地位に置かれ、のちの牛李の党争の遠因となります。李吉甫が亡くなると、李党の政策は李逢吉などによって推進されますが、河朔三鎮をはじめとする藩鎮の制圧はうまく進展せず、そうした情勢のなかで藩鎮に対して融和的な牛僧孺たち牛党のメンバーも中央に活躍の場を与えられるようになっていました。
白居易は中央に活躍の場を得ている後輩たちに羨ましさを感じているようであり、詩中に「半路 雲泥 迹同じからず」と言っているのは、その気持ちの現われでしょう。しかし、結びでは「唯だ 無生三昧の観有り」と強がりを言っており、自分は流謫の境涯に安心立命しているとも言っています。
白居易ー126
酔吟二首 其二 酔吟 二首 其の二
両鬢千茎新似雪 両鬢の千茎(せんけい) 新たなること雪に似たり
十分一盞欲如泥 十分の一盞(いっさん) 泥(でい)の如くならんと欲す
酒狂又引詩魔発 酒狂(しゅきょう) 又 詩魔(しま)を引きて発す
日午悲吟到日西 日午(にちご)悲吟して 日の西なるに到る
⊂訳⊃
両鬢の千本の毛 雪のように白く
たっぷりの酒で 泥のように酔おう
酔った勢いで 詩作の意欲を駆りたて
正午から苦吟を重ね 日は西に傾いた
⊂ものがたり⊃ 内面の不満を消し去るには、泥のように酔うしかありません。酔った勢いで詩をつくるのが、白居易にとって誇りを保つ唯一の手段であったようですが、そんな精神状態で苦吟を重ねてもよい詩はできないのです。
白居易ー127
食後 食後
食罷一覚睡 食罷(お)わりて 一覚(いっかく)の睡(ねむり)
起来両甌茶 起き来たりて 両甌(りょうおう)の茶
挙頭看日影 頭(こうべ)を挙げて日影(にちえい)を看(み)れば
已復西南斜 已(すで)に復(ま)た西南に斜めなり
楽人惜日促 楽しき人は 日の促(あわただ)しきを惜(お)しみ
憂人厭年賖 憂うる人は 年の賖(なが)きを厭(いと)う
無憂無楽者 憂いも無く楽しみも無き者は
長短任生涯 長きも短きも生涯に任(まか)す
⊂訳⊃
食事が終わっての 一寝入り
起きてから飲む 二杯の茶
顔を挙げて 太陽を見上げると
早くもすでに 西南に傾いている
楽しみのある人は 一日の速いのを惜しみ
憂いを持つ人は 一年の長いのを嫌う
憂いも楽しみもない者は
長くても短くてもかまわない なりゆき任せだ
⊂ものがたり⊃ そのころ白居易の兄の幼文は、浮梁の主簿の職を辞して徐州の符離に移って一族の者と暮らしていました。その兄が亡くなって、白居易は兄の遺族六、七人を江州に引き取ることになりました。
また弟の白行簡は、元和二年に進士に及第したあと秘書省校書郎に任官し、二人が母の喪に服していた元和八年に渭村下邽で長男阿亀が生まれました。阿亀は男の子のいない白居易が引き取って養育していましたが、その後、白行簡は剣南節度使盧坦(ろたん)の掌書記になって巴地に行っていました。ところが、盧坦が亡くなったために白行簡は掌書記を辞し、家族を連れて江州の白居易のもとで寄食するようになりました。
白居易は兄弟の家族をかかえて大家族となり、生活も苦しくなってきていたようです。「食後」の詩は秋のころの作品と思われますが、自分を「憂いも無く楽しみも無き者は」と規定し、なんとなく投げやりな感じがあります。
白居易ー128
贈内子 内子に贈る
白髪方興歎 白髪(はくはつ) 方(まさ)に歎きを興(おこ)し
青娥亦伴愁 青娥(せいが) 亦た愁いに伴(ともな)う
寒衣補燈火 寒衣(かんい) 燈火に補(おぎな)い
小女戲牀頭 小女(しょうじょ) 牀頭(しょうとう)に戲(たわむ)る
闇澹屏帷故 闇澹(あんたん)として 屏帷(へいい)故(ふ)り
淒涼枕席秋 淒涼(せいりょう)として 枕席(ちんせき)秋なり
貧中有等級 貧中(ひんちゅう)に等級有り
猶勝嫁黔婁 猶お黔婁(けんろう)に嫁(とつ)ぎしに勝(まさ)る
⊂訳⊃
白髪頭を 私が歎くと
若いお前も いっしょに嘆く
灯火の下で お前は冬着をつくろい
幼女は 寝台のそばで遊ぶ
屏風や帳は古びて黒くなり
夜具のあたりの秋のけはいがもの寂しい
貧乏にも 程度の差があって
黔婁の妻になるよりはましであろう
⊂ものがたり⊃ 三年に及ぶ流謫の生活に白居易はあきあきしていたようです。そんときは、妻をいたわる気持ちもわいてきます。「内子」(ないし:妻)の楊氏は冬着の繕いをしていますので、晩秋のころでしょう。「小女」は二年前に江州で生まれた次女の阿羅です。同居の兄弟の家族には触れていませんが、屏風や帳(とばり)、寝台の上の夜具も古びて侘しい感じです。
「黔婁」というのは春秋魯の清貧の高士で、魯公からたびたび招聘されましたが、仕えることなく生涯を終えたといいます。白居易は冗談を言って、妻をなぐさめているのでしょう。
尋郭道士不遇 郭道士を尋ねて遇わず
郡中乞仮来相訪 郡中(ぐんちゅう)に仮(か)を乞うて 来たりて相訪(と)うに
洞裏朝元去不逢 洞裏(どうり) 元(げん)に朝(ちょう)して 去りて逢わず
看院祇留双白鶴 院を看るは 祇(た)だ双白鶴(そうはくかく)を留め
入門唯見一青松 門を入れば 唯(た)だ一青松(いちせいしょう)を見る
薬鑪有火丹応伏 薬鑪(やくろ) 火有り 丹(たん)応(まさ)に伏すべし
雲碓無人水自舂 雲碓(うんたい) 人無く 水自(おのずか)ら舂(うすず)く
欲問参同契中事 参同契中(さんどうけいちゅう)の事を問わんと欲すれども
更期何日得従容 更に期せん 何れの日にか従容(しょうよう)たるを得ん
⊂訳⊃
郡の役所に暇をもらい 尋ねていったが
洞中の玄元廟に出かけ 留守であった
道観の番をしているのは 二羽の白い鶴
門を入れば 一本の青松が見えるだけだ
薬の鑪には火の気があり 丹砂を熱しているのであろう
雲母の碓は 人けがないのに水の力で搗いている
参同契のことを尋ねようと思ってきたが
いずれまた ゆっくり語り合いたいものである
⊂ものがたり⊃ 詩題の「郭道士」は郭虚舟という名の道士ですが、経歴は不詳です。仕事もない司馬が郡衙に賜暇を願って出かけているのは、幾日か滞在するつもりであったのでしょう。
廬山は雲母(うんも)の山地で、雲母の粉末は丹砂とともに仙薬の原料でした。「参同契」は古い錬金術の書で、白居易はそれを郭道士から借りていました。その内容について教えを請うつもりで道観(道教の寺)を訪れたのでしょうが、道士は不在で会えませんでした。当時の山中の道士のようすがよくわかります。
白居易ー125
廬山草堂夜雨独宿 廬山の草堂の夜雨に独り宿し
寄牛二・李七・庾三 牛二・李七・庾三十二員外に
十二員外 寄す
丹霄携手三君子 丹霄(たんしょう) 手を携(たずさ)う三君子
白髪垂頭一病翁 白髪(はくはつ) 頭(こうべ)を垂る一病翁
蘭省花時錦帳下 蘭省(らんしょう)の花の時 錦帳(きんちょう)の下(もと)
廬山雨夜草菴中 廬山(ろざん)の雨の夜 草菴(そうあん)の中(うち)
終身膠漆心応在 終身 膠漆(こうしつ) 心応(まさ)に在るべし
半路雲泥迹不同 半路 雲泥(うんでい) 迹(あと)同じからず
唯有無生三昧観 唯だ 無生三昧(むしょうさんまい)の観(かん)有り
栄枯一照両成空 栄枯(えいこ)一照(いっしょう)して 両つながら空と成る
⊂訳⊃
朝廷で手を取り合っている三君子
私は白髪頭を垂れた病気の年寄り
秘書省の花の季節に 君らは錦の帳の下
私は廬山の雨の夜に 草の庵の中にいる
終生一心同体の気持ちは今もあるだろうが
人生の半ばを過ぎて 差は雲泥の身となる
私にあるのは生死を越えた悟りの境地
栄枯盛衰は やがて二つとも空となるのだ
⊂ものがたり⊃ 元和十三年の晩春のころと思われますが、白居易は都の牛僧孺(ぎゅうそうじゅ)、李宗閔(りそうびん)、庾三十二(ゆ:三十二は排行)に詩を贈ります。詩中の「蘭省」は蘭台ともいい、秘書省のことです。詩題に「員外」とありますので、三人はそのころ著作局に属して員外左郎(従六品上)であったのでしょう。
牛僧孺らは白居易が制挙に及第した二年後の元和三年に制挙の賢良方正能直言極諌科に応じて及第したのですが、制挙の対策(答案)で時の政府の政策を厳しく批判しました。憲宗はそのころ李吉甫を宰相に任じて藩鎮に対する強硬策を推進していましたので、牛僧孺らの主張はもっと温和な対策を行って馴致すべきであるというものでした。 そのため牛僧孺らはながく不遇な地位に置かれ、のちの牛李の党争の遠因となります。李吉甫が亡くなると、李党の政策は李逢吉などによって推進されますが、河朔三鎮をはじめとする藩鎮の制圧はうまく進展せず、そうした情勢のなかで藩鎮に対して融和的な牛僧孺たち牛党のメンバーも中央に活躍の場を与えられるようになっていました。
白居易は中央に活躍の場を得ている後輩たちに羨ましさを感じているようであり、詩中に「半路 雲泥 迹同じからず」と言っているのは、その気持ちの現われでしょう。しかし、結びでは「唯だ 無生三昧の観有り」と強がりを言っており、自分は流謫の境涯に安心立命しているとも言っています。
白居易ー126
酔吟二首 其二 酔吟 二首 其の二
両鬢千茎新似雪 両鬢の千茎(せんけい) 新たなること雪に似たり
十分一盞欲如泥 十分の一盞(いっさん) 泥(でい)の如くならんと欲す
酒狂又引詩魔発 酒狂(しゅきょう) 又 詩魔(しま)を引きて発す
日午悲吟到日西 日午(にちご)悲吟して 日の西なるに到る
⊂訳⊃
両鬢の千本の毛 雪のように白く
たっぷりの酒で 泥のように酔おう
酔った勢いで 詩作の意欲を駆りたて
正午から苦吟を重ね 日は西に傾いた
⊂ものがたり⊃ 内面の不満を消し去るには、泥のように酔うしかありません。酔った勢いで詩をつくるのが、白居易にとって誇りを保つ唯一の手段であったようですが、そんな精神状態で苦吟を重ねてもよい詩はできないのです。
白居易ー127
食後 食後
食罷一覚睡 食罷(お)わりて 一覚(いっかく)の睡(ねむり)
起来両甌茶 起き来たりて 両甌(りょうおう)の茶
挙頭看日影 頭(こうべ)を挙げて日影(にちえい)を看(み)れば
已復西南斜 已(すで)に復(ま)た西南に斜めなり
楽人惜日促 楽しき人は 日の促(あわただ)しきを惜(お)しみ
憂人厭年賖 憂うる人は 年の賖(なが)きを厭(いと)う
無憂無楽者 憂いも無く楽しみも無き者は
長短任生涯 長きも短きも生涯に任(まか)す
⊂訳⊃
食事が終わっての 一寝入り
起きてから飲む 二杯の茶
顔を挙げて 太陽を見上げると
早くもすでに 西南に傾いている
楽しみのある人は 一日の速いのを惜しみ
憂いを持つ人は 一年の長いのを嫌う
憂いも楽しみもない者は
長くても短くてもかまわない なりゆき任せだ
⊂ものがたり⊃ そのころ白居易の兄の幼文は、浮梁の主簿の職を辞して徐州の符離に移って一族の者と暮らしていました。その兄が亡くなって、白居易は兄の遺族六、七人を江州に引き取ることになりました。
また弟の白行簡は、元和二年に進士に及第したあと秘書省校書郎に任官し、二人が母の喪に服していた元和八年に渭村下邽で長男阿亀が生まれました。阿亀は男の子のいない白居易が引き取って養育していましたが、その後、白行簡は剣南節度使盧坦(ろたん)の掌書記になって巴地に行っていました。ところが、盧坦が亡くなったために白行簡は掌書記を辞し、家族を連れて江州の白居易のもとで寄食するようになりました。
白居易は兄弟の家族をかかえて大家族となり、生活も苦しくなってきていたようです。「食後」の詩は秋のころの作品と思われますが、自分を「憂いも無く楽しみも無き者は」と規定し、なんとなく投げやりな感じがあります。
白居易ー128
贈内子 内子に贈る
白髪方興歎 白髪(はくはつ) 方(まさ)に歎きを興(おこ)し
青娥亦伴愁 青娥(せいが) 亦た愁いに伴(ともな)う
寒衣補燈火 寒衣(かんい) 燈火に補(おぎな)い
小女戲牀頭 小女(しょうじょ) 牀頭(しょうとう)に戲(たわむ)る
闇澹屏帷故 闇澹(あんたん)として 屏帷(へいい)故(ふ)り
淒涼枕席秋 淒涼(せいりょう)として 枕席(ちんせき)秋なり
貧中有等級 貧中(ひんちゅう)に等級有り
猶勝嫁黔婁 猶お黔婁(けんろう)に嫁(とつ)ぎしに勝(まさ)る
⊂訳⊃
白髪頭を 私が歎くと
若いお前も いっしょに嘆く
灯火の下で お前は冬着をつくろい
幼女は 寝台のそばで遊ぶ
屏風や帳は古びて黒くなり
夜具のあたりの秋のけはいがもの寂しい
貧乏にも 程度の差があって
黔婁の妻になるよりはましであろう
⊂ものがたり⊃ 三年に及ぶ流謫の生活に白居易はあきあきしていたようです。そんときは、妻をいたわる気持ちもわいてきます。「内子」(ないし:妻)の楊氏は冬着の繕いをしていますので、晩秋のころでしょう。「小女」は二年前に江州で生まれた次女の阿羅です。同居の兄弟の家族には触れていませんが、屏風や帳(とばり)、寝台の上の夜具も古びて侘しい感じです。
「黔婁」というのは春秋魯の清貧の高士で、魯公からたびたび招聘されましたが、仕えることなく生涯を終えたといいます。白居易は冗談を言って、妻をなぐさめているのでしょう。
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