昨日ですが
『平野神社』まで参拝に行って来ました。
桜の名所だけあって沢山の桜の木がありました。
きっと春には美しい風景が見られるのだと思います。
来年の春が楽しみですよ(^ ^)
お守りも桜の雰囲気で可愛いものが一杯ありました。
残念ながら…時間が無く急いでいた為
短い参拝だけでゆっくりとは見れていませんが…
余裕ができてから
是非近い内にゆっくりと参拝しようと思います。
『平野神社』の下記詳細をご覧下さい。
歴史
延暦13年(794年)、桓武天皇による平安京遷都にともない、平城京で祀られていた今木神・久度神・古開神を遷座・勧請したのに始まる。元々今木神は平城京の田村後宮に、久度神・古開神は大和国平群郡の式内・久度神社に祀られていた。比売神は承和年間より祀られるようになったものである。
『文徳天皇実録』によれば、仁寿元年(851年)、今木神に従二位、久度神・古開神に従四位、比売神に正五位の神階が授けられ、その中で当社のことを「平野神宮」と記述している。その後も神階は昇って行き、貞観元年(859年)には今木神に最高位の正一位の神階が授けられている。延喜式神名帳には「山城国葛野郡 平野祭神四社」と記載され、名神大社に列していた(2005年まで鳥居の扁額には「平野大社」と銘記されていた)。また、祭神について「平野大神」「皇大御神」という称号も使用されていた。
平野神社の鳥居。「平野皇大神」の扁額が掲げられている。
例大祭の平野祭には皇太子が奉幣する定めになっていた。また歴代天皇の行幸も円融天皇から後醍醐天皇までの17帝21回を記録するなど天皇家の崇敬も厚くそれに伴い、源氏、平氏、大江氏、菅原氏などの公家の氏神にもなった。中世には皇城鎮護二十二社の一社となった。
神紋は桜で、今も桜の名所として名高い。平安時代の中ごろ花山天皇によって境内に数千本の桜が植えられたのが起源で、寛和元年(985年)4月10日に臨時勅祭が開かれ、平野桜祭りとして今に残る。
魁桜
応仁の乱をはじめたびたび社殿が焼失し、そのたびに再建を繰り返し、天文法華の乱によって、社殿および社領は完全に荒廃したといわれる。
1871年(明治4年)に官幣大社に指定された。
◎御祭神四座
第一殿 今木 ( いまき ) 皇 ( のすめ ) 大神 ( おおかみ ) (源気新生、活力生成の神)
第二殿 久度 ( くど ) 大神 ( おおがみ ) (竈の神、衣食住の生活安泰の神)
第三殿 古開 ( ふるあき ) 大神 ( おおかみ ) (邪気を振り開(晴)く平安の神)
第四殿 比賣 ( ひめの ) 大神 ( おおかみ ) (生産力の神)
◎沿 革
奈良時代末期の延暦元年(782)『続日本紀』に
「田村後宮の今木大神に従四位を授ける」とあり、
平城京の宮中に祀られていました。
ここは桓武天皇の父光仁天皇の御所でした。
この地には延暦十三年(794)
平安遷都と同時に御遷座されました。
当初境内地は方八町余(平安尺で1.5km四方)で、
現在の京都御所とほぼ同じでしたが、
時の変遷と共に現在の200m弱四方となりました。
◎八姓の氏神と伝奏家
○奈良時代末期から
「臣籍降下(皇族が源氏、平氏などの姓を賜り臣下になること)」の
制度が定まり、
臣籍降下した源氏・平氏はじめ
高階・大江・中原・清原・菅原・秋篠各氏他
天皇外戚の氏神であるとされ、臣籍降下の流れを汲む
公武に尊崇されました。
当社が宮中外に祀られたのは、
この臣籍降下と深く関わつているようです。
『源氏物語』の光源氏は臣籍降下した一族の繁栄を願った
平野大神の顕現であるとの説も一理あるようです。
◎名 所 桜苑
江戸時代には「平野の夜桜」として桜の名所として全国に知られ、
特に珍種が多く現在も約五〇種約四〇〇本の桜が植栽されています。
<参考資料>『平野神社ホームページ』
『ウィキペディア』…『平野神社』
※『TAZUKO多鶴子ネット画廊』ホームページ
『平野神社』まで参拝に行って来ました。
桜の名所だけあって沢山の桜の木がありました。
きっと春には美しい風景が見られるのだと思います。
来年の春が楽しみですよ(^ ^)
お守りも桜の雰囲気で可愛いものが一杯ありました。
残念ながら…時間が無く急いでいた為
短い参拝だけでゆっくりとは見れていませんが…
余裕ができてから
是非近い内にゆっくりと参拝しようと思います。
『平野神社』の下記詳細をご覧下さい。
歴史
延暦13年(794年)、桓武天皇による平安京遷都にともない、平城京で祀られていた今木神・久度神・古開神を遷座・勧請したのに始まる。元々今木神は平城京の田村後宮に、久度神・古開神は大和国平群郡の式内・久度神社に祀られていた。比売神は承和年間より祀られるようになったものである。
『文徳天皇実録』によれば、仁寿元年(851年)、今木神に従二位、久度神・古開神に従四位、比売神に正五位の神階が授けられ、その中で当社のことを「平野神宮」と記述している。その後も神階は昇って行き、貞観元年(859年)には今木神に最高位の正一位の神階が授けられている。延喜式神名帳には「山城国葛野郡 平野祭神四社」と記載され、名神大社に列していた(2005年まで鳥居の扁額には「平野大社」と銘記されていた)。また、祭神について「平野大神」「皇大御神」という称号も使用されていた。
平野神社の鳥居。「平野皇大神」の扁額が掲げられている。
例大祭の平野祭には皇太子が奉幣する定めになっていた。また歴代天皇の行幸も円融天皇から後醍醐天皇までの17帝21回を記録するなど天皇家の崇敬も厚くそれに伴い、源氏、平氏、大江氏、菅原氏などの公家の氏神にもなった。中世には皇城鎮護二十二社の一社となった。
神紋は桜で、今も桜の名所として名高い。平安時代の中ごろ花山天皇によって境内に数千本の桜が植えられたのが起源で、寛和元年(985年)4月10日に臨時勅祭が開かれ、平野桜祭りとして今に残る。
魁桜
応仁の乱をはじめたびたび社殿が焼失し、そのたびに再建を繰り返し、天文法華の乱によって、社殿および社領は完全に荒廃したといわれる。
1871年(明治4年)に官幣大社に指定された。
◎御祭神四座
第一殿 今木 ( いまき ) 皇 ( のすめ ) 大神 ( おおかみ ) (源気新生、活力生成の神)
第二殿 久度 ( くど ) 大神 ( おおがみ ) (竈の神、衣食住の生活安泰の神)
第三殿 古開 ( ふるあき ) 大神 ( おおかみ ) (邪気を振り開(晴)く平安の神)
第四殿 比賣 ( ひめの ) 大神 ( おおかみ ) (生産力の神)
◎沿 革
奈良時代末期の延暦元年(782)『続日本紀』に
「田村後宮の今木大神に従四位を授ける」とあり、
平城京の宮中に祀られていました。
ここは桓武天皇の父光仁天皇の御所でした。
この地には延暦十三年(794)
平安遷都と同時に御遷座されました。
当初境内地は方八町余(平安尺で1.5km四方)で、
現在の京都御所とほぼ同じでしたが、
時の変遷と共に現在の200m弱四方となりました。
◎八姓の氏神と伝奏家
○奈良時代末期から
「臣籍降下(皇族が源氏、平氏などの姓を賜り臣下になること)」の
制度が定まり、
臣籍降下した源氏・平氏はじめ
高階・大江・中原・清原・菅原・秋篠各氏他
天皇外戚の氏神であるとされ、臣籍降下の流れを汲む
公武に尊崇されました。
当社が宮中外に祀られたのは、
この臣籍降下と深く関わつているようです。
『源氏物語』の光源氏は臣籍降下した一族の繁栄を願った
平野大神の顕現であるとの説も一理あるようです。
◎名 所 桜苑
江戸時代には「平野の夜桜」として桜の名所として全国に知られ、
特に珍種が多く現在も約五〇種約四〇〇本の桜が植栽されています。
<参考資料>『平野神社ホームページ』
『ウィキペディア』…『平野神社』
※『TAZUKO多鶴子ネット画廊』ホームページ