TAZUKO多鶴子

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京都『祇園神社』とその周辺に行きました(^-^)…NO.2

2008-07-31 | TAZUKO多鶴子からの伝言

 <八坂神社>
八坂神社(やさかじんじゃ)は、素戔嗚尊(スサノオ)を祭神とする全国各地にある神社の名称。日本全国に約2300社あるとされる。
総本社は京都府京都市東山区祇園町にある八坂神社。かつての社名から祇園さんの愛称で呼ばれる。7月の祇園祭(祇園会)で知られ、ほかに特殊神事として白朮(をけら)祭がある。旧社格は官幣大社。
慶応四年(1868年)の神仏分離令(廃仏毀釈運動)により、元々「祇園社」「祇園感神院」と呼ばれていたのが、「八坂神社」と改められた。

参考資料: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

京都『祇園神社』とその周辺に行きました(^o^)…NO.1

2008-07-30 | TAZUKO多鶴子からの伝言
今日は京都の祇園神社(八坂神社)まで行って来ました。
祇園祭が7月31日までなので、
是非!今年はその期間中に行ってみたかったのです。
行ってみると…やはり終了間近…という感じでした。
神社に入って様々な所を参拝しましたが、
有名なだけあって見事でした。
参拝の後、祇園神社周辺を歩いて…
少しの時間でしたが、
安らいだひと時を過ごす事が出来ました。
引き続き、その時の写真を公開しますので
皆様!ご一緒に楽しんで下さいね(^ ^)

『ゲーテ』の言葉

2008-07-29 | TAZUKO多鶴子からの伝言

今日は万能の天才と呼ばれる『ゲーテ』の言葉をご紹介します。
下記をご覧下さい。


        < ゲーテの言葉 >

*人間はけだかくあれ、情け深く優しくあれ!
 そのことだけが、われらの知っている一切のものと人間とを区別する。

*一つ所に執着するな。
 元気に立って、さあ行こう!
 頭と腕に快活な力があれば、どこに行ってもうちにいるようなもの。
 太陽を楽しめば、どんな心配もなくなる。めいめい勇んで出かけよう。
 世界はこんなに広い

*暑さ寒さに苦しんだ者でなければ、人間の値打ちなんてわかりはしない 

*おまえの努力は愛の中にあれ、お前の生活はそのおこないであれ。

*財貨を失ったことは僅かを失ったことだ。
 気を取り直して新しく手に入れなければならない。
 信頼を失ったことは多くを失ったことだ。
 再び得るには多くの努力が必要だろう。
 勇気を失ったことはすべてを失ったことだ。もはや埋葬されるしかないだろう 。


*思索なんかする奴は枯野原で
 悪霊にぐるぐるひきまわされている動物みたいなものです。
 そのそとまわりには美しい緑の牧場があるのに。


*経験したことは理解したことだと思い込んでいる人がたくさんいる。
 

俳聖『松尾芭蕉』の夏の俳句

2008-07-28 | TAZUKO多鶴子からの伝言

今日は『俳聖』とも呼ばれる
『松尾芭蕉』の夏の俳句をご紹介します。
芭蕉の俳句で
暑い夏を…楽しむ夏に
感じて頂ければ幸いです。

「夏草や兵(つはもの)どもが夢のあと」

「荒海や佐渡によこたふ天河(あまのがわ)」

「暑き日を海に入れたり最上川」

「閑(しずか)さや岩にしみ入る蝉の声」

「僧朝顔幾死返る法の松」
(朝顔が何度も死と生を繰り返すように僧は入替わるが、仏法は千年生きる松のように変わらない)
 
           …… 松尾芭蕉 ……

『侘び・さび・細み』の精神、
『匂ひ・うつり・響き』といった
嗅覚・視覚・聴覚を駆使した天才的文章表現。
松尾芭蕉の鋭い感性は多くの俳人を虜にし、
いつの日か
『俳聖』と呼ばれるようになった。



松尾 芭蕉(まつお ばしょう、寛永21年(1644年) - 元禄7年10月12日(1694年11月28日))は現在の三重県伊賀市出身の江戸時代前期の俳諧師である。幼名は金作。通称は藤七郎、忠右衛門、甚七郎。名は宗房。俳号としては初め実名宗房を、次いで桃青、芭蕉(はせを)と改めた。蕉風と呼ばれる芸術性の高い句風を確立し、俳聖と呼ばれる。
芭蕉が弟子の河合曾良を伴い、元禄2年3月27日(1689年5月16日)に江戸を立ち東北、北陸を巡り岐阜の大垣まで旅した紀行文『奥の細道』がある。

参考資料: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

奈良『法隆寺』に行って来ました…NO.3

2008-07-27 | TAZUKO多鶴子からの伝言
<西院伽藍>
南大門を入って正面のやや小高くなったところに位置する。向かって右に金堂、左に五重塔を配し、これらを平面「凸」字形の回廊が囲む。回廊の南正面に中門(ちゅうもん)を開き、中門の左右から伸びた回廊は北側に建つ大講堂の左右に接して終わっている。回廊の途中、「凸」字の肩のあたりには東に鐘楼、西に経蔵がある。以上の伽藍を西院伽藍と呼んでいる。金堂、五重塔、中門、回廊は聖徳太子在世時のものではなく7世紀後半頃の再建であるが、世界最古の木造建造物群であることは間違いない。
中門(国宝)
入母屋造の二重門。日本の寺院の門は正面の柱間が奇数(3間、5間、7間等)になるのが普通だが、この門は正面柱間が4間で、真中に柱が立つ点が特異である。門内の左右に塑造金剛力士立像を安置する。日本最古(8世紀初)の仁王像として貴重なものであるが、風雨にさらされる場所に安置されているため、補修が甚だしく、吽形(うんぎょう)像の体部は木造の後補に代わっている。門は現在、出入り口としては使用されず、金堂等の拝観者は回廊の西南隅から入る。
<法隆寺献納宝物>
明治維新以後の廃仏毀釈により民衆による破壊にさらされ、さらに幕政時代のような政府による庇護がなくなった全国の仏教寺院は、財政面で困窮の淵にあった。また多くの寺院は堂塔が老朽化し、重みで落ちそうな屋根全体を鉄棒で支えるような状況に至っていた。文明開化の時代に古い寺社を文化遺産とする価値観はまだなく、法隆寺はじめ多くの寺院が存続困難となり、老朽化した伽藍や堂宇を棄却するか売却するかの選択を迫られた。
法隆寺は、1878年(明治11年)貴重な寺宝300件余を皇室に献納し、代償として一万円を下賜された。この皇室の援助のおかげで7世紀以来の伽藍や堂宇が維持できることとなった。皇室に献納された宝物は、一時的に正倉院に移されたのち、1882年(明治15年)に帝室博物館に「法隆寺献納御物」(皇室所蔵品)として収蔵された。戦後、宮内省所管の東京帝室博物館が国立博物館となった際に、法隆寺に返還された4点と宮中に残された10点の宝物を除き、全てが国立博物館蔵となった。さらにその後、宮中に残された宝物の一部が国に譲られ、これら約320件近くの宝物は、現在東京国立博物館法隆寺宝物館に保存されている。(有名な『聖徳太子及び二王子像』や『法華義疏』などは現在も皇室が所有する御物である)


参考資料: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』