TAZUKO多鶴子

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「エドワード・S・モース』と『縄文時代』2008年2 月 3 日のブログを再度ご紹介

2024-02-19 | TAZUKO多鶴子からの伝言
   



『エドワード・S・モース』と『縄文時代』
2008-02-03 | TAZUKO多鶴子からの伝言
『地球温暖化』で様々な論議をされているが
宇宙と地球の視点から考えると『地球温暖化』は近年に限った事で無いのは、
度々メディア等で公開されていることである。
といっても…産業革命から近代化に於ける人間が行った
拍車をかける温暖化は逃げる事の出来ない事実であろうが…。
日本の歴史を考えると『縄文時代』を無くしては語れない。
この『縄文時代』にも『地球温暖化』があったといわれる。
しかし日本人は
その生態系の変化に
上手くそれに合わせて生活形態を変化させていることが今は分かっている。
宗教観も既にあり『プレ・アニミズム』ともいわれている。
今目の前にある数々の問題ある現実から
今後どのように生きて行くのか…きっと日本人はそれに合わせて
新たな道を見付けることが出来るのではないかと思う。
それは願いでもあり私の希望でもある。
そう思うのは…私が日本人だからかも知れないが…。
今日はその視点で
『縄文』という名の由来の『エドワード・S・モース』と『縄文時代』を抜粋しご紹介します。


「縄文」という名称は、エドワード・S・モース(Edward S.Morse 1838-1925)が1877年(明治10)大森貝塚から発掘した土器を Cord Marked Pottery と報告したことに由来する。この用語は谷田部良吉により「索紋土器」(さくもんどき)と訳されたが、後に白井光太郎が「縄紋土器」と改めた。そして、「縄文土器」へと続いてきた。「縄文時代」に落ち着くのは戦後のことである。
< エドワード・S・モース>
エドワード・シルベスター・モース(Edward Sylvester Morse,1838年6月18日 - 1925年12月20日、モールスと表記されることもある)は、明治初期の東京大学で生物学を講じたお雇い外国人である。大森貝塚(東京都品川区・大田区)を発見したことで知られる。
アメリカ合衆国・メイン州ポートランドの生まれ。ハーヴァード大学ではルイ・アガシーに師事し動物学を学んだ。貝類の研究が専門であった。腕足類の研究のため来日した際、1877年~1880年にかけて東京大学で生物学を教える。ダーウィンの進化論を初めて日本に紹介したのが彼である。日本における科学的な考古学研究の第一歩を記した。
1877年(明治10)6月来日し、横浜から東京に向かう汽車の窓から貝殻が積み重なっているのを見て貝塚であることに気付いた。それが大森貝塚(東京都品川区大井六丁目)の発見であった。同年10月に東京大学の学生等とともにこの貝塚を発掘した。その発掘の成果は、1879年に“Shell Mounds of Omori”の書名で刊行された。その書の中で、日本列島において石器時代が存在したことを立証するとともに、貝塚から出土した土器に縄目文様が付いていることに注目し、“cord marked pottery”と呼んだことから縄文土器の名称が付けられるようになった。
日本の陶磁器や民具に関心を抱き、1882年には収集のため再来日をしている。ボストン市に持ち帰ったものが「モースコレクション」として、当時の生活を知る貴重な資料になっている。(ボストン美術館に陶磁器、セイラム市のピーボディ博物館(現・ピーボディ・エセックス博物館)に民具が収蔵されている。)
晩年、関東大震災で東大図書館の蔵書が全焼したことを知ると、1万冊を超える蔵書を寄贈した。

日本の歴史
<縄文時代(じょうもんじだい)>
*気候と自然環境*
この時代を通じて温暖な気候が続いていたと考えられる。
北海道を除いて列島の大部分が落葉広葉樹林と照葉樹林で覆われた。このように、温暖化による植生の変化は、大型ほ乳動物(マンモスやトナカイ、ナウマンゾウやオオツノシカ)の生息環境に適せず、日本列島からほぼ全滅してしまう。
海面の高さは、現在より2~3メートル高く、日本列島の周りには平地が余り見られなかった。
*旧石器から縄文へ*
寒冷な気候の再来したヤンガードリアス期までが、ほぼ草創期に相当し、すぐに温暖化に向かい、早期を迎えることになる。(→晩氷期)
この期の特徴の一つは、「有舌尖頭器」(有茎尖頭器)といった、新しい道具が短期間に数多く出現したが、短期間のうちに消滅したことである。また、この期の前半は、遺跡によって出土する石器群の種類が違っている。それらのことは、急激な気候の変化に伴う厳しい環境の変化に、列島の旧石器人が対応し、適応していったことの証拠である。
急激な環境の変化に伴って、森林も落葉広葉樹と照葉樹へと遷ってゆき、動物相も変化した。(→シカやイノシシ)温暖化は、また、海水面を上昇させ、海が陸地に進入してきて、各地の沿岸に遠浅の砂泥質の入り江が作り出された。(→海進)このような環境が、貝類の棲息、魚類の産卵・餌場の格好の場所となった。(→貝塚)
このような環境に対応した道具を開発し、技術を確立した草創期こそ、旧石器時代から縄文時代への移行期であり、縄文文化を成立させるための準備期間であったと考えられている。この期の遺跡から、竪穴住居跡や新しく生活用具として開発された植物質食料の製粉具の石皿と磨石(すりいし)が発見されている。旧石器時代の採集・狩猟を中心とした活動から植物採集~狩猟・漁労活動へと飛躍的に生活を発展させた時期でもあった。

年代でいうと今から約1万6千5百年前から約1万年前、地質年代では更新世末期から完新世にかけて日本列島で発展した時代であり、世界史では中石器時代ないし新石器時代に相当する時代である。旧石器時代と縄文時代の違いは、土器の出現や竪穴住居の普及、貝塚の形式などがあげられる。
沖縄では貝塚時代前期に区分される。地域によって生業戦略は異なるものの、豊かな自然環境の恩恵に最適化しつつ、植物質の食料戦略を成功させ、狩猟採集を基調とした社会でありながら、造形的で多様性と象徴性に富んだ土器文化を発達させた。遺跡数や土器型式の多様性からみて、縄文文化は東日本の方で、より繁栄していた傾向がある。これは森林の生産性とも関係すると考えられる。
*縄文人のくらし*
遺物としては煮沸器具である縄文土器が、住居は竪穴式住居が多くみつかっており、集落を構成していた。縄文時代を代表する狩猟具は、弓矢である。矢の先端には、石の鏃として石鏃が使われた。弓・弦・矢柄とも植物が使われている。縄文人は盛んに弓矢を使って狩猟活動をしていた。
また、石器の産地の考察から、縄文時代にも海洋を越える交易があったことも分かってきている。また、死者を埋葬した跡があることから、縄文の人々には初期の宗教観があったことも確認されている。
従来の歴史書では縄文時代は、人々は主に植物採取・狩猟や漁撈をして、少人数の集団が移動をしながら暮らしていた素朴な時代と考えられていたが、近年の考古学上の発見により、縄文時代観が大幅に塗り替えられつつある。
例えば、1992年から発掘が始まった青森県青森市の三内丸山遺跡の調査により、長期間にわたって定住生活をしていたことや、クリ、ヒョウタン、ゴボウ、マメなどを栽培していたことがわかっている。三内丸山遺跡を象徴する巨大木造建築物も発見された。
*環状石籬(かんじょうせきり)*
縄文時代の大型遺構の一つに配石遺構がある。ヨーロッパのストーン・サークルに因んで環状石籬と命名された。共同墓地で、共同祭祀が行われた。北海道から中国・四国地方まで分布し、発見例が増えてきている。ここでも、既述の石器づくりや土器づくりで考えたように、集落をこえる村落規模の社会が出来上がっていたのではないかと考えられている。
*稲作のはじまり*
現在ではプラント・オパールの研究により、縄文時代後期から晩期にかけては熱帯ジャポニカの焼畑稲作が行われていたことが判明している。
イネの品種には、ジャポニカ(日本型)・ジャバニカ(ジャワ型)とインディカ(インド型)があり、ジャポニカは更に、温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカに分かれる。
温帯ジャポニカは、中国の長江北側から、日本列島というごく限られた地域に水稲農耕と密接に結びついて分布している。弥生時代以降の水稲も温帯ジャポニカであるという。
熱帯ジャポニカは、インディカの分布と重なりながら、更に広い範囲に分布し、陸稲と密接に結びついているのが特徴であるという。
列島へは、まず、熱帯ジャポニカが南西諸島を通って列島に伝播したという。温帯ジャポニカによる水稲農耕の始まりも近年の稲DNAに基づく研究では、DNAの多様性が半島の方が少ないことから南方経由の可能性が高いとされる。

参考資料: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』