青空、ひとりきり

鉄路と旅と温泉と。日々の情景の中を走る地方私鉄を追い掛けています。

法衣、三依の帰依。

2023年12月17日 11時00分00秒 | 野岩鉄道・会津鉄道

(歴史の碑、秋に眠る@中三依温泉駅前)

既に初冬の雰囲気のある、冷たい風の中三依温泉駅前。人跡未踏の山岳地帯を往く野岩鉄道の駅の中では比較的集落の中にある駅なんですが、駅前のロータリーの片隅に、ひっそりと植え込みに覆われた石碑がありました。「野岩鉄道会津鬼怒川線開通記念碑 昭和六十一年十月九日 中三依駅祝賀行事実行委員会」とある。当時は「温泉」はついてなくて、中三依温泉駅は中三依駅、お隣の上三依塩原温泉口駅は下野上三依駅という名前でした。野岩鉄道開通当時の時刻表を見ると、新藤原始発はなく、新栃木発や下今市で分割された東武電車がそのまま野岩鉄道まで乗り入れてくるダイヤだったようです。そして、中三依折り返しが一日3本。この辺りまでは沿線住民の乗車需要が高かったということなのだろうか。ただこんな石碑を残すくらいだから、当時の中三依に暮らす人々にとって、鉄道の開通がどれほど待ち焦がれていたものだったかというのは想像に難くない。祝賀行事をおこなうくらいの慶事は、今から37年前の、秋の日のこと。

中三依温泉駅は、集落を見下ろす築堤の上に島式のホーム1面2線の設備。野岩鉄道の中間駅の中で、交換設備があるのはここと川治温泉・上三依塩原温泉口の3ヶ所だけなので、線内では比較的交換シーンの多い駅です。駅舎は小さなプレハブ小屋のような造りになっていて、既に長い間シャッターが閉じられていますが、ここに昔は出札窓口でもあったのだろうか。それとも、余りに小さすぎるから自動券売機の設備のみがあったのだろうか。おそらくもう今後一切開くことはないのだろうけど・・・中三依の集落には未だに郵便局や交番、小学校と中学校(日光市立中三依小・中学校)があって、会津西街道の栃木側では最後の集落らしい集落でもある。駅の近くには、行政が観光振興のために掘削した温泉(中三依温泉男鹿の湯)とキャンプ場があるのだが、泉温が低いため通年営業しておらず、冬場になると営業をやめてしまうのがネック。以前、子供と南会津の旅に出かけた時に立ち寄ったことがあって、優しく清澄な湯であったのを覚えている。

色鮮やかな紅葉を横目に、中三依温泉駅に滑り込む6050系。かつては、6時台から20時台まで上下で毎時1本の本数は確保されていて、それなりに沿線の通学や移動の需要などもあったのだろう。今は特急リバティを含めて6時台から20時台までの有効本数は10本。日中では2時間程度列車のスジが開くタイミングもあったりして、沿線を乗り撮りして回るのはなかなかしんどいものがある。周辺には「クマ出没注意」の看板がたくさん置かれていたのだが、日本の山里は最近人よりクマの方が住みやすくなってしまった感じもあって。現在の中三依温泉駅の利用客数は日に10人~20人程度というデータがあるが、コロナの前の話だから、今ではどんなものなのだか。

地名の由来にもなった三依山への稜線を眺める中三依温泉の駅前。カラマツ林の向こう、標高の高い場所では既に葉が落ちていて冬山の気配があった。駅前には宝蔵院という大きなお寺さんがあって、そこの大銀杏も見事なものだ。中三依、上三依の「ミヨリ」という地名、会津西街道沿いにはもっと北の方に上三寄(かみみより)という場所もあったりして、この辺り特有の地名の特徴な気がします。上三寄は、現在の会津鉄道の芦ノ牧温泉駅周辺の地名なんですが、そう言えば、国鉄時代は同駅の駅名も「上三寄」でしたね。地名の由来は、「三つの川の寄り合わさるところ=三依・三寄(ミヨリ)」ということなのだそうです。

駅前で徒然なる時間を過ごしていると、お寺の扉ががらりと開いて法要を終えた一家が出て来た。お務めを終えたお坊さんに丁寧に礼を言って駅前の道を帰って行く三世代の家族の背中と、見送る六地蔵。そして野岩鉄道の列車。会津西街道の小さな小さな集落に続く山里の暮らし。家族の未来に、三依の未来が続いていますように。

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