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MASQUERADE(マスカレード)

 こんな孤独なゲームをしている私たちは本当に幸せなの?

ドゥルーズ『シネマ』を巡る「真理」の扱い方

2020-04-08 00:19:56 | Weblog

 フランスの哲学者であるジル・ドゥルーズ(Gilles Deleuze)の著書『Cinéma 1: L'image-mouvement』(1983年)と『Cinéma 2: L'image-temps』(1985年)はベルグソンの哲学と映画を同時に論じた難解な哲学書でなかなか邦訳が出なかったのだが、それぞれ『シネマ1 運動イメージ』(財津理、斎藤範訳 法政大学出版局)が2008年に、『シネマ2 時間イメージ』(宇野邦一、石原陽一郎、江沢健一郎、大原理志、岡村民夫訳 法政大学出版局)が2006年に出版された。
 訳されたところで難解なので読んではいないのだが、最近になって入門書として『眼がスクリーンになるとき ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』』(福尾匠著  フィルムアート社 2018年)と『わたしたちがこの世界を信じる理由: 『シネマ』からのドゥルーズ入門』(築地正明著 河出書房新社 2019年)が続けて出版された。前者がベルクソン哲学に重心が置かれているとするならば、後者は映画に重点が置かれており、個人的には先に後者を読んで、物足りなければ前者を読むことをお勧めする。
 ところで気になったことがあって、『わたしたちがこの世界を信じる理由: 『シネマ』からのドゥルーズ入門』には何故か参考文献として『眼がスクリーンになるとき ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』』が挙げられていないのである。同じ本を論じているのに参考文献に挙げないのは不自然ではないだろうかと思いながら後者を読んでいたら、『シネマ2 時間イメージ』の訳に関する間違いの指摘や(p.92、p.208、p.213、p.246、p.251)、その翻訳者の一人である宇野邦一の意見に対する批判(p.239)が原因なのではないかと思い至った。何故ならば築地正明の著書には宇野邦一が推薦文を寄せており、さらに宇野とドゥルーズの私信も引用されていることから、宇野は築地の恩師らしく、そうなると宇野の訳も見解も批判している福尾の著書を黙殺せざるを得ないであろうと想像はつくのであるが、「ドゥルーズ哲学的」に正しい身ぶりであろうか?
 『シネマ』に関してざっくり言うならば、私たちは如何にして「クリシェ」から逃れることができるのかという考察で、そこで自由間接話法を駆使する「映画的思考」が上手く機能するのではないかということである。


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