MASQUERADE(マスカレード)

 こんな孤独なゲームをしている私たちは本当に幸せなの?

『偽大学生』

2018-02-25 00:32:14 | goo映画レビュー

原題:『偽大学生』
監督:増村保造
脚本:白坂依志夫
撮影:村井博
出演:若尾文子/藤巻潤/ジェリー藤尾/船越英二/中村伸郎/伊丹一三/村瀬幸子
1960年/日本

実存主義者の「妄想」について

 主人公で浪人生の大津彦一は今年も大学入試に落ちてしまい、既に4浪している身としては試験に落ちたとは言いだしにくく、下宿先の夫婦や故郷で暮す母親には合格したことにして、東都大学の学生服を着て喫茶店で読書に耽っていたところ、東都大学の歴史研究会のリーダーの空谷と知り合い、歴史研究会のメンバーに空谷が警察に連れていかれたことを伝えに行ったことを縁に大津も研究会に参加することになる。
 空谷の釈放を求める運動にも参加した大津は警察ともみ合いになって捕まった他の学生と共に警察へ連れていかれるのだが、大津が偽の大学生であることを知っていた警察は大津をすぐに釈放してしまう。
 木田靖男など他の学生が3日間留置所に入れられていたのに、大津だけがすぐに釈放されたことに疑いを持った木田たちが学生簿を調べて大津が偽の大学生であることを突き止める。警察のスパイと疑われた大津は木田たちに研究会が使っている部屋に監禁され厳しい取り調べをすることになる。警察のスパイであるならば大津を利用しようと目論んでいたのである。大津はただ母親に大学の入試に失敗したと言えなかったために大学生の振りをしていたのであるが、大津の返事の曖昧さが却って疑惑を強めることになる。大津のみならず木田たちもめんどくさい事態に陥るのではあるが、監禁してしまった以上双方後には引けなくなってしまうのである。
 木田と高木睦子の監視を隙をついて大津は縄を噛み切って脱出するのであるが、今度は逃走中の大津を見つけた警察の取り調べで署内に「監禁」されてしまう。
 大津が逃げたことを知った他の学生と共に、木田や睦子は大津の痕跡を消すために証拠になるものを全て燃やし、歴史研究会の部屋も娯楽施設に変えてしまったため、大津が警察署員と現場検証に来た時には跡形もなく、法廷においても歴史研究会の顧問の国恭介助教授の助けで学生たちは全員無罪を勝ち取るのである。
 木田たちが保釈祝いをしているところに大津と彼の母親が現われ、2人で今回の件について懺悔するのであるが、睦子だけは納得していない。睦子は大津の肩を持つのであるが、大津は自分が東都大学の正規の学生であると言い出し、大津の掛け声で全員での万歳三唱の後にそのまま精神病院へと送られる。
 精神病院で大津は「保守、倒せ」と繰り返し叫びながら室内を歩き回っており、それを窓越しに観察している医師たちに「ニュータイプのクレイジー(意訳)」だと笑われているのであるが、ここに本作のアイロニーがある。つまり最高学府で勉学に励んでいる学生と精神病院に入る患者とは紙一重であることをほのめかしているのである。

 ところで本作は原作者の大江健三郎の許諾が得られず、DVD化も放映さえされていないらしい。何故なのかを考えてみたい。
 本作の原作である『偽証の時』の初出は「文学界」1957年10月号らしいのだが、何故か文庫にも入っておらず、『大江健三郎全作品1』(新潮社 1966.6.25)で読める。『偽証の時』は名前は明らかにならないのだが、本作の高木睦子の目線でストーリーが展開し、冒頭は木田と睦子が偽大学生を監禁している場面から始まる。つまりそれまで本作で描かれているような偽大学生の描写は無いのである。
 『偽証の時』のテーマはタイトル通りに、最高学府の学生や教授が悪知恵の「偽証」による牽強付会により「弱者」を自分たちの都合の良いように扱い、その上、「弱者」も仲間と認められたいがあまり彼らに迎合してしまう傾向に警鐘を打っているのである。
 『偽証の時』はあくまでも実存主義によるリアリズムであったはずで、それを象徴するフレーズとして「私の掌の傷は黒ずんで汚い色のかさぶたがこびりついているだけになっていた。(p.92)」とあるように睦子が大津に咬まれて負傷した手の描写がその後もかなり細かく描かれているのである。ところが本作では睦子は手に怪我をしたと訴えても彼女の手には傷一つない。それどころかこの監禁事件が紙面で明らかになった日付は昭和35年5月7日で、裁判は6月に開かれており、検事の言葉によれば先々月の13日から15日にかけて大津は監禁されていたのだから大津は4月13日から15日にかけて監禁されていたことになる。そこから5月7日まで時間が無駄に経過している理由がよく分からず、どうも本作では実は監禁事件とは大津の妄想だったのではないのかという含みを持たせているのである。
 実存主義者の大江健三郎としては「妄想」で終わらせることに抵抗があったのだと思うのだが、大江は本作に対してソフト化も放映も認めず、『偽証の時』という短編も単行本、文庫本共に収録させておらず、まるで自分の「妄想」として最初から何も存在しなかったかのように振る舞ってしまっているところが興味深いのである。


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