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「昭和史裁判」半藤一利/加藤陽子

2023年05月10日 08時40分58秒 | 読書(昭和史/平成史)


「昭和史裁判」半藤一利/加藤陽子


以前(2018年)読んだ本の読み返し。
前回読んだ「昭和の名将と愚将」は、軍人を対象としていた。
今回は、文官たちを俎上に載せてその功罪を問う。

検事役が半藤一利さん、弁護人が加藤陽子さん。
二人が議論しながら、心情や状況を掘り下げていく。
こうして「日本のいちばん長い昭和反省会」が始まった。

第1章 広田弘毅↓
昭和23年、A級戦犯として絞首刑執行される(70歳)
Kohki Hirota suit.jpg 

第2章 近衛文麿↓
昭和20年12月、服毒自殺(55歳)


第3章 松岡洋右↓
東京裁判の判決を待たず結核で死去(66歳)
辞世「悔いもなく怨みもなくて行く黄泉(よみじ)」


第4章 木戸幸一↓
A級戦犯となるが、後に仮釈放される
昭和52年、宮内庁病院にて87歳で死去(肝硬変)
Koichi Kido.jpg 

第5章 昭和天皇↓


P94
半藤:ほとんどの日本人に理解できない。なぜなら、自分は天皇の次に偉いと思っているんだ、と

P96
加藤:なにしろ五摂家です。天皇の前で椅子に深く腰掛けて、足までくんでおしゃべりしたというのは近衛さんだけだったという逸話はゆうめいですね。

P100
加藤:政治家の死というのは、お金の切れ目なのだということを感じたと、近衛自身が記しています。

P120
半藤:昭和20年の太平洋戦争間際にトップに立った人たちはみんな、みんなと言っても参謀本部と軍令部は別ですよ、それ以外の人たちは、このまま戦い続けて国内が混乱し、ついに共産革命が起きたらどうしょうかということを本気で心配するんです。そうならないためにも早く降伏したほうがいいと、こうなるわけですね。木戸、近衛はもちろんですが、海相の米内光政も、実はそれを心配したのです。

P127
半藤:近衛は遺書で「僕は支那事変以来、多くの政治上の過誤を犯した」と自ら認めておりますが、その失敗の責任はあまりに大きい。泰淳は同情したかもしれないけれど、天皇はこれを許さないのです。

P184-185
加藤:蒋介石にとっては戦争の責任者の断罪などどうでもいいのです。中国における日本人の個人の私有財産も含めた日本の現物財産、あれをとにかく置いていってくれればいいと。

P194
加藤:当時、上海の日本人社会には序列というのがありまして、いちばん偉いのが外務省。次が日銀や横浜正金といった銀行系です。三井物産はそのつぎだったようですね。

P205
加藤:「フリードリヒ大王や、ナポレオンのような行動、極端に云えば、マキャベリズムのようなことはしたくないね」ということを天皇がおっしゃったと内大臣の木戸幸一は日記に記していますが、これは南部仏印進駐についてのコメントです。

P220
半藤:松岡(洋右)がやったことのなかで国際連盟脱退は、最大のまちがいであったと私は思っています。

P227
半藤:それにしても、天皇はなぜあれほど松岡を嫌ったのか。昭和天皇という人は不思議なくらい個人の悪口は言わない人なのですが。

P233
半藤:「東亜新秩序」というのは近衛文麿がいいだした言葉ですが、では「大東亜共栄圏」はだれがいいだしたかといいますと、これが松岡なんです。昭和15年(1940)8月1日だそうですよ。

P252
半藤:木戸と近衛は学習院、京都大学法学部の同級生。この同級生づき合いと華族ネットワークが木戸を表舞台に押し出したわけですね。

P265
加藤:幕府と協調していくことを決めた瞬間、もしくは長州藩に宮中側近を変えられてしまった瞬間に、孝明天皇はすべての権力を奪われてしまった。そういうイメージが西園寺と木戸のあいだには共有されています。だからこそ親政には反対だった。親政で突破しても陸軍が言うことを聞かなかったらおしまいだという認識だったのです。

P267
半藤:日本の国のためにはこれからという大事というときに悪い人(木戸幸一)を選びましたね。陸軍にはおべっかを使い、右翼には色目を使うような人が速記にいたということは、まことによくなかった。

P295
加藤:「戦争中は羊を飼って自家製の食物での食事療法をしていました」と、のちに秩父宮妃殿下が語っていますが、秩父宮夫妻も白州次郎・正子夫妻と同じようなライフスタイルで戦中を過ごしていたのですね。白州夫妻は太平洋戦争が始まると、あっという間に鶴川の田舎に引っ込んで、お米や麦やジャガイモを作って暮らすわけですから。これが真の上流階級の、第二次世界大戦期の過ごし方でした。(武蔵と相模の間に位置することから、無愛想をもじって邸を「武相荘」と命名した。いまでは一般公開されている)

P323
半藤:じつは海軍は情けないことに、潜水艦の実践的な使い方を知らなかったのです。第一次世界大戦のドイツ潜水艦の猛威にイギリスが音を上げたという戦訓がありながら、潜水艦は輸送船を狙うべきものだということに気づいていなかった。(中略)それには理由がありまして、日本海軍は敵の艦船を撃沈しても、輸送船は1点なんです。いっぽう戦艦は10点。高得点なのは戦艦と航空母艦でして、つまり論功行賞のためには輸送船なんか沈めてもたいして稼ぎにならなかったわけです。(日本の点数主義の根は深い)

P330
加藤:天皇は、終戦に持ち込むには戦果を上げてからでないと内乱になると思っていました。そんな天皇に引導を渡したのが貞明皇太后でした。皇太后が自分は疎開しない、と言ったときです。

P332
加藤:戦争責任については、政治的責任と道義的責任という分け方で考えるのが通常の発想です。天皇に政治的責任がないのはむろんのことです。けれども「天皇陛下の御ために」と、死んでいった将兵の家族に対しては申し開きがたたないという意味で、道義的責任はあるのではないかという議論。

天皇の無答責について
P389
注釈:つまり政治的、行政的な責任は政府が有しており、君主個人に帰するものではないというわけである。いっぽう昭和天皇の戦争責任を「有り」とする立場からは、天皇は開戦を承認し、終戦を決断しており、政治的決定過程において最終的な決定権者としてふるまっているとする。そのことからも政治的責任があるとされる。

P398
半藤:木戸と近衛は仲がいいように思われがちですが、じっさいは違ったのでしょう。

P402
半藤:天皇がいつも総理大臣に言う言葉が、3つありました。国際協調と、憲法遵守、そして経済の安定です。

【おまけ/ツーショット特集】
このツーショットはレア ↓
(蒋介石と毛沢東)

近衛は長身だ ↓
(近衛は片手をポケットに入れている)

近衛と木戸 ↓
(近衛は両手をポケットに入れている)
木戸は152cm、近衛は180cm


【参考図書】

「昭和の名将と愚将」半藤一利・保阪正康
 
「昭和史 1926-1945」半藤一利
「昭和史 戦後篇」半藤一利

「歴史認識」とは何か 対立の構図を超えて」大沼保昭/江川紹子

【ネット上の紹介】
「軍部が悪い」だけでは済まされない。松岡洋右、広田弘毅、近衛文麿ら70年前のリーダーたちは、なにをどう判断し、どこで間違ったのか―昭和史研究のツートップ・半藤さんと加藤さんが、あの戦争を呼び込んだリーダー達(番外編昭和天皇)を俎上に載せて、とことん語ります。あえて軍人を避けての徹底検証は本邦初の試み!
第1章 広田弘毅(開廷に先立って
東京裁判と『落日燃ゆ』 ほか)
第2章 近衛文麿(天皇の次に偉い男
金はなかった、人気があった ほか)
第3章 松岡洋右(外務省「大陸派」
伏魔殿、帝国外務省 ほか)
第4章 木戸幸一(自称「野武士」、ゴルフはハンディ「10」
名家の坊やが抱えたルサンチマン ほか)
第5章 昭和天皇(初陣の日中戦争
勃発からひと月で海軍の戦争に ほか)

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