「戦後和解」小菅信子
2006年 第27回 石橋湛山賞受賞作品。
P81・・・東京裁判主席検察官・ジョセフ・キーナンの言葉
侵略謀議のかどで裁判にかけられるものがあるとすれば、それは日本の裕仁天皇ではなく、スターリン・ソ連首相である。
P180
サンフランシスコ講和には、参加に強い意欲を示した韓国政府も、対日参戦国ではないとして招請されなかった。
P189
1985年の中曽根首相の(靖国神社)公式参拝は、終戦から40年であり、時を同じくして「抗日戦争40周年」を迎え国内でさまざまなイベントを展開しつつあった中国を刺激した。(中略)
今日に続く日中間の靖国神社参拝問題の端緒はこのときの対立に遡ることができる。
P209
大躍進や文化大革命のような社会主義国家の失敗が政権のいわば正当性を喪失させていったのに対して、抗日戦争の勝利の記憶は、政権の正当性の、おそらくは唯一にして最大の拠り所となっている。
【ネット上の紹介】
第二次世界大戦が終わり六〇年が過ぎ、戦争を直接記憶している人も少なくなった。だがいまだに戦争についての歴史認識をめぐり、近隣諸国との軋轢は絶えない。日本はいつ「戦争」の呪縛から解き放たれるのか―。一九九〇年代後半まで、日本軍による捕虜処遇問題で悪化していた英国との関係はなぜ好転し、ここにきて中国との関係はなぜ悪化したのか。講和の歴史を辿り、日英・日中の関係を比較し、和解の可能性を探る。
序章 「戦後和解」とは何か
第1章 忘却から戦争犯罪裁判へ(神の前での講和
揺らぐ忘却―制裁の登場
勝者が敗者を裁く時代へ)
第2章 日本とドイツの異なる戦後(ドイツの選択
不完全だった東京裁判
曖昧化する日本の戦争責任)
第3章 英国との関係修復(日英関係に刺さった棘
さまざまな和解のかたち)
終章 日中和解の可能性