「おじさんとおばさん」平安寿子
先日、「さよならの扉」を読んだが、よかったので、また平安寿子作品を読んだ。
物語は同窓会から始まる。
久しぶりに集まった小学校時代の同窓生。
お互い50代、「おじさんとおばさん」、である。
いくつか文章を紹介する。
さすがに、おばさんの心理描写が卓越している。
P44
夫というものは、妻に楯突かれるのが一番イヤなのだ。しかし、亭主の威厳を振りかざして頭ごなしに叱りつけるのも、苦手である。
どうしたらいいかわからないから、むっつりする。もって、「俺は怒っている」「だから、おまえがなだめないとスメまくるぞ。不愉快が続くぞ。早く、なんとかしろ」とアピールするのだ。めんどくさいったら、ありゃしない。
P46
しかし、手に届きそうなところにいる夫以外の男を、こっちが結婚しているからという理由で片っ端から切って捨てる主婦というのも、皆無である。(中略)
もしかしたら、思いがけず素敵なおじさんになった誰かとの「出会い」があるかも。
スターはウインドー越しに見るだけのブランド服だが、普通の男はバーゲン商品のようなものだ。
P49
結婚して以来、緑は明以外の男と寝たことがなく、それもここ十年ご無沙汰だ。しない習慣がついたら、せずでもオーケーの身体になった。
しかし、まあ、あれは自転車と同じで、ちょっと練習すればカンは取り戻せる。
P77
おじさんを見る目も優しくなった。性的対象として見ていた頃は差別していたしょぼさや加齢臭も、自分の老化と重ね合わせて「お互い、大変ね」と、ねぎらう気持ちになれる。
しかし、こんな風に余裕ができると、そこに甘えたくなるらしく、ときどき、おじさん及び一世代下のお兄さんからお声がかかる。
これがどうにも、うっとうしい。「女」を期待されたくないのだ。
女であることはわたしの属性のひとつであって、全部ではない――これは、80年代フェミニズムのスローガンだ。
当時三十台の久美子は、こんな言い方をする女になりたくないと思った。
(中略)
ところが、更年期を過ぎたら、このスローガンがピッタリ!
P197
歯止めのきかない老化現象は、もはや努力と根性ではカバーしきれない。
(中略)
限界が見えてくる。それが五十台の「大台」たるゆえんだ。
だから、若い頃のように多くを望んで四方八方、闇雲に手を出し、首を突っ込みして、時間を浪費するわけにはいかない。第一、多くを望む膨大で無防備な気力が無い。というか、望みを持つこと自体、忘れてしまうのだ。
解決できない問題を、いつも両手一杯に抱えている。立っているだけで精一杯。それが、五十台だから。
以上、文章紹介オワリ。
かゆいところに手のとどく文章だ。
ところで、私が今まで読んだ平安寿子作品は次のとおり。(スターグレード+覚書日付)
「もっと、わたしを」★★★★★2005/6/18
「センチメンタルサバイバル」★★★☆2005/4/16
「グッドラックララバイ」★★★☆2005/4/30
「素晴らしい一日」★★★★☆2005/4/30
「くうねるところにすむところ」★★★★2006/7/2
「わたしにもできる悪いこと」★★★★2009/5/16
「さよならの扉」★★★★☆2011/6/2
「おじさんとおばさん」★★★☆2011/06/18
【ネット上の紹介】
ひさかたぶりの同窓会に集まった男女たち。みんなもうおじさんとおばさんで、体力気力は落ち気味、介護や子供たちの就職にと心配の種もつきない。しかし、初恋の人に会えば胸がきゅんとし、同時代のテレビ番組、漫画、流行歌を思い出すと懐かしさに気持ちが温かくなる。幾つか新たな同級生カップルもできたが、その恋の行方は?熟年こその「希望」を求める50歳を過ぎた人々に、愛をこめて贈る同窓会小説。