佐野洋子さんと聞いて、すぐピンとくるのは、絵本好きな方でしょう。
「百万回生きたねこ」の著者として有名。
絵本作家としか認識してなかったが、大間違い。
味のある文章で感心した。
それもそのはず、相当な読書家で、様々な経験も積んでいる。
1938年北京に生まれ、その後、引き揚げ。
武蔵野美大に学び、後に谷川俊太郎氏と結婚、その後、離婚。
母とはずっと確執があったが、母が認知症になって、和解。
P34
一昨年の夏、93歳で母が死んだ。
死ぬまでの十年以上、痴呆だった。
正気の母親と私は、実に折り合いが悪く、母を好きだったことはなかった。
死んだ人は皆いい人である。
惚けてからの母と著者の会話
P79
「ねえ、母さん、私もうくたびれたよ。母さんもくたびれたよね。一緒に天国に行こうか。天国はどこにあるんだろ」。
母は言った。「あら、わりとそのへんにあるみたいよ」。
P47
書籍には、間違いなく人類の知恵がつまっているものであるが、同時に毒も盛られているのである。本から離れられない人間は、その毒に魂を吸われているのである。
P98
芸術と信仰ほど、水と油の様に反発するものはないと私は思っている。芸術とは、捨てるに捨てられない自我が生むものである。信仰とは自我を捨てるものではないか。
芸術は大きな真実と大きな嘘を含むものである。
そして表現されたものは残り、人間は死ねばその人間性もほろびる。才能と人格はその才能が大きければ大きい程無関係のような気がする。
枕草子と源氏物語の比較をしている
P114
源氏はあまたの女に情けをかけながら1人として幸せにしていない。若紫も嫉妬に苦しんでみじかい生涯を終えた。
P166
夫婦は中からは容易に破れるが、外からつっついて壊そうとしても決して壊れないものである。
妻子持ちの男と不倫をするお姉ちゃん、やめときなさい。骨折り損です。
多分それは、愛ではなく情だからである。愛は年月とともに消えるが、情は年月と共にしぶとくなるのである。
夫婦とは多分愛が情に変質した時から始まるのである。情とは多分習慣から生まれるもので、生活は習慣である。
離婚した友人夫婦が、何年かして、ある結婚式で、顔を合わせた。式が終わった時、もと亭主が、もと女房に「おい、帰るぞ」とつい言ってしまい、もと女房も「はいはい」とあとをついて行ってしまったそうである。
私は二度目の亭主に、前の亭主の名前で呼びかけてしまうことがあった。

手元にある絵本を読み返した。
やはり良かった。
他の作品も読んでみたくなった。
【ネット上の紹介】
中国で迎えた終戦の記憶から極貧の美大生時代まで、夫婦の恐るべき実像から楽しい本の話、嘘みたいな「或る女」の肖像まで。愛と笑いがたっぷりつまった極上のエッセー集。
1(薬はおいしい
お月さま
「問題があります」まで ほか)
2(大いなる母
いま、ここに居ない良寛
子どもと共に生きる目 ほか)
3(北軽井沢、驚き喜びそしてタダ
幸せまみれ
役に立ちたい ほか)
4 特別附録(或る女)