昭和天皇の大喪の礼も無事に終わり昭和から平成に変わった事をひしひしと胸に感じている日々です。
昭和元年に生まれた私は、激動の昭和と共に生きて来たのです。私の青春時代は戦争の真っ只中でした。その頃は「女にこそあれ我れも行くべき道を行き大和心は劣らぬものを」とただただ大君の為、国の為と幾多の苦しみ、食糧難にも負けず頑張って参りました。苦しくも若かったあの頃、私は村役場に職をおき、税務、戸籍、兵事と忙しい毎日でした。学童疎開の子供達も村でお世話しました。出征兵士の見送り、戦死者の帰還の出迎え、職場も女性と老人ばかりで目まぐるしい日々、その中で北方、南方の兵隊さん宛に慰問文を書いて送りました。眼前の忙しさ、戦死者の悲しいしらせ、悲しい心は書くこともできず、
流れの岸の一本(ひともと)は
み空の色のみずあさぎ
なみことごとくくちづけし
はたことごとく忘れ行く
という詩を添えて書いたのを想い出しました。慰問文のお返事も最初の頃は頂きましたが、だんだんそれどころではなくなり熊谷の空襲を目のあたりに見た恐ろしさ等……。
今では信じられない物資不足、想い出したくない戦時中、戦後のどさくさの色々な事等……。
昭和天皇のお車が皇居を後にして二重橋をお渡りになる時のテレビを見ながら、戦時中の事、戦後の陛下のご苦労がぐっと想い出され、私達家族も涙がとめどなく流れました。
どんなに大変だった事でしょう。でも戦後四十年余の平和な日本、世界各国の方々、日本中の人々に見送られ、さぞ安らかにお眠りになられた事でしょう。
衣食住、何も不足ない今の時代に生きられる私達はなんと倖せなことでしょう。平和を愛し、国民の幸福を思ってくださった昭和天皇の御霊にお答えすべく、皆で時間を大切にして共に学び、共に話し合い、平和で明るい社会を歩んで行くように努力していきましょう。
菅谷婦人会『しらうめ』第10号 1989年4月