Do be Ambitious! 日記館

あくまでも「Do be Ambitious!」の1コンテンツとして。

スキージャンプ夜話 第1夜「ジャンプの歴史(外国編とスタイルの変遷)」

2007年04月17日 | スキージャンプ夜話
まいどおばんでした、野々村です。

今日は大学で胸部X線撮影があったので札幌での合同説明会をパスして
大学に行ってきました。ついでに卒研の打ち合わせが今日あったので休みをあらかじめ
入れて置いたのですが行ってみたら他に説明会に行くと言っていた人もレントゲンで
来ていましたw
自分だけじゃなかったんですなw

さて、世界選手権の前にやろうと思っていたジャンプのコラムですが、いい加減
ほっとくのも何ですし、またやろうかと思います。
とりあえずその時書いたジャンプの歴史外国編を少し手直しして載せようかと思います。
ではどうぞ。

注:五輪などの話題に乗っていらっしゃった皆様へ。
この記事はあくまでもいちファンの個人的な趣味と「もっと色んな人にジャンプを知ってもらいたい」
って感情にまかせて本とかで調べたのを自由研究のノリで勝手にまとめただけなんだから、
変な勘違いしないでよね!?;




ジャンプの始まりは諸説あります。ノルウェーの処刑方法だったという説や、
はたまたノルウェーでも心優しい王様がいかに捕虜を面目を保ちつつ逃がすかを考えた
手続きみたいなものとか色々ありますけどどうやら子供達の遊びから生まれたのが
真相のようです。
記録としてはノルウェーの靴屋の青年がクリスチャニア(現オスロ)の丘で20何
メートル飛んだというのがあるそうです(詳細はいまのところわかりません)。

最初期のジャンプはそれこそ直立姿勢で飛ぶものでした。
下の写真の感じで手はグルグル回し、最初の飛距離はそれこそ20~30mでした。



1930年代まで、ジャンプはノルウェーの独壇場でした。
しかし1924年にシャモニー(フランス)で冬季五輪が始まるとオーストリア、
さらにノルウェーから移住した選手が競技を続けノルウェー技術を改良したアメリカも
力を付け、ノルウェーの牙城を崩しにかかっていました。
(この頃、日本でもジャンプ技術向上が取り組まれていました)

そこでノルウェー勢もジャンプ王国の面目を保つべくアメリカで改良された技術を
逆輸入し上位を保ち続けます。
とはいえ1932年のレークプラシッド(米国)、36年のガルミッシュ(ドイツ)の
2大会連続で五輪を制したビルガー・ルード(ノルウェー:下写真)をはじめとした
その頃のジャンプはまだ両腕をグルグル回すスタイルでした。
冒頭の写真もそんな感じですね。そちらは五輪初代チャンピオンのタムス選手です。


ルード氏のジャンプは動画も残っています、下の画像をクリックしてみてください。


その頃にはジャンプの国際化も進み、飛距離もどんどん伸びて行き1936年、ついに
世界で初めての100m超のジャンプが、何とノルウェー人ではなくオーストリア人の
ゼップ・ブラドルによって達成されました。

その後第二次大戦を挟んだ戦後、しばらくは上のルードのスタイルが多かったのですが
1949年、日本で驚くべき空洞実験が行われました。
それによれば、腕は回さずに体側に止めた方がいいというもの。
これを受けて3年後のオスロ五輪の頃には手を身体につけるスタイルが出来、
56年のコルチナ・ダンペッツォ(イタリア)五輪には下のような深い前傾のスタイル
(日本ではこの大会を制したアンティ・ヒバリーネン選手の国籍からフィンランド
 スタイルと呼ばれていたようです)が出来ました。


しかしその4年後のスコーバレー(米国)五輪で勝ったのは東ドイツのヘルムント・
レックナーゲル(下写真)、この選手のスタイルは競泳の飛び込みのように両腕を
前方に止めるもので、これもあり当時は腕を身体につけるフィンランド型か前に出す
レックナーゲル型かで二派に分かれていたそうです。


しかし64年インスブルック(オーストリア)、68年グルノーブル(フランス)を
フィンランド型の選手が勝ち、レックナーゲル型は姿を消していきました。
そして日本中が日の丸飛行体の快挙に酔いしれた1972年札幌五輪でついに、
手は収まるところに収まったのです(画像はノルウェーのインゴルフ・モルク)。


この頃のアプローチの姿勢はクラウチングを組むときに両腕を身体の前に垂らす
フォアハンド・スタイルでした。あの笠谷幸生もこのスタイルです。
しかし1976年のインスブルック五輪(前回開催から12年しかたっていませんが、
開催予定だったデンバー(米国)が返上したため急遽施設が揃っているここで開催
されたのです)で70m級(現ノーマルヒル)を制した東ドイツのハンス・ゲオルグ・
アッシェンバッハ(下写真)が現在のバックハンド・アプローチを編み出しました。


その後1980年代に入ると東ドイツのバイスフロクなどが出てきますが、
そんな中フィンランドからとんでもないジャンパーが出てきました。
当時はまだ板を揃えるため「落ちる」要素が強かったジャンプの中で1人「飛ぶ」
ような他を寄せ付けないジャンプを連発し「鳥人」と呼ばれたマッチ・ニッカネンです。
84年のサラエボ(当時ユーゴスラビア)で90m級(現ラージヒル)を制すると
そして88年のカルガリー(カナダ)ではなんと、70mm級、90m級で金、そして
この大会から新設された団体戦でもフィンランド代表として勝ち、五輪史上唯一の
三冠王に輝きました。


しかしこの2年前の1986年、ジャンプ界の革命をもたらす新しいスタイルが
1人のスウェーデン人選手によって生み出されていたのです。
ニッカネンさえ敵わないほど飛距離を伸ばすそのスタイルは、スキーの前面を
大きく開く画期的なものでした。
しかし当時はスキーを平行にしないと飛型点を大きく減点されるルールだったため
なかなか勝てなかったのですが、その男、ヤン・ボークレブ(下写真)はさらに距離を
伸ばすようになりついに飛型点の不利さえ跳ね返すほど飛距離で差をつけるようになって
(追記:飛型と着地が安定して板を開く以外の減点がほとんど無くなったことも大きかった)
88-89年のW杯で5勝して総合優勝、90年代に入り他にも彼のようなスタイルで
飛ぶ選手が出てきて活躍しだし、風洞実験の結果この方が距離が伸び、かつより安全だと
科学的にも証明されたため91-92シーズンからこのスタイル、V字ジャンプの
飛型点の減点が撤廃されました。


その後も幾多のルール変更などもあってジャンプのスタイルは目まぐるしく変りました。
94年頃は板の前面を伸ばし、そこの風圧を利用して深い前傾をとるスタイルが流行、
しかし95年にビンディングを先端から57%以内につけなければならないルールに
なってからは船木和喜の出現で身体とスキーが一体になる深い前傾が定着、
現在ではパワーで踏み切り身体をやや折り曲げた立体的なスタイルが主流になって
います。思えば98年長野五輪当時の原田雅彦のスタイルに近いものがあります。
(写真はフィンランドのヤンネ・アホネン)


ということで、ジャンプの歴史を当時活躍した選手を織り交ぜつつ駆け足で紹介
していきました。
次回は日本(主に北海道)のジャンプの歴史を紹介していきたいと思います。
お楽しみに!

参考文献、転用元:Wikipediaとかいろいろ。動画キャプもあり(もう覚えてねぇ)
コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« スキージャンプニュースいろ... | トップ | 金子さん誕生日おめでとう!... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

スキージャンプ夜話」カテゴリの最新記事