霊界の門 ・見えないものの力

霊界や因縁から、現在の自分をみつめ、「見えないものの力」を味方にしましょう。

悪名高き「世良 修蔵」なる人物  3

2011年12月18日 | 心霊現象
 年若な醍醐少将もまた、世良が怖い。
 瀬戸内海の大島で生まれ育った、荒々しい世良修蔵の風貌と
 陰湿で残忍な性格には、腫物にさわるようにしてきたのでだ。
 この歎願書は結局、功を奏さなかった。
 世良修蔵と、大山格之助が一蹴してしまったのである。


 慶応四年(1866)閏四月、奥州列藩平和同盟が成立した。
 仙台藩62万石の大藩を筆頭に、米沢藩15万石、盛岡藩20
 万石、二本松藩10万石・・・・
 こいうして、26藩からなる同盟は、異議なく同意され、成立
 したのである。

 十九日の未ノ半刻、世良は福島に到着。
 金沢屋という妓楼に入った。

 「世良修蔵は、奸悪にして狂暴、礼儀を弁(わきま)えず、
  色を恣(ほしいまま)にし、酒にひたり、賄賂(わいろ)を
  貪(むさぼ)り、濫(みだり)に士君子を怒罵ご辱するのみならず、
  わが君および、九条総督を罵言し、奥州列藩の社稷(しゃしょく)を
  危うせんとした倶(ぐ)に天を戴(いただ)くべからざる男。
  奸悪比するものなし。誅ばつは、もとより・・・・」


 こうして「世良を討て」の命は下った。
 金沢屋は、六間間口というからたいした規模ではないが、福島城下では
 もっとも大きい妓楼で、六間のうち五間が千本格子で、紅殻染めの張見世
 であった。
 世良は、投機隊の赤坂幸太夫と、福島藩の遠藤条之助がかかり、・・・

(この本によれば、ピストルを持つ世良は、二人に向かって二発・・・いや
 二度引き金を引いたという。しかし、不運にも不発だったのである。
 二度も。)

 彼は裸だった。ともあれ酩酊したあげくで、妓と戯れてそのまま寝込んで
 いたことを、物語っているが、その裸身をまとうひまはなかった。
 その後、世良修蔵は捕縛され、長楽寺裏の河原にて、斬首(ざんしゅ)された。
 首級の血は、阿武隈の流れで洗い、世良の首は用意の樽に塩漬けして、その日
 のうちに、白石の仙台藩本営に運ばれた。


            (早乙女 貢著「会津士魂」より)
   
          ◇       ◇



歴史のひとコマとして、他人事としてみれば、事実の内容や、深みが
伝わってくるのを、すんなりと受け入れることは、まだ容易である。
しかし、自分の守護霊としてみなければならないとき、暗澹たる思い
になるのは、誰しも当然であろう。

しかし、後日談になるが、世良なる人物が、一時の出現であり、さらに
背後霊として、たまたまJ青年の同僚W青年(仙台出身)の因縁から、
この場をかりて語りかけた事情を知れば、胸をなでおろした事である。

「世良」なる人物が、なぜ、それもこの時に、守護霊の前に出てきたのかは、
わからない。
しかし、時が経ち、さらにまた時が経ってみて今になると、私なりに、解釈
することがある。

もし、J青年が、「世良」なる者を守護霊として迎えても縁を重んじ、
今の時を重大に思うならば、大歓迎とまではいかないが、覚悟して、
納得して、胆に銘じて事にあたる決意を持ったとしたら、こうは
ならなかったかもしれないと。
守護霊が名乗り出る前に、「世良某」で、結構ですという、彼の二人三脚の覚悟が
見たかったのかもしれない。
あくまでも、結果論だが、いい守護霊だから進めるが、悪い守護霊では
すすめないという地上人の「了見違い」が、正される時だったのかもしれ
ない。
これは、私を含めての反省文である。




その後J青年の守護霊降霊が行われたことは、もちろんである。
いよいよ、滋野一族、禰津家の登場であるが、その話はまたの
機会にご紹介するとして。

本日は、日本史の学びをも含み、大変お疲れさまでした。



悪名高い「世良 修蔵」なる人物   2

2011年12月18日 | 心霊現象
守護霊降霊が初めてだったJ青年のショックは、大きかった。
降霊も初めてであれば、このような壮絶な場面も初めてであった。
みんなこのようなものかと恐れるJ君に、多少の説明が必要だった。
「世良 修蔵」が、自分の守護霊だと思うJ君の気持ちを和らげるため、
この人物について、歴史的背景をもっと知る必要があった。
知ることによって、多少の心構えや覚悟がなされれば、幸いである。
二度目の降霊は、それからでも遅くはない。

しかし、「世良」なる人物は、知れば知るほど、頭をかかえたくなるようだ。
このさい、時を稼ぐことはもういい、むしろショック療法をと、私はK氏
に頼み込んだ。
J君は、気が進まないと、逃げ出せばそれで終わった。にもかかわらず、彼は
再度の降霊に臨んだ。
今度は地上のJ君が自ら、問答を試みる。


J君「世良修蔵さまですか」

世良『(うなず)』

J君「体のどの部分が、痛みますか?
  体全体が、痛むのですか?」

世良『うん。
   ・・・わしゃ、奥州列藩同盟、鉄砲玉じゃき・・・
   会津戊申・・わしが血祭にあげられたことにより、戦争になったい。
   まあとにかく、わしが死んだことによって、わしの死を出発に、戦争は
   始まったよ。
   早く言やぁ、桂(小五郎)にはめられたんじゃきに、おらぁ、ただの
   操り、・・・じゃども、女郎屋で殺されたことが不名誉かな?
   まあ、スキを見せるところは、そんな時じゃき、それを狙うのもあたりまえ
   じゃき。わしだって、狙うときゃあ、そこを狙うが・・・
   でもそうだな、だいぶあちこち痛かったけんど、桂を怨むひまもなくて。
   それが救いだったな。

   こっちへ来てな(霊界へきて)、恨むひまもなかった。
   ようするに、わしが極悪非道なことを、すればするほど敵もふえる。』

J君「極悪非道とは?・・・たとえば」

世良『まあ、略奪・・・うん・・
   まあ、言い訳じゃないが、わしの部下使って、させたことだが、・・・
   略奪・・・自分がやはり、しょせん賢い人に使われてしまうきに、
   あほなもんだ!』

J君「どこの出身ですか?」

世良『長州の出身。(以後、沈黙)』



上の記録で、なぜ私が守護霊と書かないか、おわかりだろうか。
後でわかるが、「世良修蔵」は、背後にいて、たまたま今出てきた
ご仁であり、J君の守護霊「禰津氏」の了解を得て、この場を与えられた
ことであろう。

やはり「世良修蔵」か。
J君はのがれられない覚悟で、この場に臨んだはずだ。

その後のK氏の談によれば
あのとき、「金沢屋」(妓楼)にて、絶命している。
それも、あっという間の出来事で、本人がむしろ面喰っているくらいだ。
敵がはたして、どこの誰であるかわからないまま、一瞬の間に「事」は
終わった。
そして、あの世へ行った世良修蔵の心の中は、「桂 小五郎」にはめられた
ことが、蘇ってくる。

        ◇          ◇

今から約百数十年前、明治維新のひきがねともなったあの「戊辰戦争」は、
会津、仙台の両藩を中心とした徳川方と、長州・薩摩の二藩を主とした天皇側との
二大勢力の方向性を決する重大な内容を賭けた、日本の歴史上かつてなかった戦いの
様相を呈していた。

当時の会津藩主「松平 容保」は、時の天皇、孝明(銘)天皇のたっての命を受け、
幕府側の名誉を賭けて、京都鎮圧に腰を上げた。
その後、新撰組を混じえての会津藩のゆく末は、「白虎隊」の物語等も内包しながら、
悲哀そのものとして、周知のとおりである。
会津が「容保」と「白虎隊」という二つの星を、歴史に残したこの戦いの全期間、
一貫して悪名高い部分をほしいままにしていた、一人の男がいる。
それが「世良修蔵」である。

『周防(すおう)の大島に生まれて、時代の波に押し上げられ、
 思いがけなく奥州鎮撫総督府下参謀の肩書を得て、権勢をふるっていた世良修蔵は
 成り上がり者が、時勢によって権力を得たとき、この病的な劣等感は裏返されて
 恐るべき加虐性となってあらわれる。

 九条総督がその大任を痛感していたら、また総督たるにふさわしい人物だったら、
 会津容保主従の血のにじむような歎願書を、自分の責任で受理し、降伏開城の措置を
 とったろう。
 が、九条道孝には決断も判断力もなかった。


<次へつづく>    

悪名高き「世良修蔵」なる人物   1

2011年12月18日 | 心霊現象
今日は皆さまから、たっぷりと日本の歴史を勉強して
いただきましょう。
と言う私が、歴史に疎(うと)かったことは、前にも
お話ずみですが。

いきなり、「名前」を言われても、何時代の何をした人かは、
案外わからないものです。
タイトルにも書きました「世良修蔵」なる者をご存じのかたは、
よほどの読書好きか、歴史好きと拝察いたします。
その「人物」が、ある青年の守護霊降霊時に、いきなり出て、
それも「惨殺」の模様を再現するなど、心構えの何一つない
私らを、びっくりさせ、戸惑わせたものでした。

その時の私の問答は、やはり前もって見ていた(いや、見せられて
いた)TV映画の「白虎隊」からの知識が大きく働いていたことは、
たしかである。
そうだ。幕末、あの悲劇の一幕、会津藩主「松平 容保」(まつだいら 
かたもり)と「白虎隊」と、藩内の領民の戦いぶりは、今も日本人の
心をゆさぶり続けているのだ。

そこに現れた一人の男、世良修蔵なるものは、何者か。
これより語る、その人物の生の声からお察しあれ。
「戊辰戦争」「奥州列藩平和同盟」「桂 小五郎」、いくつの単語を
並べても、わからない者には、わからない。
あとで、紙面があれば、ご紹介しょう。
今日は、日曜日。時間がたっぷりある方のために、歴史のひとコマにひたって
いただきましょう。



青年は二十三、四歳。
K氏の仕事関連の会社の社員だった。
仕事も休みがちで、その会社の上司も困っていたやさきだった。
たまたま、仕事の打ち合わせで訪ねたK氏の脇で、休む、休まない、
やめる、やめないの押し問答が、聞こえてきた。
「何か?」声をかけたK氏。
霊界が、これをもって地上にコンタクトを取った瞬間だった。
縁はどんなとこにあるかわからない、ということである。
この青年は、あとで知ることになるが、滋野の一族であった。
しかし、この時はまだわからない。
いよいよ青年の守護霊降霊である。



最初その人物は、鉄砲を構える風を見せて、苦しみはじめる。
横になり、のたうちまわるのみだ。
すさまじいまでの、苦しみと、うめきの連続である。通常の対話は無理
とふんだ私は、中止を決意した。
霊能者K氏は、脂汗を流して、うめいている。
私は、K氏のうえに、馬乗りになって、霊に叫ぼうと構えた。
その間数回、振り落とされそうにはなったが、私の声の方が勝って
いた。大声で問うた。

「あなたは、何者。なぜそのように、苦しみます!」

いきなり、パンチが飛んできそうな気配だ。

「私が、誰かわかりますか!」
(地上の名前は、わかるはずもない。しかし、霊なら、私の守護霊くらいは
 わかるかも・・という事で声をかけた)

『(無言)』

「あなたは、J君の守護霊ですか?」
 (わずかにうなづいたような気がした)

「お名前を!」

『(ただ、うめくだけ)』

「その苦しみは、何ゆえのものですか。
 今わの際の思いを、お話くだされい!」

『いたい!』

「それは胸ですか、腹ですか、・・・それは鉄砲によって、
 それとも刀で・・」

『全身が痛い!』

「あなたのお名前を!」
(終始大声で叫ぶ私の声が、かすれ始めた)

青年は、息をのんで、すくんでいる。

『せら、・・・しゅう・・ぞう。せら、しゅうぞうで、ごわんど』

霊人は「せら、しゅうぞう」なる人物だ。
K氏は疲労困憊。放心状態だ。この場」は一応中止となる。
その後、K氏が説明するには、頭の部分にヒラヒラする「かぶりもの」が
見えたという。
つまり、あの幕末の頃、薩摩、長州軍のかぶった「官軍」のかぶりもの
「赤毛」であろうと思われる、というのだ。
さらに、「せら、しゅうぞう」と名乗る人物の最期は、まさしく壮絶な
惨殺模様であって、全身滅多刺しであったという。
そして、のどには血がつまり、言葉もよく発せられず、また、呼吸も
苦しかったとK氏は伝えている。

官軍の「世良修蔵」なる人物の最期は、血の海の中で、のたうちまわって
息を引き取ったという、実にむごたらしい情景を、我々に見せつけたのだった。



<次へつづく>