霊界の門 ・見えないものの力

霊界や因縁から、現在の自分をみつめ、「見えないものの力」を味方にしましょう。

再び「龍の絵」・・・その意味するもの

2012年02月15日 | 心霊現象
以前に「龍の絵」ということで、お話をいたしました。
今年は「干支」(えと)が丁度「辰年」ですから、話もぴったりはまりやすいでしょう。

絵の中の「龍」はへび、つまりエデンの園にいた「へび」、その手にしっかりと握っている玉は?
人から取り上げた「人の道」つまり「真理」「天法」だった。
それを取り上げられた人は、行くべき道がわからないという「無知」からくる、「死んだ人」になった。
それ以来人間には、「宗教」とか「哲学」とか「真理」とかを捜し求める宿命の旅がはじまる。
その行為は霊的にみれば(いや、肉的にみても)恐ろしい龍の手から、玉を取り戻す命がけのものとなる。
だから求道者の道は、危険をはらんだ筆舌に尽くしがたい路程となっていくのは、当然なことだった。
それでも歴史から選ばれた数々の代表選手たちは、その命に代えて、何らかの「形」を取り戻してきた。


一、エデンの園の「へび」は人間の言葉を、話せたのか

 エデンの園の住人(?)を考えてみる。
 アダム、イブの二人の人間と、失礼ながら神だ。
 この三者からは、唆(そそのか)しの言葉がはかれるわけがない。
 とすれば、他に誰かいるか?
 いるのだ。人間でもなく、神でもなく、霊をもった、いや持って創造された「もの」が。
 それが「天使」だ。キリスト教ではよく聞くことだ。
 仏教では「飛天」や「菩薩」などであろう。神道では天津神になる。天上界の神々だ。
 
 その天使の役割は、人間の誕生前から創造され、もっぱら神の天地創造に携わって、働いてきた。
 神の使いであり、僕だ。人間の創造後は、人間の使いであり、僕となる立場だった。
 天使には名前がある。くわしくは、その手の専門家からお聞きになっていただきたいが、
 あのエデンの園にいた天使は、主たる天使、つまり「天使界」を司る役目だった次の三者だろう。
 「ルーシェル」「ミカエル」「ガブリエル」だ。
 よくご存じの方も多いと思う。いわゆる仏教の家に育った者でさえ、何かで教わったか、聞いたか
 絵などで見たかしている。
 その三者の一人(あえてこう表現させていただく)が、美しい天使ではなく、「へび」の心となって
 女(イブ)に近づいた。
 霊界では「その心根」が、形となって現れる世界である。
 しかし、イブは文字どうり「うぶ」だったから、「へびのおじちゃん」くらいにしか見えなかったの
 だろう。

 そして言葉が聞こえた。
 神がやってはいけないという事を、やってもよいと教えた。
 さらに、それによって目が開け神のようになるとも言った。
 へびにたいする警戒心は、イブにはない。
 「まさか」の事態がこのようにして、起こった。
 まさか、天使が・・・、まさか、イブが。そして最後の砦であるアダム。
 アダム、おまえもか!(絶叫する神の声がきこえてくるようだ)

 
 『さて天では戦いがおこった。
  ミカエルとその御使(みつかい)たちとが、龍と戦ったのである。
  龍もその使いたちも応戦したが、勝てなかった。
  そしてもはや天には、彼らのおる所がなくなった。
  この巨大な龍、すなわち悪魔とかサタンとか呼ばれ、
  全世界を惑わす年を経たへびは、地に投げ落とされ、その使いたちも
  もろともに投げ落とされた。』

            <聖書・ヨハネ黙示録12章7節~9節>

これは、いずれくる救いの時を伝えたのであろうが、御使いの中でも、サタンであり、悪魔であり、龍であるものの存在を記している。



 二、次の展開・・責任転嫁(罪のなすりあい)

  エデンの園で、その後何がおこったか。神の足音を聞いて、二人は木の間に隠れた。
  なぜ、隠れたのか。(神から隠れるくらいの事をしたという証明)
  なぜ裸だと分かって、かくれなければならない?(裸は罪?悪?いつからそうなった?)
  なぜ、木の葉で腰を隠した?(罪をそこで犯したという証明)
  

  再び「聖書」から。   
 
 神 「あなたはどこにいるのか」
 ア 「わたしは裸だったので、恐れて身をかくしたのです」
 神 「あなたが裸であるのを、だれが知らせたのか。食べるなと命じておいた木から、あなたは
    取って食べたのか」
 ア 「わたしと一緒にしてくださったあの女が、木から取ってくれたのでわたしは食べたのです」
 神 「あなたは何ということをしたのです」
 イ 「へびがわたしをだましたのです。それでわたしは食べました」

誰も「スミマセン、私が悪かった、許してください」とは言わなかった。
なんと、情けない!・・・神の子たる二人が、そろいもそろって「私じゃない、あの女が」と言い、
「私じゃない、あのへびが」と言い逃れをしたのだ。
それ以上は何も聞かない神。
そそのかされたおまえは、どうなんだ!とも言わない。情けない人間に成り下がった自分の息子、娘
に問う気も失せたのだろう。
そして神は人をエデンの園から追い出し、エデンの園の東にケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて
命の木の道を守らせられた、と記されている。


人事(ひとごと)だと思えば、実によくわかる。
誰が何をすればよかったのか、誰が何をしてはいけなかったのかが。

その後、このエデンの園の出来事は、人を代え、場所を代え、時代を代えて「その罪」の清算の時
を条件を積んで待つことになる、と前に申し上げた。

そのときの「へび」はどうしたか。おかまいなしではなかった。
一生地を這い、ちりを食べ・・・と神の罰はくだっている。
が、やはり人間が一番の問題だったという事は、誰でもわかる。
「へび」の思いを代弁しょう。(私にはなぜか、そう思えるという意味で)

<なぜ、わたしごときに、唆されましたか?神のお子ともあろうお方が>

そそのかした後で、何を言うと?
責任は神の子にあるんです。そして、アダムにこそ、その責任の取り方を観たかった。
アダムこそ、神の現身(うつしみ)であり、万物の霊長たる総責任者だったのですから。


さて、今日はこのくらいで。
この間、3という数字、あるいは三回が、霊界での数字だと申し上げましたが、後日このことも
忘れないで書かなければなりませんね。
あとで、と言いながらそれっきり・・・なんてものも、結構あるかもしれません。
思いだした分から、書きたいと思いますが、そうでない時はご容赦くださいね。


  
 


キリスト教のからくり

2012年02月15日 | 心霊現象
キリスト教でいうところの「からくり」は、こうなる。
何とえげつない言い方をと、なじられそうであるが、覚悟の上で、あえてこのように今は、言わせて
頂く。


アダムとイブの犯した罪(第一の罪)によって、人間始祖は一つの大きな罪を、その血の中に入れた。
つまり「原罪」である。その中身は「性的罪」である。
取って食べてはいけないという、神の戒めを破ったところに、罪の源(みなもと)があった。
たとえそれを唆(そそのか)した存在があったとしても、人間始祖としての立場上、許されない。
キリスト教では、性善説を説く。つまり神は、人間を本来「善」として存在せしめたのだ。
「悪」は、その後入り込んできたものである。いつ、どのようにして、何が・・・という事は、
それぞれの教理に委ねよう。

これはもはや、取り返しのつかない罪だ。アダム、イブという二人の当事者が、自ら白紙に戻すことは
出来ない。
出発点という立場と、創造した神の情(親の情)からいって出来ない。
神は創造の結果として、二人を地上に置いた。誕生させたのだ。七日間、その度ごとに「よし」といって、結果として存在したのが、不出来だったでは、つじつまがあわない。失敗作を世に出したことに
なる。神は最初から失敗作として、二人を生んだのか?

世の親ならわかるはずである。我が子の誕生をどんな思いで、待つか・・・。
人間の親、神もそうであったと、想像できる。
絵を描く者もそうだ。作曲者もそうだ。陶工もそうだ。物を作りだす匠は、決して中途半端なものを世には出さない。
その技が未熟ならば、一生かけてその技を究める。そして、造りだしたものは、この世に二つとして
ない、自分の全てといってもよい「もの」であるはずだ。ものづくりの満足は、そこにある。
そんな人間の、「ものを作る魂」に神が劣るわけがない。

従って、その二人(アダムとイブ)に代わる人物が必要になる。
人を代え、時を代え、その罪をもとかえすことが、必要になった。
神の創造のプログラムには、罪を犯す人間の存在があるわけがない。
この「ハプニング」に、神はすぐさま「手」をうたれた。
それが、カインとアベルの二人だ。
二人はそれぞれ、何かの意味(立場)を与えられて、生活の中で実行しながら、その条件を満たす
ことになる。
つまり、両親の犯した罪の「清算」という立場を、クリアーすることだ。
それが、何であり、誰がどうすれば「事が成る」のかは、誰も教えない。
求めれば、何かの形で示されたはずであるが、・・・結果、殺人という二つ目の罪を重ねるに至って
しまった。
時は移る。人も代わる。時代背景ももちろん同じくはない、もっと複雑になってく。
しかし、罪の清算を求めての地上における「条件づくり」は、続いた。
これが、聖書でいう旧約時代の内容である。
地上の条件とは、メシア・キリストをこの地上に迎えるための、いわば「神の作戦」であり、
人間の「信仰をみせる場」であったといえる。

そして地上に「イエス」が誕生した。
過去の「ある人達」が、条件を満たしたのだ。待ちに待った「キリスト」に繋がりさえすれば、原罪が解かれて、天国へ入れる。これが、キリスト教の教えである。
だから、何人といえども、キリスト、つまり「イエス」を信じ、その許しを得ない限り、神の子、
あるいは、人間、あるいは、「天国の住人」としてみとめられない。
つまり、「救われること」は、ない、と説く。

「原罪」がある限り、誰一人としてこの罪の縄目から逃れることは出来ない。そして、人間として生まれて今がある私達。
逃れることが出来るのは、キリスト教しかない。メシア・イエスにつながるしかない・・・。
これが、キリスト教の「からくり」である。

素直な人は、すぐに教えを受け入れられるだろう、が私のように「いわくつき」の人間には、
「これは詭弁(きべん)だ」としか受け取れなかった。
どこかに、必ず落とし穴がある。
かつて父が、問うても問うても、答えがこなかったその「問い」を、私もぶつけてみよう。
そして、納得できる答えがあれば、信じよう。

父も私も似た者同士だ。
わかったら、信じるタイプだ。「信じたら、わからせてもらえますから・・・」などという「やわ」な
タイプでは決してなかった。
ここに、「信仰」という実に難しい、越えられない壁があった。(かたくなな心の持ち主にあてはまる
だけであるが・・)

あなたは、どちらのタイプですか?

私の父の問いに、牧師は言った。「信じなさい。信ずることから始まります」と。
リンゴの実を取って食べたことが、「罪」になったと・・・なぜだ?
処女マリアから子供がうまれた・・・なぜだ?
一度死んだイエスが、生き返ったと?神の子は不死身か・・・なぜだ?
一生懸命に問うた父に、「信じなさい・・」という答えは「酷」でもある。

私の「のどに刺さったとげ」は、「原罪」であった。
どうしても分からなかった。実感が伴わないのだ。理論的には、言われたらぐうの音も出ない。
「あなたには原罪があります」という、大上段から振りかざす言い逃れの出来ない「言葉」に
あった。(誰が決めた?それを偉そうに、そう言うあなたは何ものだ?・・と、品の無い言葉で
言えばこうなる心を抱いて悶々とした)


わからないまま、メシアだのキリストなどというものに「帰依」することは考えられない。

「聖書だけは読むな!」と遺言した父の心を背負って、私の次の闘いが始まる。
この「からくり」が私にどのような「手」を差し伸べてくれるのか・・・。
はたまた、悪の手で次のどこかへ、誘うというのか。


これが、私のキリスト教に対する第一印象であった。
キリスト教の教えを「からくり」だの「落とし穴」だのという事じたい、罰当たりな私であったが、
この先は、またの機会にお話しいたしましょう。