以前に「龍の絵」ということで、お話をいたしました。
今年は「干支」(えと)が丁度「辰年」ですから、話もぴったりはまりやすいでしょう。
絵の中の「龍」はへび、つまりエデンの園にいた「へび」、その手にしっかりと握っている玉は?
人から取り上げた「人の道」つまり「真理」「天法」だった。
それを取り上げられた人は、行くべき道がわからないという「無知」からくる、「死んだ人」になった。
それ以来人間には、「宗教」とか「哲学」とか「真理」とかを捜し求める宿命の旅がはじまる。
その行為は霊的にみれば(いや、肉的にみても)恐ろしい龍の手から、玉を取り戻す命がけのものとなる。
だから求道者の道は、危険をはらんだ筆舌に尽くしがたい路程となっていくのは、当然なことだった。
それでも歴史から選ばれた数々の代表選手たちは、その命に代えて、何らかの「形」を取り戻してきた。
一、エデンの園の「へび」は人間の言葉を、話せたのか
エデンの園の住人(?)を考えてみる。
アダム、イブの二人の人間と、失礼ながら神だ。
この三者からは、唆(そそのか)しの言葉がはかれるわけがない。
とすれば、他に誰かいるか?
いるのだ。人間でもなく、神でもなく、霊をもった、いや持って創造された「もの」が。
それが「天使」だ。キリスト教ではよく聞くことだ。
仏教では「飛天」や「菩薩」などであろう。神道では天津神になる。天上界の神々だ。
その天使の役割は、人間の誕生前から創造され、もっぱら神の天地創造に携わって、働いてきた。
神の使いであり、僕だ。人間の創造後は、人間の使いであり、僕となる立場だった。
天使には名前がある。くわしくは、その手の専門家からお聞きになっていただきたいが、
あのエデンの園にいた天使は、主たる天使、つまり「天使界」を司る役目だった次の三者だろう。
「ルーシェル」「ミカエル」「ガブリエル」だ。
よくご存じの方も多いと思う。いわゆる仏教の家に育った者でさえ、何かで教わったか、聞いたか
絵などで見たかしている。
その三者の一人(あえてこう表現させていただく)が、美しい天使ではなく、「へび」の心となって
女(イブ)に近づいた。
霊界では「その心根」が、形となって現れる世界である。
しかし、イブは文字どうり「うぶ」だったから、「へびのおじちゃん」くらいにしか見えなかったの
だろう。
そして言葉が聞こえた。
神がやってはいけないという事を、やってもよいと教えた。
さらに、それによって目が開け神のようになるとも言った。
へびにたいする警戒心は、イブにはない。
「まさか」の事態がこのようにして、起こった。
まさか、天使が・・・、まさか、イブが。そして最後の砦であるアダム。
アダム、おまえもか!(絶叫する神の声がきこえてくるようだ)
『さて天では戦いがおこった。
ミカエルとその御使(みつかい)たちとが、龍と戦ったのである。
龍もその使いたちも応戦したが、勝てなかった。
そしてもはや天には、彼らのおる所がなくなった。
この巨大な龍、すなわち悪魔とかサタンとか呼ばれ、
全世界を惑わす年を経たへびは、地に投げ落とされ、その使いたちも
もろともに投げ落とされた。』
<聖書・ヨハネ黙示録12章7節~9節>
これは、いずれくる救いの時を伝えたのであろうが、御使いの中でも、サタンであり、悪魔であり、龍であるものの存在を記している。
二、次の展開・・責任転嫁(罪のなすりあい)
エデンの園で、その後何がおこったか。神の足音を聞いて、二人は木の間に隠れた。
なぜ、隠れたのか。(神から隠れるくらいの事をしたという証明)
なぜ裸だと分かって、かくれなければならない?(裸は罪?悪?いつからそうなった?)
なぜ、木の葉で腰を隠した?(罪をそこで犯したという証明)
再び「聖書」から。
神 「あなたはどこにいるのか」
ア 「わたしは裸だったので、恐れて身をかくしたのです」
神 「あなたが裸であるのを、だれが知らせたのか。食べるなと命じておいた木から、あなたは
取って食べたのか」
ア 「わたしと一緒にしてくださったあの女が、木から取ってくれたのでわたしは食べたのです」
神 「あなたは何ということをしたのです」
イ 「へびがわたしをだましたのです。それでわたしは食べました」
誰も「スミマセン、私が悪かった、許してください」とは言わなかった。
なんと、情けない!・・・神の子たる二人が、そろいもそろって「私じゃない、あの女が」と言い、
「私じゃない、あのへびが」と言い逃れをしたのだ。
それ以上は何も聞かない神。
そそのかされたおまえは、どうなんだ!とも言わない。情けない人間に成り下がった自分の息子、娘
に問う気も失せたのだろう。
そして神は人をエデンの園から追い出し、エデンの園の東にケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて
命の木の道を守らせられた、と記されている。
人事(ひとごと)だと思えば、実によくわかる。
誰が何をすればよかったのか、誰が何をしてはいけなかったのかが。
その後、このエデンの園の出来事は、人を代え、場所を代え、時代を代えて「その罪」の清算の時
を条件を積んで待つことになる、と前に申し上げた。
そのときの「へび」はどうしたか。おかまいなしではなかった。
一生地を這い、ちりを食べ・・・と神の罰はくだっている。
が、やはり人間が一番の問題だったという事は、誰でもわかる。
「へび」の思いを代弁しょう。(私にはなぜか、そう思えるという意味で)
<なぜ、わたしごときに、唆されましたか?神のお子ともあろうお方が>
そそのかした後で、何を言うと?
責任は神の子にあるんです。そして、アダムにこそ、その責任の取り方を観たかった。
アダムこそ、神の現身(うつしみ)であり、万物の霊長たる総責任者だったのですから。
さて、今日はこのくらいで。
この間、3という数字、あるいは三回が、霊界での数字だと申し上げましたが、後日このことも
忘れないで書かなければなりませんね。
あとで、と言いながらそれっきり・・・なんてものも、結構あるかもしれません。
思いだした分から、書きたいと思いますが、そうでない時はご容赦くださいね。
今年は「干支」(えと)が丁度「辰年」ですから、話もぴったりはまりやすいでしょう。
絵の中の「龍」はへび、つまりエデンの園にいた「へび」、その手にしっかりと握っている玉は?
人から取り上げた「人の道」つまり「真理」「天法」だった。
それを取り上げられた人は、行くべき道がわからないという「無知」からくる、「死んだ人」になった。
それ以来人間には、「宗教」とか「哲学」とか「真理」とかを捜し求める宿命の旅がはじまる。
その行為は霊的にみれば(いや、肉的にみても)恐ろしい龍の手から、玉を取り戻す命がけのものとなる。
だから求道者の道は、危険をはらんだ筆舌に尽くしがたい路程となっていくのは、当然なことだった。
それでも歴史から選ばれた数々の代表選手たちは、その命に代えて、何らかの「形」を取り戻してきた。
一、エデンの園の「へび」は人間の言葉を、話せたのか
エデンの園の住人(?)を考えてみる。
アダム、イブの二人の人間と、失礼ながら神だ。
この三者からは、唆(そそのか)しの言葉がはかれるわけがない。
とすれば、他に誰かいるか?
いるのだ。人間でもなく、神でもなく、霊をもった、いや持って創造された「もの」が。
それが「天使」だ。キリスト教ではよく聞くことだ。
仏教では「飛天」や「菩薩」などであろう。神道では天津神になる。天上界の神々だ。
その天使の役割は、人間の誕生前から創造され、もっぱら神の天地創造に携わって、働いてきた。
神の使いであり、僕だ。人間の創造後は、人間の使いであり、僕となる立場だった。
天使には名前がある。くわしくは、その手の専門家からお聞きになっていただきたいが、
あのエデンの園にいた天使は、主たる天使、つまり「天使界」を司る役目だった次の三者だろう。
「ルーシェル」「ミカエル」「ガブリエル」だ。
よくご存じの方も多いと思う。いわゆる仏教の家に育った者でさえ、何かで教わったか、聞いたか
絵などで見たかしている。
その三者の一人(あえてこう表現させていただく)が、美しい天使ではなく、「へび」の心となって
女(イブ)に近づいた。
霊界では「その心根」が、形となって現れる世界である。
しかし、イブは文字どうり「うぶ」だったから、「へびのおじちゃん」くらいにしか見えなかったの
だろう。
そして言葉が聞こえた。
神がやってはいけないという事を、やってもよいと教えた。
さらに、それによって目が開け神のようになるとも言った。
へびにたいする警戒心は、イブにはない。
「まさか」の事態がこのようにして、起こった。
まさか、天使が・・・、まさか、イブが。そして最後の砦であるアダム。
アダム、おまえもか!(絶叫する神の声がきこえてくるようだ)
『さて天では戦いがおこった。
ミカエルとその御使(みつかい)たちとが、龍と戦ったのである。
龍もその使いたちも応戦したが、勝てなかった。
そしてもはや天には、彼らのおる所がなくなった。
この巨大な龍、すなわち悪魔とかサタンとか呼ばれ、
全世界を惑わす年を経たへびは、地に投げ落とされ、その使いたちも
もろともに投げ落とされた。』
<聖書・ヨハネ黙示録12章7節~9節>
これは、いずれくる救いの時を伝えたのであろうが、御使いの中でも、サタンであり、悪魔であり、龍であるものの存在を記している。
二、次の展開・・責任転嫁(罪のなすりあい)
エデンの園で、その後何がおこったか。神の足音を聞いて、二人は木の間に隠れた。
なぜ、隠れたのか。(神から隠れるくらいの事をしたという証明)
なぜ裸だと分かって、かくれなければならない?(裸は罪?悪?いつからそうなった?)
なぜ、木の葉で腰を隠した?(罪をそこで犯したという証明)
再び「聖書」から。
神 「あなたはどこにいるのか」
ア 「わたしは裸だったので、恐れて身をかくしたのです」
神 「あなたが裸であるのを、だれが知らせたのか。食べるなと命じておいた木から、あなたは
取って食べたのか」
ア 「わたしと一緒にしてくださったあの女が、木から取ってくれたのでわたしは食べたのです」
神 「あなたは何ということをしたのです」
イ 「へびがわたしをだましたのです。それでわたしは食べました」
誰も「スミマセン、私が悪かった、許してください」とは言わなかった。
なんと、情けない!・・・神の子たる二人が、そろいもそろって「私じゃない、あの女が」と言い、
「私じゃない、あのへびが」と言い逃れをしたのだ。
それ以上は何も聞かない神。
そそのかされたおまえは、どうなんだ!とも言わない。情けない人間に成り下がった自分の息子、娘
に問う気も失せたのだろう。
そして神は人をエデンの園から追い出し、エデンの園の東にケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて
命の木の道を守らせられた、と記されている。
人事(ひとごと)だと思えば、実によくわかる。
誰が何をすればよかったのか、誰が何をしてはいけなかったのかが。
その後、このエデンの園の出来事は、人を代え、場所を代え、時代を代えて「その罪」の清算の時
を条件を積んで待つことになる、と前に申し上げた。
そのときの「へび」はどうしたか。おかまいなしではなかった。
一生地を這い、ちりを食べ・・・と神の罰はくだっている。
が、やはり人間が一番の問題だったという事は、誰でもわかる。
「へび」の思いを代弁しょう。(私にはなぜか、そう思えるという意味で)
<なぜ、わたしごときに、唆されましたか?神のお子ともあろうお方が>
そそのかした後で、何を言うと?
責任は神の子にあるんです。そして、アダムにこそ、その責任の取り方を観たかった。
アダムこそ、神の現身(うつしみ)であり、万物の霊長たる総責任者だったのですから。
さて、今日はこのくらいで。
この間、3という数字、あるいは三回が、霊界での数字だと申し上げましたが、後日このことも
忘れないで書かなければなりませんね。
あとで、と言いながらそれっきり・・・なんてものも、結構あるかもしれません。
思いだした分から、書きたいと思いますが、そうでない時はご容赦くださいね。