霊界の門 ・見えないものの力

霊界や因縁から、現在の自分をみつめ、「見えないものの力」を味方にしましょう。

「霊」はいかにして成長し完成するのか  2

2012年02月19日 | 心霊現象
今から二千年前に、十字架上で死んだという「イエス」は、なにゆえに現代までも歴史を左右した
のだろうか。
それは、彼の心(魂、霊)が神のごとくであったからである。
我々より神に近い霊を持っていたからである。人間の行き着くところが、「そこ」だと教え、導いた
師であったからこそ、名もなく財産もなく、地位も学歴もない一青年が、全人類の目標となった
のである。
イエスの言葉は、手厳(てきび)しい。
「もしあなたの片手または片足が、罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。両手、両足が
そろったままで、永遠の火に投げ込まれるよりは、片手、片足になって命に入る方がよい。
もしあなたの片目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。両眼がそろったままで地獄の
火に投げ入れられるよりは、片目になって命に入る方がよい。」と。

五体そろって地獄へいくよりは、片手、片足、片目で天国へ入ったほうがいいと言っている。
また、こうも言う。
「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言(ことば)で生きるものである。」と。
霊が成長するためには、「神のことば」によってであると、イエスは説く。
我々の毎日の生活で霊の糧は、はたしてどのようになっているのか・・・。
目にし、耳にし、手にするものが、全て霊を成長させるものだろうか。新聞、TV、ラジオ、映画
雑誌等々、マスコミ(マスメディア)に流されて、流行の一コマに気(目)を奪われている間に、
時は流れていく。
「霊」の糧は真理である。そして神につながるもの以外で、人間の霊体を成長させるものはない。
イエスは、こう言い切る。
「天国は、ラクダが針の穴を通るよりも、もっとむずかしい。」と。

霊は人間が創造したものではない。
神から出たもの、造られたものである以上、霊の栄養素は「神」にある。
それが「神から出る一つ一つのことば」だと教えられる。
「パン」は、肉体の栄養物ではある。
そして「霊」の栄養素をエデンの園で、失った。
「それ」を得たいと思っても、そこへ行く道を「回る炎の剣」と「ケルビム」(トゲだらけの木)で
ふさがれてしまった、と記されている。
それ以来人類は、霊的にみれば「栄養失調人間」しかいなくなり、この世に霊の糧を与えてくれる
人物の出現を待ちわびた、ということになる。

我々が好むと好まざるとにかかわらず、真理なくして霊は成長しないとなれば、それを、探し求め、
さらにそれを聞くしかない。
失格者が再びその「ことば」を手にするには条件が必須だ。
それを覚悟で、大きくは人類歴史が、小さくは個人が、そして血統がそれを求めた。
守護霊、あるいは霊界の目的が「そこ」にあったといっても過言ではない。

仏教もユダヤ教も、時こそ違えても目的地は同じはずである。
最終的には、「神」のことばを再び取り戻す目的以外のなにものでもない。
その道はそれぞれ違えども、過酷であったことにはかわりはない。
ケルビムと回る炎の剣が何であるかは、実際の物ではなく、霊的なもののたとえであろうから
「過酷な障害」ということになろうか。
仏教も過酷であれば、ユダヤ教も過酷だったはずだ。
失った「人の道」を探す旅路は、過去の先達たちの苦労話の数々が証明し、歴史のところどころで、
その輝きを放っている。


そして、今。
こうして、歴史をみるとき、この今を「いい時代に生きている」と思うか、それとも
「実に迷惑な、やっかいな時代に生きたものだ」と思うかは、その人一人一人の目指す心根
によって大きくその差(違い)が生じるのは、仕方がない。


魂の世界、霊界からものを見て、言えることがある。
今の日本の実態である。
肉体の糧にむらがるのか、霊体の糧に群がるのかを、「日本民族の運命」を賭けて、二分すれば、その答えは何と出るだろう・・・。
この国の将来は、どちらに軍配があがるだろうか?

あなたは、どちらだと思う?
民族の運命は、神が決めるのではなく、民族みずからが選び、決定するのです。
過去のイスラエルがそうであり、ユダヤ民族がそうだったように。今日本も、その「選択」を
まさしくせまられている「時」にあるということですね。
「日本」というこの響きが、いつまでもこの世にあり、続くことを祈ります。

再び、「聖女」(ひじりめ)の言葉を思いだしながら、今日はここで終わります。

「霊」はいかにして成長し完成するのか  1

2012年02月19日 | 心霊現象
今日は「霊」(心、魂)が、どのようにすれば、成長するのか。
また「完成」とは、どのようになれば、完成というのか、ということを、申し上げてみたいと
思います。

その後私は、あの言葉で、踵(きびす)を返すことになる。それよりも、もっと衝撃的な夢が「決めて」であったことは、いうまでもない。

『生きたい様に生きなさい。しかしこれから先、どんな形で生きようと、あなたの人生は、いっさい
神とは関係ありませんよ』(講師の、別れ際の言葉だ)

何一つ確信のなかった私は、真理はある、神はあるという方に賭けて、出発した。
全てが分かったからでもなく、神が信じられたわけでもない。
丁か半か、人生を賭けたのである。神という「代物」をバクチの対象にしたのだ。
どうせツケは、最後に私にまわってくればいいことだから・・・。
「神」をバクチの対象にする「愚か者」となった私の一歩は、そのようなものだった。
そして私の「学ぶ態度」としての戒めは、あの織田信長の娘、【聖女】(ひじりめ)の言葉にあった。

『神のものを地に引きずりおろし、己で判断しょうとする、この人間の傲慢さ』

そして彼女は、こうとも言った。
「自分はけしつぶごとき者」と。霊界においての存在は、このごとくだと説明したのだ。
この世にあれば、天下の覇者、織田信長の娘である。女だてらに「帝王学」を父によって
叩き込まれたその「彼女」が、けしつぶにしかすぎないと言う。
霊界と地上界の大きな違い、つまり価値観が大きく異なっているという証拠である。


この言葉を戒めとして学ぶ私の得たものは、それなりにあった。
まず重大なことは、肉体がなくては霊は絶対に成長しない、ということであった。
人間の心には、肉体が良い行いをしたあと、とても満たされ、快(こころよ)い思いがわいてくる。
また、美しい音楽、絵画、物語など、肉体的五感(五官)によって感動するとき、心の隅々まで
生き生きと高揚し、充足されていくのを知る。
これは、肉体を通じて霊体に注がれる良い糧、つまりプラスの要素が働くためである。
逆に、肉体がよくない行いをした後は、心は暗くしぼみ、良心の呵責にさいなまれ、うつうつと
して心の中は、病んだ状態になっていく。
これは悪い糧、つまりマイナスの要素が働くためである。
このように肉体を通して充足されていく良い糧は、ドンドンと霊の成長を促すが、悪い糧は霊を
むしばみ、ゆがめ、栄養不良つまり奇形化へと引っ張っていく。
私がかつて、「復讐の鬼」と化したようにである。

このように、日々の行い(行動)は、刻々おのれの魂に、形という時を刻みながら、肉体の朽ちる
まで続いていくことになる。
では「良い行い」とは、一般的に何をいうのか・・・。
今までどうり、普通に生活をしてさえいればいいのだろうか。悪いことはせず、良心的な生活をして
ゆけば、自然に霊は成長し、形づくられていくのだろうか。答えは、否である。
悲しいかな「否」である。良心的に生きてきた人が、いかに多かったか。
誰もキズつけず、倫理、道徳を守り、人生を送った人がほとんどではなかろうか。
戦時中でもなければ、むやみに人を殺すこともなかったであろう。
ケンカくらい、少しはしたかもしれない。虫の何匹かは、殺したかもしれない。しかし、夫婦仲良く
子供を大切に育て、周りに迷惑をかけることもせずに、まじめにやってきた。
そして働き、旅をし、音楽やスポーツを楽しみもした。そうだ、人を愛しもした。
すべからく、自分らしく豊かに暮らした、と思っている。
しかし・・・。
霊体は成長しないのである。ましてや完成などほど遠い。
霊体の成長や、完成には肉体があることは「絶対的条件」ではある。が、肉体があれば、成長する
わけではなかった。それは「霊」を存在せしめた出発、創造の主「神」と切り離しては、考えられ
ないのである。

結論を言う。
「神」のごとくになる。子として「親」(神)のようになる。
これが、霊体の完成した形であり、姿である。そしてこれこそが、人間の目的なのである。
「いち抜けた!」  誰もが思う。
「なれるわけがない!」  私も思った。今だって思う。
現実をみつめればみつめる程、「あんたの戯言(ざれごと)なんか、聞いている暇はないよ~」
といわれるのは、覚悟の上だ。
中には、「死んでから、ゆっくりあの世で教わるさ」と言う人も多い。が、死んでから聞かされる
より、生きているうちに聞かされ、ビックリしてもいい、反発してもいい、どうせそれが「真理」
なら、生きているうちに聞いてください・・・という事です。
もう一度言います。肉体を失ってからは、霊は絶対に成長しないし、完成することはないのです。

だからこそ、霊界人である守護霊は、私達のような未熟者を承知で覚悟の上、協力して、共に完成圏
を目指そうとしているのです。



<次へつづく>