今から二千年前に、十字架上で死んだという「イエス」は、なにゆえに現代までも歴史を左右した
のだろうか。
それは、彼の心(魂、霊)が神のごとくであったからである。
我々より神に近い霊を持っていたからである。人間の行き着くところが、「そこ」だと教え、導いた
師であったからこそ、名もなく財産もなく、地位も学歴もない一青年が、全人類の目標となった
のである。
イエスの言葉は、手厳(てきび)しい。
「もしあなたの片手または片足が、罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。両手、両足が
そろったままで、永遠の火に投げ込まれるよりは、片手、片足になって命に入る方がよい。
もしあなたの片目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。両眼がそろったままで地獄の
火に投げ入れられるよりは、片目になって命に入る方がよい。」と。
五体そろって地獄へいくよりは、片手、片足、片目で天国へ入ったほうがいいと言っている。
また、こうも言う。
「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言(ことば)で生きるものである。」と。
霊が成長するためには、「神のことば」によってであると、イエスは説く。
我々の毎日の生活で霊の糧は、はたしてどのようになっているのか・・・。
目にし、耳にし、手にするものが、全て霊を成長させるものだろうか。新聞、TV、ラジオ、映画
雑誌等々、マスコミ(マスメディア)に流されて、流行の一コマに気(目)を奪われている間に、
時は流れていく。
「霊」の糧は真理である。そして神につながるもの以外で、人間の霊体を成長させるものはない。
イエスは、こう言い切る。
「天国は、ラクダが針の穴を通るよりも、もっとむずかしい。」と。
霊は人間が創造したものではない。
神から出たもの、造られたものである以上、霊の栄養素は「神」にある。
それが「神から出る一つ一つのことば」だと教えられる。
「パン」は、肉体の栄養物ではある。
そして「霊」の栄養素をエデンの園で、失った。
「それ」を得たいと思っても、そこへ行く道を「回る炎の剣」と「ケルビム」(トゲだらけの木)で
ふさがれてしまった、と記されている。
それ以来人類は、霊的にみれば「栄養失調人間」しかいなくなり、この世に霊の糧を与えてくれる
人物の出現を待ちわびた、ということになる。
我々が好むと好まざるとにかかわらず、真理なくして霊は成長しないとなれば、それを、探し求め、
さらにそれを聞くしかない。
失格者が再びその「ことば」を手にするには条件が必須だ。
それを覚悟で、大きくは人類歴史が、小さくは個人が、そして血統がそれを求めた。
守護霊、あるいは霊界の目的が「そこ」にあったといっても過言ではない。
仏教もユダヤ教も、時こそ違えても目的地は同じはずである。
最終的には、「神」のことばを再び取り戻す目的以外のなにものでもない。
その道はそれぞれ違えども、過酷であったことにはかわりはない。
ケルビムと回る炎の剣が何であるかは、実際の物ではなく、霊的なもののたとえであろうから
「過酷な障害」ということになろうか。
仏教も過酷であれば、ユダヤ教も過酷だったはずだ。
失った「人の道」を探す旅路は、過去の先達たちの苦労話の数々が証明し、歴史のところどころで、
その輝きを放っている。
そして、今。
こうして、歴史をみるとき、この今を「いい時代に生きている」と思うか、それとも
「実に迷惑な、やっかいな時代に生きたものだ」と思うかは、その人一人一人の目指す心根
によって大きくその差(違い)が生じるのは、仕方がない。
魂の世界、霊界からものを見て、言えることがある。
今の日本の実態である。
肉体の糧にむらがるのか、霊体の糧に群がるのかを、「日本民族の運命」を賭けて、二分すれば、その答えは何と出るだろう・・・。
この国の将来は、どちらに軍配があがるだろうか?
あなたは、どちらだと思う?
民族の運命は、神が決めるのではなく、民族みずからが選び、決定するのです。
過去のイスラエルがそうであり、ユダヤ民族がそうだったように。今日本も、その「選択」を
まさしくせまられている「時」にあるということですね。
「日本」というこの響きが、いつまでもこの世にあり、続くことを祈ります。
再び、「聖女」(ひじりめ)の言葉を思いだしながら、今日はここで終わります。
のだろうか。
それは、彼の心(魂、霊)が神のごとくであったからである。
我々より神に近い霊を持っていたからである。人間の行き着くところが、「そこ」だと教え、導いた
師であったからこそ、名もなく財産もなく、地位も学歴もない一青年が、全人類の目標となった
のである。
イエスの言葉は、手厳(てきび)しい。
「もしあなたの片手または片足が、罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。両手、両足が
そろったままで、永遠の火に投げ込まれるよりは、片手、片足になって命に入る方がよい。
もしあなたの片目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。両眼がそろったままで地獄の
火に投げ入れられるよりは、片目になって命に入る方がよい。」と。
五体そろって地獄へいくよりは、片手、片足、片目で天国へ入ったほうがいいと言っている。
また、こうも言う。
「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言(ことば)で生きるものである。」と。
霊が成長するためには、「神のことば」によってであると、イエスは説く。
我々の毎日の生活で霊の糧は、はたしてどのようになっているのか・・・。
目にし、耳にし、手にするものが、全て霊を成長させるものだろうか。新聞、TV、ラジオ、映画
雑誌等々、マスコミ(マスメディア)に流されて、流行の一コマに気(目)を奪われている間に、
時は流れていく。
「霊」の糧は真理である。そして神につながるもの以外で、人間の霊体を成長させるものはない。
イエスは、こう言い切る。
「天国は、ラクダが針の穴を通るよりも、もっとむずかしい。」と。
霊は人間が創造したものではない。
神から出たもの、造られたものである以上、霊の栄養素は「神」にある。
それが「神から出る一つ一つのことば」だと教えられる。
「パン」は、肉体の栄養物ではある。
そして「霊」の栄養素をエデンの園で、失った。
「それ」を得たいと思っても、そこへ行く道を「回る炎の剣」と「ケルビム」(トゲだらけの木)で
ふさがれてしまった、と記されている。
それ以来人類は、霊的にみれば「栄養失調人間」しかいなくなり、この世に霊の糧を与えてくれる
人物の出現を待ちわびた、ということになる。
我々が好むと好まざるとにかかわらず、真理なくして霊は成長しないとなれば、それを、探し求め、
さらにそれを聞くしかない。
失格者が再びその「ことば」を手にするには条件が必須だ。
それを覚悟で、大きくは人類歴史が、小さくは個人が、そして血統がそれを求めた。
守護霊、あるいは霊界の目的が「そこ」にあったといっても過言ではない。
仏教もユダヤ教も、時こそ違えても目的地は同じはずである。
最終的には、「神」のことばを再び取り戻す目的以外のなにものでもない。
その道はそれぞれ違えども、過酷であったことにはかわりはない。
ケルビムと回る炎の剣が何であるかは、実際の物ではなく、霊的なもののたとえであろうから
「過酷な障害」ということになろうか。
仏教も過酷であれば、ユダヤ教も過酷だったはずだ。
失った「人の道」を探す旅路は、過去の先達たちの苦労話の数々が証明し、歴史のところどころで、
その輝きを放っている。
そして、今。
こうして、歴史をみるとき、この今を「いい時代に生きている」と思うか、それとも
「実に迷惑な、やっかいな時代に生きたものだ」と思うかは、その人一人一人の目指す心根
によって大きくその差(違い)が生じるのは、仕方がない。
魂の世界、霊界からものを見て、言えることがある。
今の日本の実態である。
肉体の糧にむらがるのか、霊体の糧に群がるのかを、「日本民族の運命」を賭けて、二分すれば、その答えは何と出るだろう・・・。
この国の将来は、どちらに軍配があがるだろうか?
あなたは、どちらだと思う?
民族の運命は、神が決めるのではなく、民族みずからが選び、決定するのです。
過去のイスラエルがそうであり、ユダヤ民族がそうだったように。今日本も、その「選択」を
まさしくせまられている「時」にあるということですね。
「日本」というこの響きが、いつまでもこの世にあり、続くことを祈ります。
再び、「聖女」(ひじりめ)の言葉を思いだしながら、今日はここで終わります。