霊界の門 ・見えないものの力

霊界や因縁から、現在の自分をみつめ、「見えないものの力」を味方にしましょう。

「原罪」とわたし、そして夢  2

2012年02月17日 | 心霊現象
夢とは、こうだ。

私は、少し薄暗いところにいた。
その部屋で、目の前にあるものに、目をこらしていた。(もう少し明るければいいのに・・)
何だ?・・あっ、誰かの背中だ。
大きい背中だなぁ・・・。広い背中だ。そして「たくましい男の背中」だと、認識した。
何で、今ここに?
その大きな、広い男の背中をじっと見ていた。ん?模様がある!
刺青か・・?これは、ヤクザの背中なのか?
もう一度よーく見た。それは一つ一つが「傷」だった。それも「みみずばれ」の。
背中いっぱいについた無数のその傷は「鞭(むち)」で打たれたあとだった。
説明はいらない。とっさに分かる。
何千、何万、いや何億近い数のその「みみずばれ」は、あるものはまだ血がにじみ、あるものはようやく、かさぶたがはった痛々しいものだった。
その無数の傷は、まるで「顕微鏡」を覗いて見える、あのアメーバーのように、浮き上がったり、
底に沈んだりして移動しながら、その数の多さを見せつけた。右に行ったり、左に行ったり、
上に行ったり、下に行ったりした。
私はしばらくその動きを見ていた。
しばらくすると、「ある傷」、その「みみずばれ」は、私の目の前で止まった。
あれだけ動き回っていた無数の傷が、動きを止め、私の目の前で静止したのだ。
私はその傷、つまり「私の傷」だというものを、凝視した。
鞭のあとの傷、そのみみずばれは、まだ新しかった。
その男の背に、しっかりと刻まれた鞭のあとのみみずばれ。まだ赤いその傷は、いつでも血が流れる
ようなものであり、今かろうじて流血が止まっているという状態のものだった。

これが、私の傷か・・・。
いや、言い方を改めよう。
「私の罪を贖(あがな)うために、鞭うたれてくださったその傷が、これでしょうか・・・」

生々しいといえば、生々しすぎる。
言い逃れの出来ないその傷を前にして、立ちすくむ私がいた。

次にはわけもなく、涙が出た。その場に崩れ落ちて「その傷」をさすりながら、わーわー泣いた。
しばらく泣いた後、夢の中で分かったことをまとめた。(まだ夢の中です)

この人物は誰だ。イエス・キリストか?
私はイエス(呼び捨てはもう許されないと思うが、今はお目こぼしを・・)を知らないが、
はっきりと分かる。違う人物であると。
ではいったい誰だ?
次のステップは「この人物」を探せということか・・・。


夢は覚めた。
私としては衝撃的な夢としか言いようがない。
誰に文句を言われようが、否定されようが私のみた夢に、私が向かうのだ。
この先険しい道かもしれないし、神の栄光のシャワーを浴びるかもしれない。
父の、いや私のやり残した「謎の解明」を、今後続ける再度の出発をせよと言われていると信じた。

「原罪」、この壁がすべて取り払われたわけではない。が、この夢を踏み台にして、次へジャンプでき
るかもしれない。
原罪、罪、キリスト、神の子、福音・・・。言葉に負い目を感じてはならない。
今の立ち位置をしっかりと見極めて、自分はどこへ行こうとしているのかが見えてくれば、
迷わずに霊界も地上界も行くことが出来ると確信した。


そして、今に至っているということです。
決して、私が特異だと思わないでください。
それぞれの、霊的あるいは、血統的功労においてなされる技でもありますが、なにより背後に「尼様」
三人をしょっている(失礼)私であれば、中途半端は許されないという宿命でもあります。
なぜこんなにも人生が翻弄(ほんろう)されるの?と、なじりたくなったこともありますが、
その都度、助け舟を出してくださる過去を思えば、文句は言えないのです。
この夢のあとも、もちろん尼様たちに報告、確認をしたことは当然です。
仏教の教えで生前くらした彼女たちが、あの世で言葉を変えて話している様子を想像すると、
おかしいような、いとおしいような気がしてまいります。

皆様も、ご自分だけが向かう道がきても、臆することなくお進みくださいませ。
人生、いろいろ。道も、いろいろ。
でも「人間」としての道が、大きく外れることなきように、お願い申しあげます。

「原罪」とわたし、そして夢   1

2012年02月17日 | 心霊現象
キリスト教でいうところの「原罪」は、やはり分からなかった。
頭の中では、理論的に組み立ては出来たものの、「心」が納得しなかった。
そのような発想?に慣れていないといえば、そうともいえる。
日本の文化が、そんなところになかったといえば、そうともいえた。仏教もまた、
過去は問わず、現在から未来に向かっての救いを説いているようにみえる。

はるか昔の見たことも、聞いたこともない二人の男女の犯した罪が、この平成の世の自分に
及んでいるとは、とてもとても思えるものではない。実感があるわけがない。
これを分かれといわれても、無理な話だ。
私の「喉のトゲ」は刺さったままだった。どうすることも出来ずに、日々を送っていた。
目の前に立ちはだかった壁を、超えない限り次には行けないのだ。
私、もういいか・・・。「原罪」だと?・・・。そんなに気に病むことじゃないのかもしれない。
きっと、「これ」を振りかざせば、信者が増えることがわかって、彼らは目の前にぶら下げている
にすぎないのではないだろうか。
教会の面々が、どれだけ原罪を自分のこととして捉え、イエスに繋がり、日々の信仰をしているのか。
私は「見るな!」と言われた周り(信者)を見回す。

「分かっていないよな~」彼らも。
讃美歌を聞いて(歌って)、ありがたい説法を聞いて、祝祷を受けて、また一週間過ごす。
そしてまた、心の洗濯をしにやって来る。その繰り返しで、天国が約束されるとしたら、実に
甘いものだ。
はたして守護霊達は、納得して「救われた」と言ってくれるだろうか・・・。そして「明るい霊界へ
上がっております。ありがとう」と、言うだろうか・・・。
ひょっとして、次があるのかもしれない。

私はキリスト教と決別して、次へ行く決心をした。
次はどこ、というあてはないが、とにかく理解不能な「原罪」から逃れたかったのだ。
いつも熱心にあたたかく接してくれた「講師」に、分かれを告げに行った。
黙って逃げればすむものを、律儀な私?は、熱心教えてくれたその講師の心に対して「あいさつ」
を欠くことは、失礼だと思った。
講師は私の言い分を、終始黙って聞いてくれた。そして最後に「わかりました」と言ってくれた。
私はホッとした。分かってくれたんだ。それだけで、ありがたかった。
さあこれで誰はばかることなく、次のステップへ行けるぞ!と思った。
と、すかさずその講師は、口を開いて次のように言った。

『よくわかりました。生きたいように生きてゆきなさい。
 強制出来るものではないのです。しかし、これだけは言っておきます。
 これから先、どんな形で生きようと、あなたの人生はいっさい、神とは関係ありませんよ』

ん?これって脅迫か?まあいいや。
まるで、ダメ押しのような言葉を背にして私は建物を後にした。
確かにこの言葉は、私の胸にグサッと刺さったが、しかし今はダメだ。出ていくと決めたんだから。
誰もいない玄関に深々と「礼」をして、キリスト教と聖書に決別をした。
私は父のリベンジどころか、元も子もなくしたのではないかという負い目を感じはしたが、次に賭けて
出発する心を奮い立たせていた。

とにかく私は、キリスト教の縁をきっぱりと切り、身軽になったのだ。


そして「夢」。
またか!と皆様も思われるだろうが、私でさえ、そう思ったくらいだ。
しかし、この夢は実に衝撃的な夢だった。
いいだの、悪いだの、はたまた気に入るだの、気に入らないなどという事が許されない夢だった。
次元が違うといえばそれまでだが、私は「グーの音も出ない」で、そこにうずくまったのだ。
それをこれからお話しましょう。


<次へつづく>