霊界の門 ・見えないものの力

霊界や因縁から、現在の自分をみつめ、「見えないものの力」を味方にしましょう。

ここだけの話「松山 真一氏」のこと  2

2012年02月28日 | 心霊現象
いくら「名代(みょうだい)」といっても、住む世界が違う面々だ。
「普通でいいんですよね?」と私は、出かける前に社長に聞いた。
「いいよ」と簡単に返事がきた。
わたしの聞いた内容は、はっきりとは言わないまでも、「しきたり」があるのかを、暗に聞いている。たとえば、仁義をきるとか、名刺を出すとか(私は名刺がない)、最初は誰に行くかとか・・。
なにせ、世界の違う所へ、初めて行くのだから・・・。
しかし、社長の認識は違った。「仲良し」の一人を訪ねるくらいの軽い思いで、私を向かわせて
いるのだ。だから、普通でいいのだ。「なら、いいや」と、気を軽くして向かった。

ここでもまた、「めくら蛇におじず」の言葉どうり、普通にふるまった。
「あら、総長さん!」とまではいかないが、昔からの知り合いのように、垣根を越えておしゃべり
をした。
何の垣根か? まず、民族の垣根。そして「極道」と「一般人」の垣根。「男」と「女」の垣根
等々である。
「松山 真一」。小柄な初老のおじさんである。笑い顔は、特に目がやさしそうだ。
しかし、顔の左ほほにざっくりと刻まれた「刀キズ」は、「ヤクザ」そのものの人生を物語って
いた。
ビルの最上階に位置する、その「ドンの部屋」は、風のよく入る広い部屋だった。
ガラス張りの大きなケースには、日本の武将が身につけた「鎧兜」が、威厳を放って大事そうに
置かれていた。それを背にするようにドンは座り、私はその左横へちょこんと座った。
座布団もそのように置かれていたからだ。私は預かってきた「お中元」の品を渡した。

「アボジ、元気か?」「はい」
「テグ(大邱)へ、いつ行くって言ってた?」「○月〇日の予定だと聞いてますけど」
「そう、奥さん一緒に行く?」「いえ、多分別々かと・・」
「そうだねぇ、あんな稼業だと、一緒に飛行機、乗れないよな~」(よくおわかりになる)

金貸しは、特に夫婦(個人経営)でやっているものは、万が一飛行機が落ちたことを想定して、
別々の飛行機に乗る。同時に死なないためである。
松山氏は、別の意味で聞いていたことを、私は知っている。
(あの、おっかないかあちゃん、一緒じゃ、たまんないぞ。大邱へ着いても、遊びひとつ出来やしない)・・・という意味だ。
中年の「ワル二人」は、実際どうしょうもない「遊び人」でもあった。

「あんたも、これ食べる?」と、目の前の皿を指さす、ドン。
皿の中は、甘納豆、柿のたね、ピーナツ、でん六豆などが、いっぱい入っていた。
「総長のおやつですか?」と言いながら、私も皿に手を突っ込んで「いただきます」と、豆をつまみ上げた。
「どう?アボジは?」「はい、やさしい、いい人ですよ」
「そうかね・・・」(私はそうとしか言いようがないではないか)

さて、甘納豆も、豆もいただいた。長居をしないようにと、気を使って帰ろうとすると・・・
「話があるよ・・・」と。(おっと、返してくれないのか~)
周りは、気をつかってか、誰もいない。
広い部屋に「極道のドン」と私だけだ。(ひょっとして、組への勧誘か?それはあるまい)
アボジの手前、へたな事は、「ドン」といえども、出来るわけがない。
私の計算は、そのところで、「安心」をはじき出していた。
「あんたさぁ、家田荘子(いえだそうこ)って、知ってるかい?」
「あの物書きの?」と、私が問う。「そうだよ、あの人だよ。名刺もらったから、待って・・」
「ドン」はゴソゴソと机の中を探していたが、名刺を私の目の前に置いた。
『家田 荘子』と書いてある。
「この人、日参して来るのよ。私の半生記を、書かせろってさ」
『家田 荘子』。そう、あの「極道の妻たち」を書いた作家だ、間違いない。
有名な作家じゃないか。そうか、松山 真一「極東」のドンに、その半生記を書こうと、了解を得に
連日来ているのか。それを何で私に・・・?
しばらくして、「あんた・・書く?」(はあ?どういう意味だ?)
その意味は、あんたが書くんなら、あんたが書いてもいいよ、という意味以外になかった。

私は「はい!」と答えていた。
「じゃ、断るからね、家田 荘子を。これで、付け回されずにすむ。
 うるさいんだよ、実にね。でも、熱心さは買わないと・・・」

右手に持っているお返し(アボジへの)の、「三原堂の塩せんべい」がうらめしかった。
何で、はい・・・と。このバカが、どうする気よ。しかし、あとのまつりだ。
あの家田 荘子を断るからと、私に念押しまでして「ドン」は、自分の過去のすべてを、こんな
私に預けようとしている。
それからの私は、あわてた。しかし、考えようによっては「極東」のドン、「松山 真一」を本当に
知るには、いいチャンスだ。そう思いはじめた。
ドンの右腕のような人のところへ行って、資料をもらった。
いくつかの「関所」はあったが、一応スイスイと。門外不出の「資料」を手に入れて帰ってきた。
いわば、「極東の秘密文書」だ。
今後、へたすりゃ、私といえども指の一本や二本どうなるか・・・。その時ようやく震えがきた。

その後、ドンから電話がきた。
簡単な取材のようなものだが、時間がない人だけに、聞きたいことは、もっと「人間」として
深く切り込みたかった。
その後霊能者k氏に聞いた。松山 真一の守護霊とか、面白く書けないものか・・と。
本名は韓国名○○、生年月日等々。
しばらくして気がついた。私の「作文(原稿)」を、どこの出版社に持って行くかだった。
行き場のない原稿をいくら書いても、「本」にならなければ意味がない。そのための「半生記」だ。
無名で、貧乏な私の唯一のつては、「霊界の門」を出版してくれた、あの所だけだ。
早速、その件を出版社の社長に持ち出した。

この社長とは、その前にある「いきさつ」がある。
「霊界の門」のその後だ。私が二冊目の本を出したいと切り出したとき、こう言われたのだ。
「売れない本はやはりね~。一冊目が売れていれば、二冊目も出せただろうけど・・・」
と、結局私は、二冊目の本のつもりで、このブログを書いている、といういきさつです。
「社長、売れることは、売れるに決まっていますよ。何たって、極東のドンの半生記ですから・・」
と、私は先に言ってしまおうと、畳み込んだ。
社長の顔が曇っていく。(あら、売れる本だと、私言ったよね・・?なぜ)
「うちはね、健全な出版社だからね。健全を売り物にしている。だからヤクザの本はちょっとね・・・」
と、私は「健全」の前に負けてしまった。そう、「極道」は、どこから見ても、健全ではなかった
のだ。
そして、私の「行く先のない作文(原稿)」は、そのまま「幻」となって、消えた。

そして「ドン」松山 真一氏も、もうこの世の人ではない。
もう一人の「わるオヤジ」も、あの世にいる。
日本も、ヤクザの世界も「世代交代」が始まっている。
そんな事を知っている私も、世代交代の波の中にいる。
ここだけの話で、何が言いたいか?
そうだ、一つだけ。
「ヤクザ」とか「極道」とかいう看板を背負ってきた氏に、「なぜ、ヤクザだったのか」を聞いた
ことがある。

 『あの当時、韓国人が日本へ来て、上に登ろうと思ったら、自分はヤクザしかなかったよ。
  三浦のおやじさん(三浦組のドン)に可愛がられたことも幸いしたが。
  ぼくの思いは、人をいじめたり、女を犠牲にすることは道ではなかった。
  ハジキもね。麻薬もそうだ。それ以外のことで、「極道」が貫けるかを探していたといえば、
  いい子になりすぎかな~』

しみじみ語る、今は亡き「ドン」の話である。

たら、ればの話を是非させてほしい。
もし、私があそこで、安請け合いをしなければ、間違いなく「ドン・松山 真一」の半生記は、
家田 荘子によって、世に出たはずである。


その後、私に追ってがかかているという話も聞かない。
私の指は、ちゃんと十本ついている。
「ドン」の背後(霊界)を探ることも、途中挫折した。
氏との約束で一つ守った事がある。
氏が高齢になって、動かれなくなっても、私にまかせろと言って「介護」の資格をとった。
その時の氏のなんとうれしそうな声。(電話の向こうで、しみじみとつぶやく・・・うれしいよ~と)
氏が亡くなった今も、その「資格」だけは、私の脇に置いてある。
「約束」と「思い出」のきらめきで、光りながら。

 

ここだけの話「松山 真一氏」のこと  1

2012年02月28日 | 心霊現象
今日はまた、皆さまの知らない世界の話をいたしましょう。
これも、あの世の話ではありません。
「あの」松山 真一氏」の事です。もう故人になっておられますから、実名で。
皆様、この名前は、知ってますか?
知らない人が多いでしょうね。(ある意味、そのほうがホットします)

日本名「松山 真一」。泣く子も黙るヤクザの親分だ。「山口組」とよく抗争のあった、「極東」
のドンである。彼ら組の者(子分)は「総長」と呼んでいる。
東京、池袋界隈を中心に「仕切る」、極道の組長だ。
本人が「ヤクザ」といわれることを気にする(嫌う)ので、彼を「極道」と呼ぶことにしている。


ことの始まりは、私が一時席を置いた「町場の金貸し」の電話番からだった。
どこから見ても「ヤクザ」としか見えない一人の老人が、貸金の社長だった。
二人(松山氏と貸金の社長)は在日韓国人、お互いに「大邱」(てぐ)が故郷だった。
私も最初から「町金」の電話番をしたわけではない。
職安、今でいう「ハローワーク」の紹介で、一つの工務店に就職した。
その会社が、だんだん経営がおかしくなっていった。
「取り立て」が多くなってきた。
『ここはもう、あかん!来月からの給料なんか、出ないんとちゃうか?』と、大阪弁の職人が私に耳打ちをする。そのうち、一人、二人と職人が出てこなくなった。
工務店の社長は、「そんなことは、ない」と言ってはみたものの、二、三日会社へ戻らなくなっていった。そのうち、社長は店(会社)へ全然来なくなった。
おかしな電話が入るようになった。そんなある日、どこから見ても「ヤクザ」に見える「じいさん」
が、タバコをふかしながら入って来た。
「社長、今日もいないの。あいつめ!逃げ回っていてもダメだよ。顔を出すように言ってよね。
あんたを怒ってんじゃないよ・・・」と。そして帰っていった。
その後何度も来ては、同じことを繰り返し言って、帰った。そして最後の時、「もうここダメだよ。
どう?うちの電話番やる?来てみたらいいよ・・・」
そして、私は○○興業の電話番になった。

そこに2~3日座って電話番をしてみれば、すぐに分かることがある。
いかに「品がなく」、いかに「きわどい」稼業であるかが。
ただ、ヤクザに組しないだけの「一匹狼の金貸し、じじい」、その言い方がぴったりの人物だった。
まあいいか。そしてそこへ通い始めたのが、「事」の始まりだった。
その時日本は、バブル期の真っ最中。物件が面白いように、右から左に売れた。
「狂乱の日本」の時代だ。
「見ず、ミズ」とは、物件を見ないで、「ブローカー」に任せて取引することだ。
北海道の原野が、それで飛ぶように売れた。現地を見ないで札束だけが、日本中を駆け巡った。
「せんみつ」・・・「せんだみつお」のことではない。
物件の話をすれば、千に三つは、必ず取引が成立するという、確率の多さを言った言葉だ。
ブローカーは、その確率を「信仰」のように心に刻み、分不相応の夢を見続けた。
銀行、物件、手形、小切手、札束が「日本」の代名詞のように、時をせっけんした。
町金の事務所でさえ、そのおこぼれを充分にいただけた。
「いますぐ、用意して!取りに行くから」と言って銀行に電話をすれば、手形(担保用)と引き換え
に、私でさえ二千万円くらいは、渡してくれた。もちろん会社のお金である。
その「物」を、スパーの買い物袋に入れて、「ねぎ」や「ほうれん草」をその上に乗せて、一応の
カムフラージュをして銀行から会社へと、歩いた。
その時の日本は、金という意識ではなく、文字どおり「印刷物」のやり取りだった。
マヒしていたといえば、全身麻痺くらいに重篤であったのかもしれない。
そして狂乱の日本が見えてくる。この時代、日本に何を残して去ろうとしているのか・・・。
絶頂期はそんなことは誰も考えない。浮かれて踊れば、その日はそのまま確実に、次の日へと
繋がった時代だった。
東南アジアを中心に「女買い」に走り、日本人が「エコノミック・アニマル」と蔑(さげす)まれたことも知りながら、走り続けた。

時代はそんな時だった。
ある日、社長が私に品物を手渡して、こう言った。
「わたしの代わりに、ちょっと行ってきて」と。
その行先が、「極東事務所」松山総長その人であったということだ。
用は、お中元の品を渡して、帰ってくる、それだけのはなしだ。



<次へつづく>