豊橋教会では数年来コーヒータイムという集まりを続けていた。
土曜日の夜に7,8人のメンバーで聖書の学びをするというもの。賛美を歌い、C.S牧師のメッセージテープを聞き、各自心に留まったことを分かち合うというシンプルなプログラム。今まで、マタイの福音書に始まり、使徒の働き、黙示録、創世記と続いたが、創世記の半ばにして教会の働きが忙しくなり、中断していた。
そして、私たち夫婦が豊橋から東京に移ることが決まり、今までの内容で再開するのが困難になった。というのは、私の妻が賛美のリードをし、その牧師のメッセージ(英語)を通訳していたからである。
私自身の信仰生活にとってこのコーヒータイムの学びの存在も大きい。聖書の学び方を考えさせられることが多かった。その情報の豊富な内容もさることながら、主の恵みに対する絶対的な信頼と丁寧な聖書理解を目指すその姿勢が、聖書を通して神様に向かう心に光を与えてくれた。
集会が終わってからのドリンクとおやつの時間も大切な時間だった。たいてい集会そのものの時間よりも終わってからの時間が長くなった。こういうことを言うと真面目な方には戸惑いを与えてしまうかもしれないが、この時間も大事だった。もちろん楽しいおしゃべりをするわけだが、いつも冗談ばかり言っているわけではない。その話の中で具体的な聖書の適用などにも話が及ぶこともある。またお互いの意思疎通をとることもできた。忙しいウィークデイを過ごし、日曜日は一日中教会のスケジュールで動き回るメンバーが、ゆっくり語り合える時間として貴重だった。自然と誰もなかなか帰ろうとしない。また不思議とこんな飾り気のない集まりに、かつて一人の学生M君が導かれ、彼は救われた。今では教会の働きの良き協力者である。また彼は、私の妻の妹と婚約している。そう思うと人の巡り合いとその背後にある主の導きの不思議さを認めざるを得ない。
私たちが豊橋を離れることになり、教会の働きが一部縮小される。そこで時間に少々ゆとりが戻るということで、中断していたコーヒータイムが再開するといううれしい話も聞いている。集まっていたメンバーの中から、もう一度集まることを再開したいという動きが自然と生まれた。多少内容は変わるが、メンバーの中で役割を分担して進めていくという。個人に依存しない教会本来の姿を見るようで、自分はその中に加われないのは残念だが、正直なところうれしい。キリストの教会はこのように成長していくのだろうと思う。
私も何らかの形で貢献できたらいいなーとは思っている。今のところ、適当なメッセージテープ/CDを見つけたら送ってあげるつもりだ。
今後どのような形でコーヒータイムが進展していくのか陰ながら応援していきたい。
昨日は、そのコーヒータイムのメンバーと青年会の有志で私たちの送別会を開いてくれた。手作りの夕食を用意してくれて楽しい語らいの時間を過ごした。時間の過ぎるのを忘れて話し込んでしまった。こうした友人たちに支えられて自分たちの信仰が育まれてきたのだと思う。キリスト教は交わりの宗教だといった人がいるが、まさしくそうである。もちろん、教会が正統的な教えを保つ責任があることは当然のことだ。しかし、イエス様の意図された教会とは、ただ正統的な教えを持っているだけでなく、こうした温かみのある関わりが必要不可欠なのだ。私たちがこの教会でこうした関係を与えられていたことは本当にありがたいことであった。身をもって教会が何であるのかを学ばせて頂いた。
土曜日の夜に7,8人のメンバーで聖書の学びをするというもの。賛美を歌い、C.S牧師のメッセージテープを聞き、各自心に留まったことを分かち合うというシンプルなプログラム。今まで、マタイの福音書に始まり、使徒の働き、黙示録、創世記と続いたが、創世記の半ばにして教会の働きが忙しくなり、中断していた。
そして、私たち夫婦が豊橋から東京に移ることが決まり、今までの内容で再開するのが困難になった。というのは、私の妻が賛美のリードをし、その牧師のメッセージ(英語)を通訳していたからである。
私自身の信仰生活にとってこのコーヒータイムの学びの存在も大きい。聖書の学び方を考えさせられることが多かった。その情報の豊富な内容もさることながら、主の恵みに対する絶対的な信頼と丁寧な聖書理解を目指すその姿勢が、聖書を通して神様に向かう心に光を与えてくれた。
集会が終わってからのドリンクとおやつの時間も大切な時間だった。たいてい集会そのものの時間よりも終わってからの時間が長くなった。こういうことを言うと真面目な方には戸惑いを与えてしまうかもしれないが、この時間も大事だった。もちろん楽しいおしゃべりをするわけだが、いつも冗談ばかり言っているわけではない。その話の中で具体的な聖書の適用などにも話が及ぶこともある。またお互いの意思疎通をとることもできた。忙しいウィークデイを過ごし、日曜日は一日中教会のスケジュールで動き回るメンバーが、ゆっくり語り合える時間として貴重だった。自然と誰もなかなか帰ろうとしない。また不思議とこんな飾り気のない集まりに、かつて一人の学生M君が導かれ、彼は救われた。今では教会の働きの良き協力者である。また彼は、私の妻の妹と婚約している。そう思うと人の巡り合いとその背後にある主の導きの不思議さを認めざるを得ない。
私たちが豊橋を離れることになり、教会の働きが一部縮小される。そこで時間に少々ゆとりが戻るということで、中断していたコーヒータイムが再開するといううれしい話も聞いている。集まっていたメンバーの中から、もう一度集まることを再開したいという動きが自然と生まれた。多少内容は変わるが、メンバーの中で役割を分担して進めていくという。個人に依存しない教会本来の姿を見るようで、自分はその中に加われないのは残念だが、正直なところうれしい。キリストの教会はこのように成長していくのだろうと思う。
私も何らかの形で貢献できたらいいなーとは思っている。今のところ、適当なメッセージテープ/CDを見つけたら送ってあげるつもりだ。
今後どのような形でコーヒータイムが進展していくのか陰ながら応援していきたい。
昨日は、そのコーヒータイムのメンバーと青年会の有志で私たちの送別会を開いてくれた。手作りの夕食を用意してくれて楽しい語らいの時間を過ごした。時間の過ぎるのを忘れて話し込んでしまった。こうした友人たちに支えられて自分たちの信仰が育まれてきたのだと思う。キリスト教は交わりの宗教だといった人がいるが、まさしくそうである。もちろん、教会が正統的な教えを保つ責任があることは当然のことだ。しかし、イエス様の意図された教会とは、ただ正統的な教えを持っているだけでなく、こうした温かみのある関わりが必要不可欠なのだ。私たちがこの教会でこうした関係を与えられていたことは本当にありがたいことであった。身をもって教会が何であるのかを学ばせて頂いた。