マイペースで行こう

東村山市内のキリスト教会の牧師のブログです。更新も内容もマイペースですが、18年目に入りました。

集合

2006-03-21 23:25:07 | 豊橋での日々/帰省
私の妻のいとこを中心に、おじさんやおばさん、甥や姪が集まった。豊橋の教会を会場として使わせていただいた。今回集まったのは約30人。これでもまだ半分にも満たない。私も初めて妻の親戚の集まりに参加したときは圧倒された。もともと自分の親戚は少なく、一部を除いて付き合いもそれほど深くはなかったので、冠婚葬祭以外でこれだけの数の親族が集まるのには驚いた。
いっしょに食事をしたり、話をしたり、卓球をする人もいれば、いっしょにゲームに夢中になっている人もいる。それぞれ自由に楽しく過ごしていた。妻のいとこの中にスウェーデン人J君と結婚したSちゃんがいる。今回はそのスウェーデン人のご主人もいっしょに参加してくれた。彼は日本語が上手なので気兼ねなく話ができた。初めて会ったがすぐに親しくなれた。昼間、彼がリサイクルショップに行きたいというので3件くらい市内のリサイクルショップをいっしょに回った。どうやら楽しんでもらえたらしい。よかった。
夕食は弁当を注文し、テーブルを囲んでおしゃべりを楽しみながら食事をした。食事も終わり、落ち着いたところでプレゼントの時間。まずは今回スウェーデンから日本に来たJ君&Sちゃん夫妻に結婚のお祝い。そして遅ればせながら、私の妻の弟T君&Aさん夫妻にも。「それでは、皆さんありがとうございました」・・・で終わると思いきや、実はまたしてもサプライズ!「Mさん、A君、前へどうぞ・・・」私たち夫婦にもプレゼントが用意されていた。実は今回の集まりの企画の段階で、これを狙っていたとのこと。私の妻もまさかの予想外の展開に戸惑う。今回の集まりの趣旨は、二組のカップルの結婚のお祝いだと聞いていたので、その上でいろいろ準備していたがこういう展開になるとは思いもよらなかったに違いない。
Kファミリーの集合がかかると何かが起こる!?

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コーヒータイム

2006-03-21 22:33:45 | 豊橋での日々/帰省
豊橋教会では数年来コーヒータイムという集まりを続けていた。
土曜日の夜に7,8人のメンバーで聖書の学びをするというもの。賛美を歌い、C.S牧師のメッセージテープを聞き、各自心に留まったことを分かち合うというシンプルなプログラム。今まで、マタイの福音書に始まり、使徒の働き、黙示録、創世記と続いたが、創世記の半ばにして教会の働きが忙しくなり、中断していた。
そして、私たち夫婦が豊橋から東京に移ることが決まり、今までの内容で再開するのが困難になった。というのは、私の妻が賛美のリードをし、その牧師のメッセージ(英語)を通訳していたからである。
私自身の信仰生活にとってこのコーヒータイムの学びの存在も大きい。聖書の学び方を考えさせられることが多かった。その情報の豊富な内容もさることながら、主の恵みに対する絶対的な信頼と丁寧な聖書理解を目指すその姿勢が、聖書を通して神様に向かう心に光を与えてくれた。
集会が終わってからのドリンクとおやつの時間も大切な時間だった。たいてい集会そのものの時間よりも終わってからの時間が長くなった。こういうことを言うと真面目な方には戸惑いを与えてしまうかもしれないが、この時間も大事だった。もちろん楽しいおしゃべりをするわけだが、いつも冗談ばかり言っているわけではない。その話の中で具体的な聖書の適用などにも話が及ぶこともある。またお互いの意思疎通をとることもできた。忙しいウィークデイを過ごし、日曜日は一日中教会のスケジュールで動き回るメンバーが、ゆっくり語り合える時間として貴重だった。自然と誰もなかなか帰ろうとしない。また不思議とこんな飾り気のない集まりに、かつて一人の学生M君が導かれ、彼は救われた。今では教会の働きの良き協力者である。また彼は、私の妻の妹と婚約している。そう思うと人の巡り合いとその背後にある主の導きの不思議さを認めざるを得ない。
私たちが豊橋を離れることになり、教会の働きが一部縮小される。そこで時間に少々ゆとりが戻るということで、中断していたコーヒータイムが再開するといううれしい話も聞いている。集まっていたメンバーの中から、もう一度集まることを再開したいという動きが自然と生まれた。多少内容は変わるが、メンバーの中で役割を分担して進めていくという。個人に依存しない教会本来の姿を見るようで、自分はその中に加われないのは残念だが、正直なところうれしい。キリストの教会はこのように成長していくのだろうと思う。
私も何らかの形で貢献できたらいいなーとは思っている。今のところ、適当なメッセージテープ/CDを見つけたら送ってあげるつもりだ。
今後どのような形でコーヒータイムが進展していくのか陰ながら応援していきたい。
昨日は、そのコーヒータイムのメンバーと青年会の有志で私たちの送別会を開いてくれた。手作りの夕食を用意してくれて楽しい語らいの時間を過ごした。時間の過ぎるのを忘れて話し込んでしまった。こうした友人たちに支えられて自分たちの信仰が育まれてきたのだと思う。キリスト教は交わりの宗教だといった人がいるが、まさしくそうである。もちろん、教会が正統的な教えを保つ責任があることは当然のことだ。しかし、イエス様の意図された教会とは、ただ正統的な教えを持っているだけでなく、こうした温かみのある関わりが必要不可欠なのだ。私たちがこの教会でこうした関係を与えられていたことは本当にありがたいことであった。身をもって教会が何であるのかを学ばせて頂いた。

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忘れられない一日

2006-03-21 01:05:47 | 豊橋での日々/帰省
3/19は、私にとって大切で記念として忘れられない一日だった。
午前は豊橋教会でささげる最後の礼拝。教会に足を運び始めるようになって15年以上も信仰生活を送った教会での礼拝。
会衆で聖歌を歌う最中に涙がでてきた。私の半生に大きな影響を与えた教会生活。それを覆っている主の恵みと憐れみ。それを思うと圧倒される。
その後、グレイスクワイヤー(豊橋教会のゴスペルのグループ)の賛美。目をつむりながら聞く。いっしょに各地の教会へ出かけて奉仕したことが、今となってはなつかしい思い出になってしまう。私個人の説教だけでは絶対奉仕に呼ばれることはなかったであろうことは明らかだ。あれだけのいろいろな経験をさせてもらえたのは、このクワイヤーの姉妹たちの存在があってこそだとつくづく思う。そして、ともに奉仕へと導いてくださった主に心からの感謝。
説教に立った牧師(義理の父)も説教前に言葉につまる。「今まで、周りの方々から『寂しくなりますね』と言われても全然平気でしたが…、今朝、教会の事務所に何気なく入って行ったら…急に、思い出されて…小学生の頃から知っているA君がこうして……」予期せず貰い泣き。
そして、約4年前、私たちのために、結婚のお祝いとして、豊橋教会のTさんというおばあちゃんが詠んでくださった句を牧師が会衆に披露。
「遠からず 牧師となりて 伝道に 旅立つ二人の 門出祝さむ」
講解説教のため、先週の続きとして、使徒の働き6章、ステパノの箇所から語られる。恵みと力に満ち、知恵と御霊の人とされたステパノの存在。教会の働きを円滑にする彼のように、自分も変えられていきたいと願う。困難や迫害にあうとしても、天使のように輝いた表情でいられるほどの信仰者でありたいと願う。
昼食と掃除を終えて、しばらくすると、いよいよ壮行会。
予め用意してあった垂れ幕を会堂の正面の壁に貼ってくれた。
私たちは、引越の準備の最中に写真とアルバムが出て来たので、自由に見て頂くコーナーも作った。ここ半年の間に時間を作って取り組んで来た、英語の信仰書の翻訳を希望者に配付。
豊橋バンドの新居、豊田、新所原からも牧師先生ファミリーや兄弟姉妹が駆け付けてくれた。
豊橋教会のT伝道師が司会をしてくださった。各教会の先生方が激励の言葉をくださった。私たち夫婦を幼い頃からよく知っている方々ばかりなので、笑いあり、涙ありのエピソードを含めて(でもやっぱり笑いの方が多かったかな?)聖書の言葉を贈ってくださった。続いてタイで宣教師として働いたことのあるW先生のショートメッセージ。ヨシュア記から「雄々しくあれ。強くあれ。」「主がともにおられる。」と先生の体験を交えて教えてくださった。W先生には本当にお世話になった。豊橋教会で開かれた宣教師訓練学校という聖書の学びで教えて頂いたばかりか、結婚式の司式もして頂いたのである。奇しくも、私の父の大学時代の尊敬する先輩であったことも主の導きを感じる。
按手の祈り。講壇前で膝まづき、先生方に手を置いて祈って頂く。厳粛な一時。
その後、挨拶。とくに原稿を用意したわけではないが、ある程度心の内に準備しておいたことをみなさんにお話しした。
記念撮影。全体で撮った後、家族ごとで順番に撮影。実は結婚式の時、時間の都合で、私たち夫妻と教会員の家族毎で記念撮影ができなかった。それもあって結婚後約4年越しで撮影することになった。
その後、夕食。弁当をみんなで食べた。
実はこの後に、サプライズあり!それは教会員有志で私たちにプレゼントを用意してくださっていた。大きな箱に布がかけられていた。「布をとってください」とのこと。布をとると、なんとノートパソコンとプリンター。妻と二人顔を見合わせて、しばらく言葉を失う。
どこの教会で送り出す人にパソコンをプレゼントするクリスチャンがいるだろうか?あらためて自分達を囲む人達が、どれほどの思いで送り出して下さるのかを見せられた。
こんな高価な贈り物を受けるには相応しくないのは自分達がまず認めるところである。まさに「恵み」である。



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