マイペースで行こう

東村山市内のキリスト教会の牧師のブログです。更新も内容もマイペースですが、18年目に入りました。

ピンチの時こそ真価が試される

2008-02-08 16:41:20 | 教会の風景
月曜日は御茶ノ水で牧会カウンセリング講座。
前回に続く「家族カウンセリング」について。
その中で心に残ったことを記録しておきたい。


家族カウンセリングの目標とするところは・・・

* 家族が通常の発達と成熟を果たせる環境作りの援助(ex.過保護や過干渉を解消)する。
* 家族が目標を果たすため一致して協力できるように援助する。
* 状況変化(親の介護、夫の転勤・リストラ、子供の受験 etc.)に家族が対応できるように援助する。

最後の項目は、最近私自身も心に留まっていたことだった。
創世記からの礼拝説教もその視点から話したことがあった。


クリスチャンの中にある誤解。

「問題があること」=「祝福を失っている」
「(表面上)何事もなくうまくいっている」=「祝福されている」

この考え方だと・・・
何か大変な問題が起きると、自分や誰かを責めて、もとの問題以上に混乱してしまう。
問題自体はどこの家庭にも起こり得る。
家庭によって問題の程度とどのように対応できるかに差が出るだけの話。

本当に祝福された家庭は、問題が起こった時(あるいは気付いた時)に解決のために各自が協力できる態勢にある。
問題が起きたとき、もし家庭内で対応できないならば、援助してもらえば良い。
そして、援助者の役割は、協力できる環境を整えること。



ちょうど、その講座の中で語られた例話で昔の経験を思い出した。

まだ私が小学生の頃、家族でドライブ&旅行に出かけた。
高速道路を走っていたら、急にエンジンルームから煙が!!
運転していた父は、路肩に車を寄せた。
さすがに突然の出来事で父と母は驚いたようだった。
結局、確か原因はラジエーターの破損だったか何かで、サービスエリアごとに水を補給しながら帰った。
その時、両親は最初は驚いたようだったが、その後の対処は非常に穏やかだった。
その後も「あの時は驚いたよ~」という話の種になる程度だった。

もしこれが・・・
アクシデント発生 → 父はイライラ → 母はパニック → 子供である私たちまで不安。
せっかくの楽しい思い出が嫌な思い出になってしまっただろう。

講師の先生の話を聞きながら、懐かしい気持ちになった。
あらためて自分の育った環境が恵まれていたんだと実感した。
当時子供である自分にとって、家は常に安心できる場所だった。
まったく問題がないわけではなかったと思うけれど、対処できる安定感があったのだと思う。
あらためて家族の大切さを認識した講義だった。





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Footprints 2

2008-02-08 15:37:36 | Footprints
前回「Footprints1」を書いてから随分たってしまいました。
なんだか先延ばしになってましたが、続きを書きたいと思います。
「マイペース」と言ってるだけのことはあります。
この次もいつになるかわかりません。
ごめんなさい。


さて、前回は小学生の時に初めて教会に行ったいきさつを書きました。
でも、そこからすぐにキリスト教一色であったわけではありません。

これも小学生の頃のことです。
クラスの友達に誘われたので、天理教のイベント(天理市で開かれた)にも旅行気分でいったことがありました。
もうあまり覚えていませんが、教祖が祀られている(「お隠れになっている」って言ってたかな・・・)施設にも行った記憶があります。
ホントかな?なんて思って興味津々で覗き込んだら、「ダメ」って言われちゃった~。

他にも・・・小学5年生の頃、母方のおじいちゃんの一周忌の時にはわざわざ永平寺まで親戚で出かけたこともありました。
こちらもほとんど記憶には残っていませんが、なんだか陰鬱な雰囲気だったように思います。
もちろん、おじいちゃんの一周忌ということで行ったわけですから、そのせいもあったのでしょうが。


たぶん神さまの目から見たら、少年A(当時の私)はあっちへフラリ、こっちへフラリとしていると思われたことでしょう。
それでも、神さまは見捨てなかったわけです。

旧約聖書を読んでいると、選ばれていながら簡単に神さまを捨ててしまうイスラエル人の様子がよく分かります。
そして、そんなイスラエル人を主は本当によく忍耐しておられる。


旧約聖書のイスラエル人の姿、なんだか他人ごととは思えないですね。
主の忍耐と憐れみの心は本当に深い!
だからこそ、この方が本当の神であると知った今は、この方を大切にしていきたいと思うわけです。

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高価な贈り物

2008-02-08 09:30:53 | 聖書通読
今朝読んだ聖書箇所:ヨハネ1:35-42

「その翌日、またヨハネは、ふたりの弟子とともに立っていたが、
イエスが歩いて行かれるのを見て、
『見よ、神の小羊。』と言った。」(35,36節)


ヨハネはイエスさまのことを「神の小羊」と言った。
前の場面でも「世の罪を取り除く神の小羊。」と言っている。

旧約聖書の時代、罪を犯した人の償いとして動物の血が流された。
羊は、罪を犯した人の償いのため祭壇で犠牲とされる動物のひとつ。

「神の小羊」イエスさまは、「世の罪を取り除く」ために来られた。
聖なる神さまの罪に対する怒りは、この方の死によって解消された。

この方のおかげで、私たちは自分の罪とその刑罰から解放される。
この方のおかげで、私たちは神さまと喜びをもって交わることができる。
この方のおかげで、私たちは決してなくなることのない希望を持てる。

この方を信じる者に条件なしで与えられる救い。
神さまが計画し、実行された救いの御業の行き届いていること!

日曜の分級でも「キリストを最高の賜物として称える神学を持ちなさい」と教えられた。
やっぱりイエスさまは最高の贈り物。

「言葉に表せないほどの賜物のゆえに、神に感謝します。」(コリントⅡ9:15)

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