今度の日曜日、Youth for Jesusで話すメッセージの準備。
ガラテヤ書5:16-6:2
聖書の救いの二面性
■「すでに」救われている
「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからである。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」(ローマ10:9,10)
■「いまだ」完成していない
「私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。私たちはこの望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。」(ローマ8:22-25)
この二面性から(特に「いまだ」完成していない面のゆえに)信じている者の中にも葛藤が起こる。
聖書は、その葛藤が起こる理由を信者の中にある「肉」と「御霊」という二つの性質を示して、次のように説明している。
「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。」(ガラテヤ5:16,17)
イエス様を信じた時点で、何もかもが解決するかというとそうではない。
信仰をもっても、この地上での生涯を終えるまでは、御霊に従うか肉に従うかの選択をしていくことが求められている。
もし信じた時点で完全にされているのならば、教会には問題が全く起こらないはずである。
そして、新約聖書の後半部分も存在していなかっただろう。
なぜならば、新約聖書の書簡(手紙)と呼ばれる部分は、当時の教会内の問題に対処するために書かれたという背景があるからだ。
■肉と御霊
上記のガラテヤ書の続きでは、それぞれ肉と御霊という性質がどういうものであるかを示している。
「肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。」(5:19-21)
おおまかに分類すれば、性的な乱れ(不品行は結婚外で性的な関係を持つことを指す)、主なる神様への信仰から外れること(魔術というと余り実感がないと思うが、今日ごくありふれた占いもこの範疇に入るだろう)、他者との関係の問題、不健全な娯楽とでも言えるだろう。
私たちの内にある肉は、自然とこのようなことを求める。
信者と呼ばれる人が問題行動をするのは、この肉に従って行動したときである。
教会内に大きな悲しみと痛みを引き起こすのは、この肉のゆえである。
一方、聖書は御霊に導かれて生きることを勧めている。
御霊に導かれている人の中に見られるものは、次のように示されている。
「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」(5:22,23)
ここで「実」という言葉は単数形である。
九つの実があるというのではなく、愛に集約された一つの実が見られるととることができる。
後に続くのは、愛という実に含まれる特徴を挙げていると考えた方が文意に沿うだろうと思う。
信者の生活で愛というが実が結ばれていくのは、この御霊によって導かれる時である。
そして御霊によって導かれるとき、私たちは本当の意味で心満たされる幸せを感じることができる。
■御霊によって導かれるために
では、御霊に導かれるための方法を聖書はどのように教えているか?
①主の十字架への信仰
「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。」(ガラテヤ5:24)
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し、私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2:20)
②仲間同士の協力
「兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。」
ガラテヤ書5:16-6:2
聖書の救いの二面性
■「すでに」救われている
「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからである。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」(ローマ10:9,10)
■「いまだ」完成していない
「私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。私たちはこの望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。」(ローマ8:22-25)
この二面性から(特に「いまだ」完成していない面のゆえに)信じている者の中にも葛藤が起こる。
聖書は、その葛藤が起こる理由を信者の中にある「肉」と「御霊」という二つの性質を示して、次のように説明している。
「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。」(ガラテヤ5:16,17)
イエス様を信じた時点で、何もかもが解決するかというとそうではない。
信仰をもっても、この地上での生涯を終えるまでは、御霊に従うか肉に従うかの選択をしていくことが求められている。
もし信じた時点で完全にされているのならば、教会には問題が全く起こらないはずである。
そして、新約聖書の後半部分も存在していなかっただろう。
なぜならば、新約聖書の書簡(手紙)と呼ばれる部分は、当時の教会内の問題に対処するために書かれたという背景があるからだ。
■肉と御霊
上記のガラテヤ書の続きでは、それぞれ肉と御霊という性質がどういうものであるかを示している。
「肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。」(5:19-21)
おおまかに分類すれば、性的な乱れ(不品行は結婚外で性的な関係を持つことを指す)、主なる神様への信仰から外れること(魔術というと余り実感がないと思うが、今日ごくありふれた占いもこの範疇に入るだろう)、他者との関係の問題、不健全な娯楽とでも言えるだろう。
私たちの内にある肉は、自然とこのようなことを求める。
信者と呼ばれる人が問題行動をするのは、この肉に従って行動したときである。
教会内に大きな悲しみと痛みを引き起こすのは、この肉のゆえである。
一方、聖書は御霊に導かれて生きることを勧めている。
御霊に導かれている人の中に見られるものは、次のように示されている。
「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」(5:22,23)
ここで「実」という言葉は単数形である。
九つの実があるというのではなく、愛に集約された一つの実が見られるととることができる。
後に続くのは、愛という実に含まれる特徴を挙げていると考えた方が文意に沿うだろうと思う。
信者の生活で愛というが実が結ばれていくのは、この御霊によって導かれる時である。
そして御霊によって導かれるとき、私たちは本当の意味で心満たされる幸せを感じることができる。
■御霊によって導かれるために
では、御霊に導かれるための方法を聖書はどのように教えているか?
①主の十字架への信仰
「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。」(ガラテヤ5:24)
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し、私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2:20)
②仲間同士の協力
「兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。」