幕末の話である。お寺の住職に、異国の宣教師に寺を明け渡すように、幕府から命令が下った。住職は明くる日にはサッサと荷物をまとめて出ていったそうである。寺の本尊である、阿弥陀仏はそのままであったそうである。その宣教師は、その話を聞いて、その住職の宗教心のなさにあきれかえっていたそうである。ヨーロッパでは、考えられないことだからである。一神教である神に背くことは、ひるがえって、自分のアイデンティティーが亡くなることであるから、自分じゃ亡くなるのである。そんなことは考えられないから、住職の行動が理解できないのである。
ひるがえって、現在の日本人の宗教心はどうか?
私が思うに幕末の住職とあまり変わっていないのかと思う。普段は宗教心なんて無いようにみえるのに、年始には神社にお参りに出かける。人が亡くなると、喪服に着替えて、仏式葬儀に出席する。その人の宗教心が神式であるか仏式であるか解らない。どっちでも良いのかも知れない。あなたはどう考えますか?
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「真の仏」と「仮の仏」が一如(同じ)であるという意味です。
ここでいう「仮の仏」とは一般には仏像を指します。
お寺の本尊も「仮」ですし、各家の仏壇の仏像も同じ「仮」です。
なにも本堂内の本尊だけにとらわれる必要はないのです。
この住職には宗教心がないと決め付けるのは簡単ですが、その心の内を深く見つめると、「本尊だけが仏ではない。各々に仏がある」とも読み取れます。
すべては「真の仏」と一如なのですから・・・。
ハッキリするためには、この住職のその後がわかれば、いいのですが?
何か情報がありますか?
ないのであれば、簡単に決め付けない方が良いと思いますよ。