高麗人参の泰盛社 あきない日誌

このブログでは高麗人参産地の様子や加工法,栽培法をご紹介したり、食べ方、エピソードなどをご紹介できればと思います。

泰盛社の発祥

2013年11月30日 | 4代続く 泰盛社の商品とこだわり
先日、長野で懇意にしている栽培者から冷凍庫を使わなくなったから取りに来るならあげるよと言われ、シェアハウスを利用してもらっているお客さんと一緒に長野へ

長野に冷凍庫をもらいに行くついでに農家を何件か回り夕方になってしまいました
秋の夜長と言うように日が落ちるのが早くなり暗くなってしまいましたが、年に数回来るとはいえ、僕の祖父や先祖の墓に来るのは簡単ではないのでトラックの荷台に冷凍庫を積んだままお墓参りに行きました。



一族のお墓は長野県の丸子町にあり(今は上田市になりました)ここは一族の発祥の地です
詳しくはウィキぺディアで依田氏で検索してみてね!!

歴史マニアのシェアハウスの子が時間があれば行ってみたいといつも言っていたので僕は墓参りに、彼はその間、お寺をくまなく探検
なぜならここは知る人ぞ知る、木曽義仲公出兵の地でお墓があるお寺は義仲公が戦勝祈願したお寺なんですね。



お寺からの夜景


お墓のあるお寺から徒歩で十分くらい歩くと 依田神社と言う一族の神社もあります

子供のころ御祖父さんの畑の上あたりに山城の跡があると言われていましたが、僕は恥ずかしながら上ったことがありません
一度登ろうとしてあまりの険しさに断念しましたが今は地元の歴史保存会の人に尽力していただいてかなり登りやすくなったそうです。

依田一族はこの地で平安のころに荘園の領主として派遣された源為実公が荘園の名前 依田を名乗ったところから始っていると言われています。(僕自身、ウィキで知ったんですけど、、、)

だいぶ歴史をはしょりますが泰盛社はこの場所で幕末のころより名乗っておりました、江戸時代、幕末と一族はこの地域をおさめつつ、養蚕業が盛んなこの地域で積極的に営んでおりました。事実ここはかつてカネボウの城下町と言われるほどに大きな紡績工場があり昭和の中ごろまでかなり栄えていたそうです。(父親の話では)

依田神社には養蚕業をしていた証拠として蚕塚があります

泰盛社は初代 依田長吉が興しましたが高麗人参栽培はそれ以前にもしていたようです、(何分資料が乏しく、祖父や父親の話の伝聞なんですが)当時は幕府や藩の管理する産物として売買が勝手にはできなかったようです。それが明治になりできるようになってから横浜の唐人街(中華街)で華僑を通じて東南アジアに輸出されていました。

日本に皆さんには知られていませんが高麗人参栽培の歴史は古くかつては日本の輸出産物ではかなり重要な地位を占めておりました。

泰盛社ではこれからも高麗人参の普及と復興に力を入れて行きたいと思います











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