あの日 鹿沼児童6人クレーン車死亡事故遺族の想い - blog -

てんかん無申告で運転免許を不正取得したクレーン車の運転手により、登校中の児童6人が歩道上で轢き殺された事故【遺族ブログ】

クレーン車運転手が奪ったもの

2015-04-18 | 日記
今朝の下野新聞(平成27年4月18日)、
大森幹太くんの事故への思い、弟への想いの取材の記事が掲載されていた。

当時、中学2年生だった幹太君
学生だったがゆえに彼が、弟のために、親と一緒に戦うことが出来なかったもどかしさや悔しさ、悲しみが文面から伝わってきて涙がこぼれた。

<2015.4.18下野新聞記事より>
学校での友人との会話で「この間、ケンカしてさ、ウザイよね」。そんな言葉に「ウザくたっていいじゃん、いるんだから」...

両親が裁判に出かけたり、署名活動で声をからす日々。「野球なんてやっている場合か」「署名活動をした方がいいのでは」と情けなさを感じもした。

財布の中に卓馬くんの写真を持ち歩き「弟が何かをすることはもうできない、僕が何かをするときは、弟も一緒にやるという二人三脚のような感じ」


紙面には、胸を締め付けられるような言葉が並んでいた...
大人の我々であっても、これから先の人生をどうやって生きていけばいいのかわからない現状、普通の生活ではなくなってしまった悲しみの人生を、6人の兄弟姉妹は、親である僕たちよりもずっとずっと長い間、考え、悲しみ、苦しみながら生きていかなければならない人生になってしまった現実。

政治家を目指すという幹太くんの思い
署名活動を行い法改正を成し遂げた僕たちだからこそわかる、彼が政治家をめざすその思い、その志...
その胸の奥に秘めた強い想いを感じれば感じるほど、ルールを守らなかった運転手と、おかしなものを ”おかしい”と思いながらも見過ごしてきた社会に対する怒りを感じる。


大芽が亡くなった日、警察署で泣き崩れる両親をみて、
「私が大芽の代わりにサッカーやるから」と言った娘メイカの言葉...

事故現場で血だらけで横たわる弟を間近に目にしたメイカが、最後のお別れのとき、大芽の棺にれた手紙の中で、大人の我々でも守れるはずもないはずの事故なのに「守ってあげられなくてごめんね」と自分を責めながら、大芽との別れに添えた言葉...


関口美花ちゃんに書いた、いとこのはるま君の手紙...

「みかちゃんへ

  みかちゃん、またけんかすると
  おもったけど、そのひしなかったね
  もうできないんだね

             はるまより」


6人のそれぞれの兄弟姉妹たちは、どんな思いをその小さな胸に抱え、この4年間を過ごしてきたのだろうか


クレーン車の運転手には、6人の命、6人の人生の他にも奪ったものの計り知れない大きさ、取り戻すことのできないものの、その大きさに早く気付いてほしい。

決して戻ることのできない”あの日”
決して返すことのできないそれぞれの幸せだった人生、未来
決して返すことのできない奪ってしまった命... 
 
 
こどもたちの命日にあたり、クレーン車の運転手のように身勝手な考え方で法を犯し、大人がルールを守らないことによってルールを守っていた何の罪もない子どたちの命が奪われてしまうという、こんなにも悲惨で、こんなにも理不尽な悲しい事故が繰り返されないことを心より願います






 
 
 





  

さくら

2015-04-05 | 日記
美しく咲き誇るさくらを目にして
ただ純粋に美しいと感じることができたのなら、どんなに幸せなことだろうか

あの日、あの事故によって、僕たちが見る景色は変わってしまった。
身勝手なクレーン車の運転手により、無理矢理変えられてしまった。

加害者であるクレーン車の運転手...
運転手の刑務所での反抗的な受刑態度を知る度に、被害者と加害者の苦しみの乖離を思い知らされる。

もし、クレーン車の運転手が塀の中でさくらを見ることがあるのならば、そのさくらの花は、運転手の目にはどのように映るのだろうか
満開のさくらを目にして、心締めつけられる事はあるのだろうか
生きたくても生きることができなかった子どもたちを、思い出す事はあるのだろうか



美しいさくらを目にし、心癒されるよりも、どうしても悲しみの感情が湧いてきてしまう。
寂しい感情だと自分でも思うが、愛する人を失うということは、永遠に続くこの感情と共に生きていかなくてはならないということなのだろう...

一方で、あと3年もすれば、反省しようがしまいが、クレーン車の運転手は服役を終え、出所し、生きていくことができる。
そして、生きていられるのだから、人生の中では、幾度となく満開のさくらを目にする事が出来るのだろう...
でも、そうだとするならば、クレーン車の運転手や、運転手の身勝手な行動を助長し、車を買い与えた続けた運転手の母親には、せめて、その時期に同様にさくらを見ている僕たちが、どのような思いでこの季節を迎え、どのような想いで ”さくら”を見ているのかを心に感じ、この季節を迎えてほしい。

僕たちが、さくらのその美しさと同時に感じなければならない深い深い悲しみ、苦しみを感じて生きていってほしい。

心よりそう願っている。