7月2日(火)、仕事から家に帰ると、突然、受刑者の母親から、差出人の住所、連絡先の記載のない手紙が届いていた・・・
【内容】
・しばらく連絡ができなかったのは、民事裁判の弁護士から、判決が確定するまでは、遺族と接触をとめられていたからです。
・母親としての責任は、息子が、出所後更生した姿をご遺族の皆様に見せられるように息子を支えていくこと。
・息子は、交通の不便な場所で、車の免許を取らない選択肢が現実的に難しく、止めることができませんでした。
・私の親兄弟は、責任の取りようがない。
・償いの方法は、新たに依頼した弁護士とともに考えたい。
続いて、翌日の7月3日(水)、突然、仙台の弁護士から、私と私の両親、妻の両親(その他、亡くなった6人の子供たちの6家族とその両親)あてに、名前も知らない法律事務所からの封筒で手紙が届いていました・・・
【内容】
・加害者家族のための活動をしているワールドオープンハートからの紹介で弁護士の依頼を受けた。
・今後、母親に対する要望があれば、私宛てに連絡をください。
確かに、「誰しも突然加害者の家族になりうる」という、ワールドオープンハートという団体さんの活動もわかります
しかし、もし自分がこれだけこの事故に関与してきた母親で、民事裁判の判決でもその責任が異例の判決となって明確に認められた母親の立場だったと考えたとしたら、遺族や遺族の両親に対して、突然、「弁護士を通じて償い方を考えます」 という内容の文面を送ることは、刑事裁判や民事裁判の記録、各種報道、法改正への遺族の思い、遺族の心情から考えて、適切であっただろうか・・・ ということも考えてほしかったと思います。
弁護士さんを委任しても委任しなくても別に構いませんが、弁護士を委任したことを私達に伝えることによって、受刑者や母親が考える、どんな子供たちへの償いや事故を後悔する気持ちが 被害者や被害者遺族に伝わるというのだろうか
今回の鹿沼の事故では、母親自身が「誰しも突然なる可能性のある加害者の家族・・・」ではなく、反省すべき民事裁判でも責任がはっきりと認められた立場でもあるのだから、遺族にしてみれば、自分が積極的に関与してきた犯罪を、自分自身の考え方で後悔し、悔いてほしいと思うのは当然なのに・・・
何故、自分自身で考えて、行動することができないのか・・・
「新しい弁護士と償いの方法について考えます」の意味するもの・・・
私達遺族は、弁護士は委任しておりません。
そういった意味では、ある意味無防備な、一般の人間です。
愛するわが子に二度と逢えないことに、こんなにも遺族は苦しんでいるのに、謝罪とは・・・ 償いとは・・・ いったい何なのだろう。
なんだかとても悲しかった・・・
母親から届いた手紙の内容の中で書いてありましたが、現実として、裁判でふてくされていた受刑者の出所後の更生した姿を我々遺族がが見るということは、喜ばしいことなのだろうか。
出所後に、人様の一人に一つしかない大切な大切な命を、二度と奪うことの無いようにすることは、我々遺族にわざわざ伝えなくても、当たり前のことであり、ご自身はもとより、受刑者本人が、勝手に考えてもらいたいと思っています。
出所後のことは今はよくわかりませんが、自分の気持ちとしては、二度と同じ過ちを繰り返さないようにただただ願っているだけだし、同じ受刑者によって再度私たちのように苦しむ被害者や被害者遺族が二度と出ないようにしてもらいたい、という願いだけなので、自分の子供を殺した人間が、更生した姿を見せられてもうれしいとは思わない。
何故なら、愛するわが子は生きていないのだから・・・
むしろ、我々が望むのは、この事故がなぜ起こってしまったのかということを、心から反省することと、心から後悔し、心から謝罪し、一生悔いて生きてほしいということであるのに、またしても、その意に反し、「新しい弁護士に相談して・・・皆様への償いの方法を考えたい」と手紙で伝えてくる母親がいる現実。
一番怖かったのは子供たち・・・、一番痛かったのは子供たち・・・、一番苦しかったのは子供たち・・・、一番無念なのは子供たちです。
6人の子供たちに対しての心からの償いは、どこへ行ってしまったのでしょうか。
弁護士を委任しても構わないが、委任したことを、私や私の妻、私の両親、妻の両親、6家族と6家族の両親にわざわざ伝えてくることに、何の意味があるのでしょうか。
受刑者にセルシオを買ってあげた祖母は関係ありません・・・ と一方的に手紙で伝えてきているのに、自分は自分の言っていることに反し、我々の両親に突然、弁護士の手紙を送りつける・・・
突然、名も知らぬ弁護士から、孫を亡くし、心傷ついている祖父母の住所宛てに、「母親に要望があるなら私を通してください」という内容で、名も知らぬ弁護士事務所の封筒で手紙が自宅に届くということ・・・意味のわからない内容の手紙で祖父母達が困惑し、その心無い内容によって、更に心を痛めてしまう・・・ということが、何故想像もできないのだろうか・・・
同じ原告であった子供たちの兄弟には、この弁護士からの手紙が送られてこなかった事はせめてもの救いでした・・・
民事裁判で、母親が全く気付いていなかった「責任」・・・民事裁判の私達6家族の意見陳述を聞かずに立ち去ってしまい、受け止めようとしなかった我々の愛する我が子への想い・・・
母親は、今まで、どのシーンにおいても、いつも自分ばかり守ろうとし(今回の手紙もそうだが・・)、子どもたちの痛みや苦しみ、無念さを現実として受け止めてきませんでした。<o:p></o:p>
私達は、民事裁判では、裁判がどんなに短い時間であろうとも、会社を休み、法廷に出向きました。
だから、受刑者や母親にも欠席せず法廷に出向き、この事件に向き合ってほしかった。
しかし、母親は、辛くても法廷に来て、我々の話を聞き、この事件や被害者や遺族に向き合うという事をせずに、闘う事を選んでしまいました。<o:p></o:p>
闘ったとしても別にかまいません。
しかし、せめて、意見陳述だけでも聞いてほしかったと、私は今でも強く思っています。<o:p></o:p>
何故なら、意見陳述での我々の苦しみの声を、加害者である受刑者や民事上責任のあった母親が聞かなければ、我々が、我々の命よりも大切な大切な我が子への想いが伝わらないからです。
また、「息子は、交通の不便な場所で、車の免許を取らない選択肢が現実的に難しく、止めることができませんでした」と手紙にありましたが、本当に今もそう思っているのでしょうか・・・
受刑者は、家から徒歩で5分程度の会社に勤務して、月給20数万円の給与をもらい、てんかんの持病も会社に理解していただいて勤務していたことは、刑事裁判でも明らかになっているし、お母様ももちろんご承知だと思います。
刑事裁判の裁判官が、「目が見えない人、聞こえない人、世の中にはさまざまな人が、自分ができる範囲の中でできることをやって懸命に生きていますよ」とおっしゃったことを聞いていなかったのでしょうか。
医者に何度も何度も運転を止められ、10年間で12回も事故を起こしていた受刑者に、車を買い与える必要があったでしょうか。クレーン車の免許を取得し、わざわざ鹿沼市の重機会社に転職する必要があったでしょうか。クレーン会社の前の勤務先の状況から考えて、本当に車が無くては生きていけない状況だったでしょうか。
世の中には、確かに仕事と生活、持病との狭間で車の運転を悩み、苦しんでいらっしゃる方はたくさんいらっしゃると思いますが、受刑者の刑事裁判記録からは、車はなくても生活ができていたことは明らかです。
母親が今回の手紙に書いてきた「交通の不便な場所で、車の免許を取らない選択肢が現実的に難しく・・」ということの真意、あの事故から2年が経っているが、本当にまだそう思っているのだろうか。
我々が、あの事故以来ずっと、各機関、各関係者に訴え続けている「事故原因の本質」、子供を亡くし辛い中にあっても我々遺族が法改正の署名活動を行った意味、”命の尊さ”に、受刑者の母親も早く気が付いてほしいと願っています。
今回の母親からの突然の手紙・・・
そして母親の弁護士からの被害者遺族、遺族の祖父母宛てに送られた突然の手紙・・・
そこから何を受け止めればいいのか、僕にはわかりません。