音盤工房

活字中毒&ベルボトムガール音楽漂流記

アブコ秘蔵映像初公開 『チャーリー・イズ・マイ・ダーリン』

2012年11月17日 | インポート

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 この映像(『チャーリー・イズ・マイ・ダーリン』)がどういう経緯で作られたかに関してはぜひともDVDなりブルーレイなりの解説文を読んでみてほしいが、アブコ側の頑なな権利や主張が幾分というよりも、かなりなといっていい程に譲歩したところが大きく、今回完全な形で再現された映像には、当時のストーンズの姿が克明に映像化されており、当初は単なるドキュメント映像に過ぎなかったものが、ライヴ映像が追加されることにより、生々しいストーンズの姿を捉えたライヴ映画として観ることができる。Charlie_is_my_darling

 年代的にもこの頃は、ブライアンがまだリーダーとしてバンドを仕切っていた観が強いが、思いがけない成功に戸惑うメンバーの姿が印象深い。

 1965年というと、UKツアーとしてLP化された『ガット・ライヴ・イフ・ユー・ウォント・イット!』の前年にあたり、映像としてだけではなく、ライヴとしても最古の記録となっている。

 ストーンズは1963年6月、チャック・ベリーの「カム・オン」でデビューを飾った。

 それから遡ること1962年7月にストーンズとしての最初のギグが行われる。

 当時は、まだチャーリー・ワッツもビル・ワイマンも加入しておらず、プリティ・シングスと後にキンクスに加入することになるミック・エイヴォリー、85年にこの世を去るイアン・スチュワートにミック、ブライアン、キースを加えた6人が最初期のメンバーだった。

 デビュー直後の彼らはひたすらロックンロールやR&Bのカヴァー・バンドとしての揺るぎない姿勢を崩さなかったが、当時のプロデューサーであるアンドリュー・ルーグ・オールダムの方針により、ビートルズのようにバンドとしてのオリジナル性を高めるため、ミックとキースにオリジナル曲の製作に取り掛かるように指示した。

 ミックとキースがバンドの舵取りをすることになった以降、次第にブライアンはバンドの中で身の置き場を喪いつつあった。

 それが如実に表れているのは、インタビューでブライアンが語ったいくつかのキーワードでもわかる。

 「フィルムを作りたい」。

 つまり、「俺は作詞も作曲もできない。だから、別の方法でバンドに寄与したい」とも聞こえる。

 そこそこ売れただけならブライアンもそんな考えに至らなかったと思う。

 しかし、ストーンズは予想を超え、当時の若者の心を掴んでいった。

 大規模なツアーで観客を魅了し続けるストーンズに唯一、暗い影を落としているのはやはりブライアンの存在であろう。

 その後に起こる悲劇を思うと、この映像は決して手放しでは喜べない部分も確かにある。

 しかしながらここにはあのころのストーンズの生々しい肉声や姿が浮き彫りにされ、にわかに成功した若者たちの戸惑いや苦悩が生々しい息吹となって伝わってくる。

 彼らも一人の人間だったんだな、とそう思う。

 ブライアンだって僕たちと同じ所詮、迷える子羊だったのさ。きっと。

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YouTube: The Last Time (Charlie is my Darling - Ireland 1965)


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