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根性論や体罰が如何に非効率的か

2013-09-04 20:50:36 | 雑感
根性論。
身体を虐め抜いて精神的にも身体的にも鍛え上げる。
それにより、より強い心技体を手に入れる。
そういう価値観がかなり根強いのは、まだ過去の話しではない。

水を長時間飲まない事で我慢をする事で、
精神的強さを手に入れられるかもしれない。
俺もこの様な体験をした一人である。
しかし、今考えたらおかしいと思う。

精神的な強さというものは、我慢もあれば、異なる価値観を受容する事も必要である。
また、動揺しない強さを備える為には、苦しい場面を勝ち抜かなければならない事もある。
自分で考え打開する精神も必要だ。
以上の事をスポーツを通して学ぶ事もあるだろう。

しかし、コーチなどが精神的なトレーニングの知識がなく、
感覚的に精神的トレーニングを押し付ける事は、門外漢が適当な事を言ってやっているに等しい。
感情的に押し付けるのは、下の下だ。

自分が教えた通りに上手くできない、下手なのに練習が続かず上手くなろうとしない。
そんな感覚にとらわれたとしても、自分の伝え方、練習のやらせ方が下手なのではないか?と、
思わないものなのだろうか。
ここで怒りを感じ、根性が足りない、我慢が足りないと虐待するのは嗜虐と言われても、
仕方ない。


体罰について、少し前に問題になった。
体罰反対と声高に叫ぶ人権団体は多い。

俺は、体罰を全て反対とは言わない。
自分が経験してきた体罰において、感謝している部分がある。

それは、遅刻や忘れ物の際、力の加減としては数分ぐらいは痛さが続く程度のもので、
自分の甘さを指摘されたと思うからだ。
勿論、青痣が残るものでもない。

体罰として問題になる事件がよく報道される。
しかしあれは、暴行などの傷害事件という犯罪の範疇のものだ。
マスコミにも問題がある。あれを体罰として報道する基準の甘さだ。
何故、あれを体罰として報道するのか、理解できない。

体罰とは、受ける側が事前に理解していて、
加える側が感情論に左右されていないという大前提があると思う。

つまり、「怒られた」「注意された」などがあるが、
「叱られた」と「怒られた」では全く違う。
体罰を加える側、教える側と、加えられる側と、
教えられる側が理解して納得しているのかどうかだ。

信頼関係を築く大事さ、これを真摯に大事だと思う。

ちなみに、体罰とは、暴力的以外のものも含まれるが、今回は題材的に除外させて頂く。


体罰にせよ、根性論にしても、厳しい事を言えば、
教える側のコミュニケーション能力や、経験値、勉強の不足だろう。

精神的な強さを手に入れさせたいのあれば、瞑想やマラソンなど、他にも幾らでもある。

厳しく注意したい時もあるだろう。
それで体罰を用いるのも個人的には1つだとは思う。
しかし、絶対に感情的になり、体罰、制裁を加えてはならない。
それは自信の成長も止めるし、受けた側にも不幸でしかない。

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